怪談

  こんな偶然もあるものかと、冴島は思った。ふらりと夜更けに訪れたマンションの、玄関ドアを開けてくれた満澄は涼しげな浴衣姿だった。
「なんだ浴衣なんか着て」
  と、当の満澄は冴島を見るなり言った。
  冴島は例の社長令嬢のお守りの帰りだった。彼女が浴衣で夏祭りの出店(でみせ)を見たいなどと言い出すから、ボディーガード役の冴島も、付き合いで浴衣を着せられたのだった。
  彼女を自宅に送り届けた後、なんだか気が向いて満澄を訪ねてみると、なぜか満澄も浴衣姿で出てきたのだった。
「奇遇だな」
  にやりとして冴島が答えると、満澄は太い眉を寄せた。
「――和装のあんたと一度ヤってみたかったんだ」
  鼻先で玄関ドアを閉められそうになって、慌てて冴島はドアの隙間に足をつっこんだ。
「冗談だから開けてくれ」

 この夏、冴島が満澄の部屋を訪れるのは二度目だ。最初は夏の始まりの花火大会の夜で、花火を口実に満澄のマンションに上がりこんだ。
  今夜は夜風がもう秋のようで、日中の暑さは残っているものの、季節の変わり目を感じさせる人恋しさに、自然と足がこちらに向かったのかもしれなかった。
  そうと気づいたのは、満澄の顔を見てからだったが。
「あんたも夏祭りか」
  キッチンのテーブルの上に置かれた赤い硝子細工のようなりんご飴を見つけて、冴島は訊ねた。
「それか? 連れに持たされた」
「連れ?」
  思わず聞き返すと満澄は苦笑した。
「うちの社長と美里だよ」
「ああ」
  と、冴島は納得の息をはいた。実は一瞬おかしな想像をしてしまった。満澄が浴衣姿の女性と歩く絵を。
「浮気されたのかと思った」
「なにが浮気だ」
  満澄が食いついてきたが、冴島は薄く笑って聞き流す。

「それで、何の用だ?」
「別に。……用なんてない」
  ソファで勝手にくつろいでいた冴島が即答すると、キッチンの満澄は怪訝そうな顔をしながらも冷蔵庫から缶ビールを二個取り出してきて、そのうちの一個をこちらによこした。
「おまえ、熱帯魚の世話の後はいつもうちに来るな」
  向かい側に座りながら満澄が言った。行動パターンを読まれている。冴島が浴衣を着ている訳が満澄にはわかったらしい。
「そうだったかな」
「なんでだ?」
「さあ…?」
  冴島は適当に答えたが、本当は理由があるのはわかっていた。
  ――寂しい熱帯魚の相手をした後は、妙に人恋しくなるのだ。
  満澄の顔が見たくなるのだ。
  できれば抱きしめて、口づけたい。
  自分の楔を満澄の身体に埋めて、満澄の熱を直(じか)に感じたい。
  もしも満澄がそれを許してくれるのならだが……。
  もう無理やり押し倒したりしないと決めているので、冴島はそれ以上考えないことにして満澄に言った。
「なにか話をしてくれ」
「話? ずいぶんと藪から棒だな」
  と、奥二重の双眸をすがめて、満澄は缶ビールに口をつけながら応じた。
「……よし。じゃあ、最近仕入れた怪談を聞かせてやる。願い事がかなうという古い掛け軸の話だ」
  満澄はもったいぶるように微笑してから語り始めた。
「その絵が描かれたのは、いまから五百年ほど前の戦国時代だ。描いたのは旅の僧で、乱世の国々を行脚して、戦で命を落としたものたちを供養していた……」

     ***

 ある夜、若い旅の僧が美濃(みの)(現在の岐阜県)の山中を歩いていると、ふわりと小さな青白い光が暗闇に浮かぶのが見えた。
  ――蛍か……。
  近くに谷川でもあるのだろう。喉の渇きを覚えた僧は、ふわりふわりと漂う青白い光に誘われるように、脇道へと入っていった。
  と、何者かが小さく呻(うめ)くような声がする。耳を澄ますと微かに「うえさま……」と聞こえる。声のする方を見ると、ぼうっと青い鬼火が燃えて落武者の姿になった。
「なぜそのような姿で山中をさまよっておるのか?」
  旅の僧が亡霊に声を掛けると、落武者の霊は哀しげな表情で訊ねた。
「某(それがし)はどのような姿をしているのでしょうか」
  ――おそらくこの霊は成仏できずに長い間現世をさまよっているのに違いない。それで、ひとであったころのおのれの姿を思い出せないのだろう。
  憐れに思った僧は筆と紙を取り出すと、落武者の似姿を描いてやった。
「……これが…某…?」
  亡霊は僧の描いた自分の似姿を見ると、何かを悔いているように涙を流した。
「ひとの身が滅びてしまってもその様にさまよっているには訳があろう。この拙僧に包み隠さず話してみよ」
  すると亡霊は、まだ歳若い主君に恋焦がれていたこと、戦いに敗れて落ちていく途中でその主君を思い余って陵辱したあげく手にかけてしまい、自刃して幽鬼と成り果てた経緯(いきさつ)を話した。

