遠い花火

 日中はクーラーをつけっぱなしにして締め切られていた窓は、いまは大きく開け放たれていた。窓際のソファに陣取って勝手にくつろいでいる男がそうしたのだ。いくぶん涼しくなった夜風がときおり吹き込んで、男の髪を揺らしていた。道路を走る車の音や街のざわめきに紛れて、遠くから聞こえる独特の音は打ち上げ花火だ。毎年恒例の大掛かりな花火大会が、ここからかなり離れたベイエリアで始まったのだ。
  満澄はそんなイベントに行ったことはなかったし、行くつもりもなかった。行き帰りの混雑を考えただけでうんざりするからだ。せっかくの休日、部屋でのんびりビールでも飲んでいた方が性に合っている。
  満澄が冷蔵庫から出して手渡してやった缶ビールを一口すすって、冴島は窓の外に目を凝らしていた。缶ビールに冷えたガラスコップを添えてやるくらいの才覚を満澄が持ち合わせていない訳ではなかったが、そこまで冴島にしてやるいわれはないような気もする。
  ジーンズにタンクトップの重ね着という軽装の冴島は、こうして見るとその辺にいる若者とまったく変わりはない。満澄が休日でマンションにいるときを見計らってか、近ごろ冴島はふらりとやってきてはこんな風に満澄の部屋で過ごしたりするのだ。
  だからといって、いつも一緒に寝ている訳ではない。無理やりされた満澄が一度殴り返してからは、冴島は満澄のことを強姦まがいのやり方で抱くことはなくなった。

「花火を見に来た」
  と、この日の夕方、満澄のマンションに現れた冴島は言った。
「だったら会場を間違えてるぞ」
  親切に教えてやったのに、冴島は精悍な容貌に不敵な笑みを浮かべて続けた。
「あんたの部屋からだと、見えるかもしれないと思って」

 

 追い返してしまえばいいのに、そうしない自分自身に満澄はしばしば戸惑いを覚える。
  ――この男に命を助けられたからだろうか。借りがあるから、おれはこの男を本気で拒めないのだろうか。
  だからと言って自分が同じ男の、しかも四歳も年下の冴島に抱かれる理由にはなりはしないだろう、と満澄は思う。
「見えるのか?」
  枝豆の小鉢を冴島の前のローテーブルに置いて、満澄は訊ねた。昼間スーパーで枝つきのままを買って来たのを、たったいま自分で塩ゆでにしたものだ。
  緑も鮮やかに色良くゆで上がった枝豆を見やり、それから満澄の顔を見て冴島が訊き返した。
「なにが?」
「花火に決まってるだろう」
  ぼんやりした返答に、満澄が不審げに眉を寄せると、冴島は「ああ……」と言った。どうやら外を眺めながら何か考え事をしていたらしい。
  冴島が見ていた方向に目を移すと、立て込んだビルの隙間の上空に花火の全円ならぬ上弦の一部が、赤や緑に彩られて見え隠れしていた。少し遅れて花火が破裂するときの音が遠くに聞こえる。
「なんだ、ほとんど見えないのと同じじゃないか」
  満澄が言うと、冴島は端正で男っぽい口元を皮肉にゆがめた。
「見えないところは想像して楽しむんだ」
  まるで満澄本人が切り返しに言いそうなセリフを逆に言われて、一瞬満澄はことばに詰まった。
「……ひねくれてるな」
  悔し紛れに応じると、冴島が面白そうに笑った。冴島はよくこんな風に笑う。精悍な表情に、不意に屈託のない笑顔が浮かぶのを見ると、満澄は訳もなくどぎまぎしてしまうのだ。
  ――誰の前でもこんな風に笑うのだろうか……?
  この男の素性を考えたとき、満澄は違和感を覚えずにはいられない。
  冴島は瀬川のグループに所属していて、目下のところは表立って某社長令嬢のボディーガードをやっているようだが、美里が拉致されたときのようなあちらのグループの荒っぽさを考えると、冴島がこれまで何をやってきたのかなんてことは、満澄には怖くて訊けないことなのだった。
  満澄だって裏社会に足を突っ込んでいる以上、一般人の感覚から言ったらかなりヤバイことだって色々経験しているのだが、あからさまな暴力沙汰に出くわすことはそれほど多くはない。
  しかし、冴島は明らかに『暴力慣れ』しているのだった。例えば、満澄のような体格の大の男を、冴島は一瞬で組み伏せることができるのだった。もしこの上に、冴島に何か武器を扱う知識や経験があったとしたら……。
  そうなればもう、満澄にとって冴島は人種の違う人間ということになる。

