宵闇鬼と姫巫女 (3)

――何なんだ、何なんだ!
 心臓が激しく脈打ち、奇妙な現実感のなさに、澪は悪夢でも見ているのではないかと思う。
 何が起きているのかさっぱりわからないが、自分の身に危険が差し迫っているのは本能的にわかった。玄関ドアのロックを外そうとする手が震えて、気ばかり焦る。
 夢なら早く醒めてほしい。
 けれども手汗ですべるドアノブの感触はリアルで、とても夢だとは思えなかった。
 あの黒い影のような男は何者なのだろう?
 ぼくのことを「姫」と呼んだ?
 カミ……なんとか、カミヅカ……の姫? 誰かがぼくのことを待っていると言った気がする。
 それから助けるように飛び込んできたあの高校生は?
 ようやく開錠して外へ走り出そうとした澪は、自分が裸足だと気づき、靴箱からあわててスニーカーを取り出すと脚を突っ込んだ。
 玄関のドアを開けると、右手側は枝ぶりのいい松と大きなしだれ桜に、ミニチュア版の枯山水を配した凝ったつくりの和風の庭になっていて、数メートル先の敷地の門までのアプローチには天然石が敷き詰められている。
 不審者と見知らぬ少年が対峙しているリビングは、この住居建物をはさんだちょうど反対側の中庭の方だが、ここからだと戦っているような物音は聞こえない。ただ、張りつめた気配が背後から澪の背中を圧迫していて、後ろから突き飛ばされるように門まで走った。
 少年に「逃げろ」と言われて澪は、とにかく近所のひとに助けを求めるか、通りすがりのひとに一一〇番通報をしてもらうつもりだっだ。
「ひっ!」
 澪の手が門扉のかんぬきに掛かろうとしたとき、突如そいつが目の前に降り立った。
 さっきの影のような男――いや、違う。ひとの形が崩れて、いまは黒いノイズのようなかたまり――が、両手をひろげて澪をとらえ抱きすくめようとする。間近にせまったそれを見て、ぐにゃぐにゃといびつなひとの形がぶれて輪郭がはっきりしない理由がわかった。
 ひと形の核になっているものはおそらく朽ちた人骨か、獣の骨だろう。それをあたかも生き物のように肉づけているのは、黒くうごめく無数の甲虫や節足動物の大群だった。
「逃さぬ……ぞ……!」
 澪にのばされた手からぼろぼろと黒い虫がうごめき落ちる。
 耳障りなきしんだ声をあげて立ちふさがる異形のモノに、だしぬけに澪はすさまじい嫌悪感をおぼえた。怖ろしいというよりは、ただただ気持ちが悪い。
 何か不浄なものに浸食される錯覚におちいる。
「嫌だっ、来るな!」
 叫んだつもりだったが、ほとんど声にならなかった。
 しかし、つかみかかってきた手を必死に振り払ったとき、ひどい静電気が起きたときのようにバチッと音がして、青い焔が上がり、虫がうごめく異形の腕をボッと音をたてて火が舐め燃え広がる。
 青い焔に異形のモノは全身が包まれ燃え上がった。恐ろしい悲鳴を上げ、門扉をつきやぶるともがきながら通りに転がり出る。ごろごろとアスファルトの上をのたうつ異形のものは、火を噴く人形となり、絶叫はやがて隙間風のようにフェードアウトした。
 あたりに立ち込めた異臭が鼻をつき、澪は呆然と立ち尽くす。
「キャーっ、ひと殺し!」
 犬の散歩に出てきていた近所のおばさんの金切り声で、澪は我に返った。
 それが自分に向けられた言葉だと認識するよりも早く「逃げろって言ってるのに!」と、苛立たしげな声を出した少年に、無理やり手を引かれ走っていた。

つづく…