吹く風に、秋の気配がようやく感じられるようになったころ、夕方<ル・プティ・ボワ>のバイトを終えると、陸海は水城のマンションへと向かった。
今日の訪問はスケジュール的に予定されていたものではないが、オーナー店長の小野からこの秋限定の新製品のラスクをサンプルでもらったので、好物だと言っていた水城に持っていこうと思ったのである。
マンションのエントランスに到着したとき、ちょうど中から出てくるひととすれ違って、陸海はインターフォンを押すことなくそのままオートロックの扉を通過した。
エレベーターで水城の自宅がある五階に上がって、廊下を歩き出したとたん、誰かが英語で言い争っているような声が聞こえた。
エレベータから廊下はL字型に折れているので、直接は見渡せない。
しかし英語の声には聞き覚えがあった。片方は、陸海には間違いようもなく水城の声である。陸海も英語は得意な方だったので、日常会話ならまったく支障はない。
廊下の角まで歩いていって、陸海はそっとその先の様子をうかがった。
『――僕といったいどっちが大切なの!?』
『落ち着け、シオン。話せばわかる。そんな声出したら近所迷惑だろう?』
詰問口調の青年を、水城が懸命になだめているようだった。
歳のころは二十代半ばくらいか。少し長めに整えられた亜麻色のやわらかそうな髪の白人青年は、遠目でもかなりの美形だということが見て取れた。
(もしかしたら……!)
あのひとが、高枝さんの言っていた外人の恋人だろうか。
『そんなの、もう僕のご主人さまじゃない』
『シオン』
(シオン……って言うんだ)
『さよなら啓、もう会わない』
引き止める水城を振り切って、シオンと呼ばれた青年は大股でカーペットの敷かれた廊下をこっちに歩いてきた。
(しまった!)
まっすぐにこちらに向かってくるシオンを見て陸海は焦った。廊下はもちろん一本道で、エレベーターまで何も身を隠すスペースはない。
しかたなく、陸海はたったいまエレベーターでこのフロアに到着したような素振りで、廊下の角に立って待った。
『!』
角を曲がったところで陸海と鉢合わせて、シオンは目を見開いた。グレーのきれいな瞳だった。たしかにすごい美形で、そのうえ利発そうに見える。
彼には瞬時に陸海の正体がわかったようだった。
『啓……趣味変わったんだ。僕みたいな高慢な洋猫タイプが好みだと思ってたのに。まるで素朴なミックスの子犬みたいだ。まあいいか、じゃあね』
ひらりと陸海に手を振って、シオンはエレベーターに乗り込むと行ってしまった。
「……」
それはほんの一瞬の邂逅だった。
「雑種の子犬……?」
(それって、もしかして僕のことか)
呆然としつつ、廊下を曲がるとまだドアの前に水城が立っていた。
「先生」
どんな顔をするのが正しいのかわからず内心困っていると、水城は小さくため息をついて陸海を玄関に招き入れてドアを閉めた。
「先生、さっきのひと、先生の――…、あっ!」
玄関ホールでどさりと押し倒され、驚いて思わず声を上げていた。
「陸海……、セフレに振られた哀れなわたしを、慰めてはくれないのか?」
「え、先生……?」
水城に覆いかぶさられた体勢で、陸海は目をしばたたかせた。
自分のことを「わたし」と呼称しているので、たぶん水城のスイッチはいつも陸海をいたぶるサディストの方に入っているはずなのだが、なんだか様子がおかしかった。
「先生? んんっ……!」
いきなり唇を重ねられ、びっくりして固まってしまう。
陸海には生まれてこれが初めてのキスだった。
「せん…っ、んっ……ふっ」
強引に歯列を割って、水城の舌が口内に侵入した。上顎を舐められ、舌を絡めとられると、頭に霞がかかったようにぼうっとしてくる。
応え方もわからないまま一方的に貪られて、光る唾液の糸を引きながらようやく水城の唇が離れたときには、ぐったりと全身の力が抜け、腰がくだけてしまっていた。
「陸海、きみを犯したい。ひどく陵辱したい」
「っ……!」
真剣な眼差しで訴えられて、あろうことか、期待にぞくりと身体が震えた。
「陸海をめちゃくちゃにしてしまいたい」
「先生……」
「苦痛に泣き叫びながら、わたしを受け入れてくれるか?」
喉がからからに乾いていて、心臓がどうしようもないほどにドキドキしていた。
陸海はごくりと、やっとの思いで唾を飲み込んで言った。