「どうした、ぬるくなるぞ」
  自分の分の缶ビールを持ったまま、考え込んでいたらしい。冴島の声に我に返り、満澄も腰を降ろすと、缶ビールのプルタグを引いた。
  ふたりで黙ったまま枝豆をつまみ、ビール飲んだ。夜風が気持いい。すぐに手元のを飲み干し、満澄はキッチンに行って冷蔵庫から新たにふたつ、よく冷えた缶を取り出した。ひとつを冴島に渡して、また黙って飲む。
  遠雷のように、打ち上げ花火の音が風に乗って流れて来る。花火自体は見えなくても、音だけはよく聞こえるものだなと、満澄は思った。
「なあ」
  と、冴島が言った。
「なにを考えている?」
「おまえこそ」
  と、満澄は答えた。
  ――『花火を見に来た』などと、とぼけたことを言って。
「泊まっていってもいいか?」
  さり気なく訊ねた冴島に気取られないよう、満澄は充分注意を払って内心の動揺を隠しつつ答えた。
「……好きにしろ」

 『泊まっていく』ということは、奴は朝までここにいるつもりということだな、と満澄は今更ながらに考えた。
  まったく今更なのだが、自分のベッドの上で組敷かれてしまっても、まともに冴島の顔を見ることができなくて、あらぬ方へ眼を彷(さま)徨(よ)わせてしまうのはなぜだろう。
「どうして欲しい?」
  首筋に口づけながら、余裕のある声で訊ねる冴島が憎らしい。そんなことを言いながらも、冴島の右手は器用に満澄のスラックスの前をくつろげて、アンダーウエアの中に侵入していた。
「……ッ、う…」
「――前からがいいか? それとも後ろから
?」
  卑猥な質問を耳朶に吹き込まれて、びくりと満澄は身体を震わせる。
「…っ!」
  答えられない満澄に、冴島は呟くように「わかった」と言って満澄の膝裏を抱え上げた。
「両方だな?」

 

「あぁっ!」
  繋がったところから濡れた音が聞こえた。思わず声を上げてしまっただけでも恥ずかしいのに、酷く感じる箇所をわざと音を立てるように擦りながら捏ねられて、満澄は目尻に涙をにじませ身悶えた。
  ぐしょぐしょに濡れて滑(ぬめ)っているから痛みはなかった。どこに隠し持っていたのか、なにか潤滑剤のようなものを散々塗り込まれて、思いがけず深い接合で、今は前から冴島を受け入れさせられている。
  冴島の逞しいものに内臓の奥まで抉られるように突かれ、それから引き抜かれて、思う存分蹂躙される。
  体格のいい男の、ふたり分の体重を支えかねるようにベッドがきしんだ。
「さ、…さえじっ、ま…」
  苦しい息の中で満澄が呼ぶと、「敬だ」と冴島が言った。
  言いながら、冴島はさらに満澄を攻め立てる。
「あっ、あっ、あっ、あぁっ」
  急激に追い上げられて、その名前を呼ぼうにも喘がされるばかりでことばにならない。
  クライマックスを迎えた花火大会の、最後に盛大に打ち上げられる一尺玉が弾けるみたいに、脳裏が閃光して満澄は何もわからなくなった。

 眼を開けると、暗がりの中で冴島がこちらをじっと見下ろしていた。
  静かだった。もう花火の音は聞こえない。
「敬……」
  掠れた声が出ると、冴島は男らしい表情に満足そうな微笑を浮かべた。
「よかったか?」
  思わず頷きかけて、「…いや」と羞恥から満澄がことばを濁すと、
「どっちなんだ」
  と不敵に笑った。
  ――こんな表情(かお)、誰にでも見せる訳ではないと思う。
  何の根拠もなく唐突に満澄は確信して、本気でこの男を拒めない理由がわかった気がした。

 

END