宵闇鬼と姫巫女 (1)

序 章

「ようやく見つけたぞ」
  その声に、時間が止まった常世(とこよ)の薄闇の中で、鎖に繋がれ、ぐったりとしていた薄絹の女は、ハッとしたように白い顔を上げた。
「新しい姫巫女だ。美しいおまえに瓜二つだな」
  猫科の獰猛な獣が獲物をいたぶるかのように、男は喉奥でくぐもった笑い声を立てる。
「手間取らせてくれたものよ。おまえのような力を失った姫巫女に、もはや用はない。次の姫巫女がよもや男だったとは思わなかったがな」
「お願い、息子には手を出さないで」
  哀願する女を酷薄そうに見下ろしているのは、総髪に着物姿の眉目秀麗な青年だった。まとっている着物の形や柄にはどこか異国の雰囲気がある。知識のあるものが見れば、それは飛鳥や奈良の時代に大陸から伝えられた意匠(デザイン)に似ているものだと気づいただろう。
  しかし、何よりも男を特徴づけていたのは、漆黒の黒髪からのぞく二本の象牙色の角だった。
  青年の姿をしているのは、古来より<鬼>と呼ばれる異形のモノだ。
「忘れたのか。おまえたち姫巫女の一族とわれら闇の一族は、光と闇、表裏一体の対のもの。いつまでも角突き合わせているのは無粋だろう?」
  宵闇(よいやみ)と呼ばれるこの<鬼>は、闇の一族の長であり、古の時代から姫巫女一族の宿敵だった。
「姫巫女をわがものとし、この世とあの世を統べてみせようぞ」
  不敵な宣言に蒼白となった女を、宵闇はさも面白そうに見やって言った。
「そうだ、目の前でおまえの息子を犯してやろう。楽しみにしているがいい」

  何か奇妙な夢を見ていたような気がする。
  思い出そうとすると途端に色や形を失って、手からサラサラとこぼれる無機質な砂のように、記憶からすり抜けてしまった。もどかしい気持ちで、篠葉澪(しのは れい)は自分のベッドから上半身を起こし、小さくため息をつく。
  薄手の夏布団を跳ねのけて寝ていたせいか、肌の表面が冷たくなって全身がだるい。夏風邪の引きはじめのような感覚だった。パジャマ替りの綿の半袖Tシャツが、しっとりと寝汗を吸っている。
  澪は切れ長の瞳をすがめて鳥肌が立っている自分の腕を見つめた。
  夏の強い日差しにもほとんど日焼けすることのない白い肌。二十という年相応にしなやかな筋肉のついた身体だが、容姿はどうやら母親に似たようで、「儚げな美人」だと大学の友人たちにからかわれることもある。中身はごく平凡な普通の男なので、澪としては心外だ。
  どうやら母親似だというのは、写真でしか見たことがないからである。
  それも、つい先日のことだった。たった一枚だけ残されていた古い写真は、父の書斎の本棚にあった書物に秘かにはさまれていた。それを偶然見つけたのだ。
  いまのようなデジタル写真ではなく、昔の、ネガフィルムから印画紙に焼き付けられたカラー写真だった。
  少し色あせた写真の若い女性は、たぶんいまの澪と同じくらいの年頃だろう。白地に朝顔柄の清楚な浴衣を着て、長い黒髪をひとつに束ね、胸の前に垂らしている。くっきりとした目鼻立ちはかわいらしい雰囲気だが、瞳には意志の強そうな光が宿っているのが印象的だった。そしてその腕には、まだ生まれて間もない小さな赤ん坊を抱いていた。写真に焼き付けられている日付は二十年前の晩夏。
  これはぼくだ、澪は直感した。そしてこの女性が自分の母なのだと。
  物心ついた頃すでに澪には母親が不在だった。家族は父と祖母の三人で、特に祖母は澪のことを溺愛していた。澪は、ひどい母親に捨てられた不憫な子だと祖母に言われて育った。
  母について澪が断片的に知っているのは、ほとんどがこの祖母から聞かされた話で、どれもあまり楽しいものではなかった。産まれて間もない乳児の澪を置き去りにして蒸発してしまったと言われても、誰にも本当の理由はわからず、だから澪が自分を捨てた母を恨んでいるかと訊かれても、よくわからないというのが正直なところだ。
  父の聡は、自分の妻について話したがらなかったが、失踪した妻を疎んでいるからではなく、困惑や未練が混ざり合った何か複雑な感情を持っているように澪には感じられた。少なくとも若くして離別した元妻のことを忘れて、再婚しようと考えたことはなかったようだ。
  ひっそりと隠されていた写真は、不用意に父の複雑な心の内をのぞき見してしまったようで、澪は罪悪感すらおぼえて写真のことは黙っていようと思ったのだ。
  澪が通う私立大学は、七月からの長い夏休みに入ったばかりだった。特に予定を入れていない今日は、そういえば誕生日だったなと思い出す。
  澪としては誕生日だから何か特別なことをしなければと、強迫観念にかられることはない。彼女でもいれば、誕生日にかこつけて遊びに出かけるところだが、いまのところ真剣に付き合いたいと思う相手はいなかった。大学では、どちらかといえば内向的な澪に興味を持ってくれる女子たちもいたが、告白されることがあっても個人的にピンとこなくて、誕生日なのに予定がないと世間では思われる状態が続いている。別に不便には思わない。いわゆる草食系なのかなと、自分でも思う。
  ――今日から二十歳か。もし何かやらかしたら、名前が出るようになるのか。
  ふとそんなことを考えたけれど、二十歳の誕生日の感想としては間が抜けているだろうか。
  しばらくベッドでぼんやりとしていたことに気づいて、そろそろ起きようかと決意したとき枕元のスマートフォンが着信を告げた。ニューヨークに単身赴任している父の聡(さとし)だった。
「澪、起きてたか? 誕生日だな、おめでとう」
  時差があるから現地ではまだ前日の夜のはずだが、澪が起きるころを見はからって電話してきたのだろう。澪に母親がいなかったせいか、昔から父の聡は澪の誕生日などのイベントにも、ことさら気をつかうタイプだった。

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