KA・ I ・TO

  約束は果たされないだろう。
  それは予感ではなく、どこか確信めいたものだった。
  林立する高層ビルの谷間を吹き抜ける寒風が、公園のケヤキの枝を揺らし、枯れ葉を蹴散らし、俺の身体をすり抜けていった。日が落ちて、人工的な灯りが冷たい煌めきを放ち始める。
  ――きっとあいつは来ない。
  たぶん、最初から俺にはわかっていたのだ。

 

 男が足下に転がっていた。もっと正確にいうとさっきまで息をしていたはずの男で、今は血溜まりを作ってただの死体になっている中年男だ。厄介なことに、――あるいはひょっとしたら手間が省けたことに――この男は俺の標的だ(ターゲット)った。
  人目に着かない路地のアスファルトの上に、たったいま、標的は転がったようだった。そしてそこにはもうひとり男が立っていた。
  若い男だ。通った鼻筋に涼しげな目元、形の良い唇と細い顎。細身だが、背は俺と同じくらいだからけっこう高い。
「あんたが殺(や)ったのか?」
  状況から判断しての当たり前の質問だった。
  男は切れ長の、色素の薄いガラスのような眼で俺を見返した。そういえば肌も白い。白人の血が混じっているのかもしれない。
  同じく色素の薄い唇に、淡い微笑が浮かんだ。
「きみの獲物だった?」
  思ったより低音の、しかしよく通る声だった。『きみ』と呼ばれて俺は少々面喰らった。確かに目の前の男と同年代には違いない。
「そう思っていたが、どうやらこの男は人気者だったようだ」
  と、俺は足下に視線をやってから言った。
「どこの組織だ?」
「僕? フリーだよ」
  まるで生まれ月の星座でも訊かれたときのように、男は軽く答えた。

 男は『カイト』と名乗った。
  本名かどうかは訊ねなかった。どっちでもかまわなかった。所詮、行きずりだ。俺は『敬(たかし)』だと本名を告げた。
  ことの次第を話し合うために、俺達は手頃な店に入って少し飲んだ。しかし実際は標的を消すことができたので、どちらが手をくだそうと問題はないのだった。お互いの依頼者(クライアント)が満足すればそれでいいのだ。
  話はそれだけだった。スコッチを舐めながら、ふたりとも話すことがなくなると、あとは互いに絡んだ視線の意味を確認した。解釈に間違いはないようだった。

 ホテルの部屋に入ると、暗がりの中で俺は無言でカイトをベッドに押し倒した。かなり乱暴だったがカイトはくすくすと笑い声を上げた。白くしなやかな首筋に噛みつくように俺は口づけた。
「笑うなよ」
  恫喝するようにささやいて、俺はカイトのシャツを脱がしにかかる。手間取るかと思えば、カイトが自らボタンを外していた。ついでだからスラックスもアンダーウェアも、全部いっきに剥ぎ取ってやった。
  カイトの細い裸体が薄闇に浮かびあがって、俺は息を飲んだ。その肌の白さと、それとは対照的な、体中に残る虐待の痕跡に。

「早く来て……」
  下になっていたカイトが、呆然としている俺の頭を掴んで引き寄せ口づけた。柔らな舌が口腔に侵入して、欲望を呼び戻した。
「こういうのが好きなのか?」
  縛られた痕が残る手首を掴み、俺は訊ねた。カイトの身体に残されているのは、明らかに性的虐待の痕だった。
  カイトはどこかぼんやり、虚ろな瞳で俺を見返した。
  ――ガラスのような眼だ……。
「……痛くないと、生きてる気がしない。自分が生きてるのか死んでるのか、……ときどきわからなくなる」
  呟くように答えて、カイトは俺の背中に両腕を回した。
「酷くして――」
  耳元でささやかれ、俺は脱がしたカイトのシャツを捻ると、その両手を頭上でまとめて縛り上げた。

「……あっ、う、ああっ!」
  ろくな前戯もなしで俺はカイトに自身を捩じ込んだ。無理やり押し開くと、悲鳴を上げながらも抵抗する気のないカイトの局部は、すぐに柔らかくなった。絡み付く粘膜を蹂躙しながら、強引にそのまま貫いた。
  奥まで突き刺されてカイトはずり上がってのけ反り、また悲鳴を上げ、両手を縛められたままもがいた。
「あっ、あっ、あっ……!」
  かまわず俺は腰を打ちつけた。両足を大きく開かせ、カイトの中を深く穿つ。
「あっ、あうっ、もっと……痛くしてっ!」
  泣きながら、カイトが懇願した。
  形の良い眉を寄せ、きれいな顔を苦痛にゆがませて、カイトは喘いだ。
「……っ、もっと! あっ、……ん!」
  唇を塞いで黙らせた。乱暴に突き上げられて乱れるカイトは、残酷な征服欲を煽ったが、同時に痛々しく、このままでは細い身体を壊してしまいそうだった。
  唇を離すと、抱きしめたまま動きを止めた俺に、カイトが泣き声を上げた。
「……やっ! ……止めないで――。酷く……して!」

