傷に、触れる
4
思い出すのは大粒の雨だ。熱く乾いた砂地に黒いまだら模様を叩きつけて、血塗れたナイフを洗い清めるように、天空から降り注いだ夏の雨――。
瀬川に命じられるがまま、冴島は『裏切り者』の男を始末した。何も感じなかったと言えば、嘘になる。とうとう引き返せないところに来てしまったのだと、冴島は漠然と考えていた気がする。
そして身体の芯でくすぶり続ける熱を持て余し、その夜、瀬川の私邸を訪れた冴島は、自らの意志で瀬川に抱かれたのだった。
たぶん、自分は確かめたかったのだ。
単なる手駒に過ぎないとしても、一瞬でも瀬川に必要とされているかもしれないということを。
――もしあの夏より以前に、満澄に出会っていたら、状況はもっと変わっていただろうか。
甲斐がないことを考えて、冴島は自分の口元が自嘲にゆがむのを感じた。
だったかもしれない…などと、考えることなんて無意味だ。たったいま生きている現在が、紛れもない現実なのだから。
あの刑事のことは、冴島自身に限って言えばたいした問題ではない。酷くわずらわしい相手には違いなかったが、奴がかけてくる無言のプレッシャーに屈せず、挑発にさえのらなければ、きっとやり過ごせるはずだ。
満澄さえ巻き込まなければ、それでいい。
神崎は自分と満澄の関係を知っているだろうかと、ふと思い、そんなはずはないと、冴島はすぐに打ち消した。
そもそもどんな関係だ? と思う。
たまに会って身体を繋ぐだけの関係か。
最初は単なる好奇心だった。自分の目の前に現れた庵原満澄という男が、あまりにも穢れていなかったので。裏社会にはまったく似つかわしくない、いかにも育ちの良さそうな風貌をした男を、ちょっとからかってやりたいと思っただけだ。
自分にはない、きれいなものを汚してやりたいという、仄暗い嗜虐心を煽られたのだ。
それはたとえば、冬の都会の歩道に珍しく降り積もった白い雪を、硬い靴底で踏みつけ、黒く足跡を残す快感に似ている。
ときには無理やり力づくで抱き、その身体を存分に蹂躙してやったのに、つかまったのは冴島の方だった。
苦しげに眉根を寄せながら、潤んだ双眸でこちらを見上げる満澄の表情を思い出すだけで、冴島はこの瞬間にもあの男の熱い身体を抱きたいと切望してしまう。
満澄……。
窓の外は初冬の夜更けだった。自室のマンションの窓から遠く見える高層ビル群の光は、無機質に白く瞬いていた。
打ち捨てられた教会のステンドグラスを通した光に照らされて、老人はすでに冷たく動かなくなっていた。
あんなに憎んで、焦がれて、どうしても離れなかった男は、年老いて、カイトの永久に手の届かないところへ逝ってしまった。
カイトは亡骸の傍らにひざまずいて、老人の顔をのぞきこんだ。
支配者(このひと)が死ぬときは苦しんで死ねばいいとずっと願っていた。
それなのに老人は眠っている間に息絶えたのか、陰鬱なしわの刻まれた表情には何ら苦悶の形跡もなく、安らかな表情だったのを見て、なぜか安堵を感じているのがカイトは自分でも不思議だった。
一度くらい「支配者(マスター)」でははなく、「お父さん」と呼んでみたかった。
幼い頃この男に拾われていなければ、自分は生きてはいなかっただろうから。今までのの生活を「生きている」と言えるのであればだったが。
カイトは荒れ果てた礼拝堂を出て、白い朝の光がまだらに射す裏庭へと歩いていった。 郊外の住宅が立ち並ぶ一画の外れで、裏手を丘陵地の木々に覆われた小さな教会は、近隣の住民にはその存在をすっかり忘れ去られているようだった。
本来こんなに神に近しい場所で、殺し屋が飼われていたなんて、誰も想像しないだろう。
もうここに戻ることはない。僕は自由になったんだ。
カイトは思った。
だけど、どこへ行こうか……?
支配者なしに、自分はどうしたらいいのかわからないことに気づいて、カイトは呆然と色素の薄い、ガラス玉のような双眸を見開いた。
「神父は死んだのか」
と、だしぬけに低い深みのある声が聞こえてハッとする。
ひとの気配などなかったのに。
ほんの数メートル先まで近づかれるまでわからなかった自分に驚いていると、枯れ草を踏むかすかな音を立てて、がっしりとした体つきの男が現れた。
「誰……?」
「おまえがカイトか」
男は四十歳前後に思えた。
カイトの質問には答えず、これといって特徴のない、会ったあとに顔の印象を思い出せないような容貌でこちらを見やる。
「噂どおりの美貌だな。その髪は黒く染めているのか?」
「……ブロンドは目立つから」
「なるほど。いずれにしてもおまえの容姿では目立つし、一度見たら忘れなくなりそうだな」
男は面白そうに唇をゆがめて笑った。
「――もっとも、おまえに出くわして、命があればの話だが」
その口ぶりから、カイトには男の正体がおぼろげにわかった。
「カイト、おれがおまえの新しい支配者だ」
「あなたが、僕の……支配者」
「そうだ、カイト。神父が死んだ今、これからはおれの下で働くのだ。おれがおまえを支配する。どうだ、うれしいか?」
目の前の男を、カイトはじっと見つめた。
このひとが、僕の新しい支配者(マスター)。
泳ぐような足取りで男の間近に歩み寄ると、カイトは膝を折った。
「マスター」
鼻先に差し出された無骨な大きな手に口づけて、カイトは両手で自分の額に押し頂いた。
「……いい子だ」
新たな支配者は満足げにつぶやいた。
「――神父の死体の横で抱いてやろう。痛いのがイイか? 縛られて酷くされたいか」
唆すようにささやかれて、身体の芯にゆらりと淫らな炎がともった。
「縛って、……縛ってください」
「いいだろう。来なさい」
男に手を引かれて、カイトは礼拝堂に入っていった。
ステンドグラスからは、埃のたまった床に荘厳な光が差し込んでいた。