フラッシュバック
7
「ディスクは銀行の貸し金庫の中だ」
翌朝同じベッドの中で目を開けると敬に告げた。大の男がふたり寝るには、このベッドは少し狭い。
「貸し金庫か。なんなら俺が行ってきてやろうか?」
まだ身体がつらいだろう? と、敬は耳元で気遣うようにささやくことを忘れない。
確かに身体を繋げた部分は甘く痺れたような痛みを残していた。昨夜の証拠を突きつけられているようで、いまいましい気がする。
「キーとパスワードは? 俺が取ってきてやる」
顔を覗き込んで敬が言った。
――そしておまえは、そのままディスクごと消えるつもりだろう?
「キーはこれなんだ」
と、ひらひらと右手を敬の目の前にかざしてやる。
「最新のバイオメトリクスだ。手のひらの静脈パターンで認証する。もちろん生体反応がないと働かない。生きている俺が行かないとだめだ」
ぽかんとして敬がこちらを見返した。
「だから一緒に行こう」
『カイト』は余裕の微笑みを敬へと向けた。
都心のまん中にあたるこの地区は、文字通り東京の中心であり、銀行が異様に集中している場所だった。地下鉄の大手町駅で地上に上がると、『カイト』は敬を伴って、ある地方銀行のひとつへと入っていった。
地味めな外観のこの場所に、最新設備を整えた貸し金庫があるとは、意外性をついたうまいやり方だ。きっと敬の予想を越えていたことだろう。
「ロビーで待っててくれ」
敬にそう言い残すと、行員に案内されて『カイト』は貸し金庫の部屋へと向かった。
入口の入退室システムにパスワードを打ち込んでスクリーンに右手をかざすと、あっさりと認証されてドアの電子カギが開いた。
貸し金庫の個別のボックスに、さらにパスワードを入力すると、小さなボックスに納められたディスクが現れた。
――たかが、ディスクだ。
ひとり呟いて『カイト』は少し唇をゆがめた。
おまえが欲しかったのはこれか、敬?
ロビーでは冴島敬が待ち構えていた。
「ディスクは?」
「これだ」と、内ポケットにいれたディスクを少しつまみ出して見せてやる。そのままポケットに納めてしまったのを、敬が怪訝そうな目つきで見た。
「おまえには渡せない」
「なんだって?」
「これは俺の獲物だからな」
「カイト……」
と、敬は戸惑ったような声を出した。
「それに俺はおまえの『カイト』ではない。俺の名前は、庵原満澄だ」
端正な容貌から戸惑いの表情を霧散させて、冴島がきらりと鋭い双眸を光らせた。
「――いつからだ。いつ記憶が戻った?」
満澄は薄く笑って言った。
「都合良く、ディスクのことだけを思い出すとでも思ってたのか?」
そんな訳ないよな、と鼻先で微笑ってやる。
「じゃあ、ここでさよならだ」
有無を言わせず、満澄は敬に背を向けるとロビー正面出口へと歩を進めた。
「待て、満澄っ!」
思わず叫んで追いすがった敬を、その場ににいた客や行員が何ごとかと見やった。
「おいおい、みんなが見てるぞ。衆人環視の中どうするつもりだ?」
そう言いながらガラスのドア越し、満澄は銀行ロビー前の道路に、白いセダンが滑り込んできたのを見た。
――午前十時。時間ぴったりだな。
運転手は社長の間宮だった。後部座席にいるのは美里だろう。
自動ドアを通り抜け、外まで後を追ってきた冴島敬を振り返り満澄は言った。
「借りは返したぞ」
「――足りないな」
呟いた冴島敬は、精悍な顔を悔しそうにゆがめた。
「……全然足りない」
満澄は唇に淡い微笑を浮かべて応じると踵を返した。肩ごしに最後の言葉を投げる。
「千代田区は路上禁煙だ。じゃあな」
くわえかけてた煙草を、敬はぐしゃりと握り潰した。
「満澄」
と、助手席に乗り込んできた満澄を見るなり、間宮が言った。
「どうしておまえが冴島と一緒にいる。天敵だろう?」
「話せば長い」
あっさりと答えて、満澄は内ポケットから裏帳簿のデータを納めたコンパクトディスクを取り出した。
「戦利品」
そう言って、後部座席の美里に放って寄越す。
落とさずに上手にキャッチした美里が、長い睫を瞬かせて訊ねた。
「満澄さん、だいじょうぶ?」
「なにが?」
「え……なんか、いつもの満澄さんと違う」
――何が違うというんだ? そんなことある訳ない。
ルームミラー越しに、小首をかしげる様子の美里を見て、満澄は答えた。
「美里に会うのは久しぶりだからな。気のせいだろ」
――たかがあんなことで、俺が変わるはずがない。
社長の間宮にはいろいろと説明しなくてはならないだろうな、と満澄は内心ため息をついた。間宮はふたりのやり取りを聞きながら黙って運転を続けている。
「なあ、社長。あんた『カイト』っていうヤツ知ってるか? たぶん裏社会の住人だと思うが」
「カイト? カヅキじゃないのか?」
「ああ、『カイト』だ」
間宮はしばらく考えているような素振りを見せると、
「そんな殺し屋がいたかな」
と答えた。
『殺し屋』と聞いて、後部座席の美里がびっくりして固まっている気配がする。
「単なるうわさだぞ」
とは、間宮が美里へと向けた言葉だった。
「――そんな名前だった気がする。ここ最近は聞かないな」
「そうか」
――消えたか、消されたか。
冴島と『カイト』がどんな関係だったなんて俺は知らない、と満澄は思った。
――知りたくもないな。
「その『カイト』やらがどうした?」
間宮に訊ねられて満澄は仕方なしに答えた。
「俺のライバルらしい」
「ライバル……? なんだそれは」
「さあね」
それっきり、満澄は車窓の外の乾いた冷たい風が吹き抜ける街並に目をやったまま、事務所に着くまで何もしゃべらなかった。