「後悔しておろう? そなたの罪を贖(あがな)いたいか」
  語り終えた亡霊に僧が訊ねると、亡霊は足元にひれ伏して答えた。
「贖えるものなら、どんなことをしてでも贖いとうございます」
  旅の僧はいましがた自分が描いた絵を指差して言った。
「この絵に宿るがよい。ひとには百八の煩悩があるという。そなたはこの絵に宿り、煩悩の数と同じだけ、人々の望みを叶えよ。百八の願いを叶えたあかつきには、そなたが成仏できよう」
  こうして武者の亡霊は絵に乗り移り、僧に携えられて諸国を旅することとなった。
  行く先々で、亡霊が乗り移った絵は人々の望みを叶え、絵を描いた旅の僧はありがたい高名な僧として人々から崇(あが)められた。
  やがて僧は年老いてこの世を去った。しかし願いを叶えるという絵は残され、それから長い年月の間、人の手から手へと渡り歩いた。
  絵は擦り切れ、修復を繰り返されて他人の手が加えられ、元の武者の姿はとどめていなかったのだが、不思議なことに、絵は見る者によって描かれている人物の姿が変わるのだった。
  思いを遂げたいと心から願う相手が、その絵の中に現れるのだという……。

     ***

「今でもどこかの寺だか、旧家だかの蔵の中で、その絵は掛け軸になって眠っているそうだ」
  と満澄は締めくくって、缶ビールの残りを飲み干した。
「――その願う相手というのは、死んでいる人間でもいいのか?」
  それまで黙って聴いていた冴島が訊ねた。
「えっ…?」
  冴島が思いのほか真剣に話を聴いていたことに気づいたらしく、満澄は眼を瞬かせた。
「もう会えないから、夢の中でもいい、ひと目逢いたいと願うもんじゃないのか?」
「………」
  らしくないことを言ったらしいと冴島が思い当たったのは、満澄がじっと無言でこちらを見つめたからだった。
「だれか……いるのか? 逢いたい人間が」
  満澄の問いかけに、今度は冴島が眼を瞬かせる番だった。
「――妬いているのか?」
「そんなんじゃない」
  つっと、視線を逸らして満澄は答えた。
  満澄は冴島の過去を知らない。冴島は語るつもりもない。もし知れば、きっと満澄は自分から離れていくだろう。
  潮時(しおどき)――という単語が、ふと冴島の頭をよぎった。たまに会って身体を重ねる冴島と満澄の関係は、もう一年近く続いていた。
  最初は冴島の好奇心だった。自分と同じ裏社会に片足をつっこみながら、満澄には冴島と決して相容れない清々しさがあった。どんな汚泥にまみれても、満澄がその色に染まることはないだろうと冴島は思う。
  そんな男を自分が組み敷く加虐の悦びは、始めのうちこそ倒錯した満足感を冴島にもたらしたが、いまとなっては苦しい気がする。
  さっきのように、満澄がこちらを気遣うような素振りを見せるときはことさら――。
  潮時か……。
「冴島」
  名前を呼ばれて、束の間の物思いから我に返った。
「何を考えてる」
  冴島の傍らに来て満澄が訊ねた。
「あんたこそ何――」
  と口を開きかけた冴島は、ふいに唇をふさがれて瞠目した。満澄がソファの背後から、強引に冴島の顎を捉えて口づけたのだった。
「…っ」
「おまえのことだ」すぐに唇を離して満澄は言った。
「おまえのことを……考えている」
  呆然として冴島は満澄の顔を見上げた。
「なぜそんな眼をする」
  奥二重の双眸を眇めて満澄は問うた。
「そんな眼……?」
「――迷子の、……子犬みたいだ」

 

「……っ!」
  立ったまま壁際に押しつけて首筋に噛み付くと、満澄は小さく呻いたが文句は言わなかった。
「やっぱり犬だ……」
  苦笑まじりの吐息とともに呟いた満澄の喉元に舌をはわせ、冴島は浴衣の襟元に手をいれた。荒々しく満澄の身体をまさぐると、満澄の浴衣は乱れて裸の上半身があらわになった。
「んっ」
  胸の小さな突起に爪をかけると、満澄はぴくりと背中を強張らせる。指の腹で円を描くようにこねながら首筋を強く吸うと、満澄はくぐもった息を洩らした。
「ふっ……、冴…っ、島……」
  喘ぎながら満澄は冴島の背中を抱き寄せる。
「あっ…」
  薄い布越しに急所を握り込まれ、一瞬身をすくませた満澄の身体を冴島は裏返し、自分に背中を向けた格好で壁に手をつかせる。
  浴衣のすそを割り下着を剥ぎ取ると、上下をはだけられた浴衣は腰紐のみで満澄の身体に結わえられた布地となった。
  全裸より扇情的な姿態にそそられて、冴島のモノは硬く張り詰めていた。迷わず背後から腰を進め満澄の中へと楔を打ち込む。
「くぅ…っ!」
  ろくに慣らさずに捩じ込まれた満澄は、苦痛の声を上げこそすれ、抵抗はしなかった。
  満澄の中は熱く、うねるように冴島を迎え入れる。満澄は浅く息を吐きながら引きつった筋肉を緩め、狂暴に昂ぶった冴島の侵入を許した。
  そんな仕種に胸を衝(つ)かれる思いで、冴島は満澄の快感を引き出そうと、兆し始めている満澄のそれに右手をのばした。
「ん…っ」
  と、満澄が背をのけ反らす。
「満澄……」
「う…っ、あっ…、…あぁ…ッ」
  前を直に愛撫しながら後ろから突き上げると、満澄は堪えきれない喘ぎ声を切れ切れに上げる。背後から何度も貪るように、冴島は満澄の身体を貫いた。
  潮時か――。
  冴島が頭の隅で呟いた言葉は、満澄から与えられる快感にさらわれて、今は白く泡立つ波に飲み込まれて行った。

 

END