 ――苦い……。
  マルボロの味がいつも違って感じられて、俺はそれを灰皿に押しつぶした。カイトが望んだ通りに、そう抱かされたはずだったのに、重苦しい何かが胸につかえているようだ。
  白い肌に醜く散らばる皮下出血や、打たれたり、拘束されたりした痕は、古いものから新しいものまで様々だった。
  たぶん、俺が増やした傷はないと思う。少なくとも外見上は。そうならないように、できるだけ注意を払ったからだ。中は、わからない。
  傍らのカイトが身じろいで目を開けた。焦点を結んでいないようなガラスの瞳が俺を見て、長い睫を瞬かせた。
  その仕種が酷く幼く見えて、思わず訊ねてしまっていた。
「あんたいくつだ?」
  カイトはきょとんとしてから、おもむろにベッドに身を起こし、ぼんやりした眼で答えた。
「十七。日付けが変わっていれば十八。……たぶん」
  ――まだ子供じゃないか!
  俺より六歳も年下だった。
「まさか、……高校生か?」
  困ったようにカイトの瞳が俺を見返した。
「――学校、行ったことないから……、僕」
「行ったことがない?」
  ばかみたいにオウム返しにしてしまった。
  ――それに『たぶん』ってどういうことだ?
  たぶん十八って。
「戸籍がないから。誕生日は自分で決めた」
「な……に?」
「だから今日で、たぶん十八」
  見た目はともかく、こんな子供が同業者だったなんて、にわかには信じ難かった。しかし、それが事実であることを俺は現場を目撃して知っている。
「保護者は? 保護者はいるのか」
  カイトが俺の顔をじっと見た。質問の意味を量りかねているような顔つきだった。
「――支配者(マスター)ならいる」
  ややあって、カイトは小さな声で答えた。
「支配者、だと?」
  カイトが目を伏せた。
「おまえの身体を、こんなにしているのはその支配者か?」
  うつむいたカイトの顎を掴んでこちらを向かせた。
「そうなんだな」
  びくり、と肩を震わせてカイトは目を瞠(みは)った。
「逃げられないから。僕はあの人から……」
  呟くようにカイトは言った。
「僕はどこにも行けない。――ここは、地図のない世界だから……」
  ガラスの瞳が俺を見つめた。
「生きてるのか死んでるのか、自分ではわからないから。……だから、痛い方がいい。痛いってわかるうちは、生きてるんだってわかるから」

「逃がしてやる。俺がおまえを逃がしてやる……!」
  両肩を揺すられて、カイトはとまどったように俺を見た。
「どこへでも逃がしてやる。支配者の手の届かないところへ!」
「……無理だよ」
  色素の薄い唇に、諦観したような淡い笑みが浮かんだ。
「逃げられっこない。それに僕、パスポート持ってない」
「パスポートなんて完璧なヤツを用意してやる。戸籍だって、ちゃんとしたのを買ってやる!」
  なぜか俺は焦って言い募った。いまを逃したらもうチャンスがない気がした。
  カイトが唐突に笑い声を上げた。くすくす笑いながら言った。
「そんなに僕の身体、よかった?」
「な……っ!」
  絶句して、見返したカイトの眼を見て、俺にはわかってしまった。本心からではないと。カイトがわざと自分を貶めるようなことを言っているのだと。
  カイトがそっとその唇を俺のに押し当ててきて「ありがとう」と、言った。

 

 風がまた吹き抜けた。新宿発の成田エクスプレスは、もう発車した頃だろう。
  ――最終便には間に合わないな。
「カイト……」
  我知らず呟いて、俺は面と向かってあいつの名前を呼んだことがなかったことに、たったいま気がついた。
  ――おまえに地図は渡せなかった。
  こんな俺でも、誰かの道しるべになれることがあるかもしれないと、一瞬でも思った自分がおかしかった。カイトの言う通り、俺たちは地図のない世界の住人なのだ。

 俺は不要になった航空券をポケットから取り出すと、細かくちぎって宙に投げた。一陣の冷たい風が吹き過ぎ、俺の身体をすり抜けて、小さな紙辺を巻き込みビルの彼方へと連れ去った。




END