「……して。僕を犯してください。先生になら、めちゃくちゃにされてもいい……!」
覆いかぶさっている水城の背中に両腕をまわして、陸海は男の身体を初めて抱きしめた。
それはいつもなら後ろ手に拘束されていて、決して陸海には許されない行為だった――。
陸海は全裸で、その両手は頭上高く、万歳をするような形で拘束されている。
皮製の手枷には短い鎖がついていて、ベッドヘッドにしっかりと固定されていた。
水城のベッドのシーツは、陸海が横たわる前から明らかに乱れていて、おそらく水城がシオンとここで抱き合ったことを物語っていた。
そのベッドに拘束され、陸海は屈辱感とともに、水城が誰かを抱いた直後のベッドで犯されるという、屈折した被虐的な悦びを感じたのだった。
陸海が水城のたくましい裸体に見惚れたのは、ほんの一瞬のことだった。なぜなら、水城は陸海を皮製のアイマスクですぐに目隠ししてしまったからである。
以前に施されたタオルとは違って、しっかりとした革のマスクは、陸海に真の暗闇をもたらした。緘口具は使われなった。陸海が泣き叫ぶところを見たいという、水城の意図があるようだった。
正直、陸海の身体の方は、恐怖に竦みあがっている。
背中の下でしわになっているシーツは、汗で不快に陸海の肌にへばりつく。
一糸まとわぬ姿の陸海と同じく、水城が全裸になったということは、これまでのようにおもちゃで陸海をいたぶるつもりはないということだと思った。
水城は無機質な器具でではなく、彼の血の通った肉で犯してくれるのだ。
(初めて、抱いてもらえる……)
「笑っているのか、陸海?」
低く、ささやくように水城が訊ねた。
(ああ、泣き叫ばなくちゃいけないのに……)
「うれしくて」
「さすがはわたしの奴隷だ。かわいいことを言う」
喉奥で水城はくぐもった笑い声を立てた。
「できる限りひどく抱いてやろう。思う存分泣き叫べ」
身の毛もよだつような恐ろしいことを言われているのに、なんて水城の声は甘美に響くのだろう。
「はい……先生、ご主人……さま」
おもちゃを使わずどんな前戯をされるのか、陸海がひそかに不安に思う必要はまったくなかった。
いきなり膝裏を抱え上げられて、浮いた腰の下にすかさずクッションらしきものが差し込まれた。
「あぁっ」
まだ解されてもいない陸海の狭い入り口に、先走りでぬめった肉の熱い剛直が押し当てられる。
まさか、と思う暇もなく、狙いを定めると思い切り腰を打ち付けられ、軋む粘膜を無理やり抉じ開けて肉の凶器の先が埋め込まれた。
「あうっ……、ひっ」
あまりの痛みに喉は引きつり、まともに声も出せない。
「あぁ…っ、ぐ……ぁっ!」
なんと水城はまったく解していないアナルに潤滑剤も使わず、突然にいきり立ったペニスを捻じ込んできたのだった。
「う…っ」
小さく水城が呻いた。彼もきついのだろう。
もともと受け入れるために充分潤う機能のないそこは、陸海の意思とは関係なく、悲鳴を上げて全力で水城の侵入を拒んでいるようだった。
「あ…っ、はぅ……っ」
苦し紛れに暴れると、陸海の両手も鎖にひっぱられてきりきりと痛む。
「ああぁっ!」
ひときわ大きく腰を突き入れられ、身体をそこから引き裂かれるような痛みとともに、陸海の中で何かが突き抜ける感覚があった。
ずぶりと根元まで水城が挿入(はい)って、男の硬い恥毛が陸海の肌に触れたようだった。
「……あっ、あっ、あ……っ」
すさまじい痛みと未知の圧迫感に、たとえでなく本当に息が詰まった。
ぎりぎりと限界まで拓かれた身体は、おそらく結合部分から血を流している。
ローションを使っておらず、まだ水城も猛ったままで吐精していないにも関わらず、そこは粘着質の音を立ててぬめっていたから。
「陸海」
「あうっ!」
大きく脚を割り開いて深く繋がったまま、陸海の身体を二つ折りにするように、水城は垂直に肉楔を突き立ててきた。
内臓を中から突き破られる恐怖を覚えるほど、狂ったように腰を回して肉の凶器で陸海の中を掻き抉る。
「あぁ…っ、うぐ…っ、先…せっ、あぁ、嫌ぁっ、あぁっ!」
「陸海……」
苦しげに息を乱して、水城が名を読んだ・
「――そうだ、もっと……、泣き…叫べ……」
「ひ…ぁっ、あう…っ、ひ…んんっ、いやぁ、ああっ、ひいっ……!」
直接的な快感はなかった。
ただ、すさまじい痛みばかりで、激しく突き上げられ、抉られ、血を流しながらのた打ち回った。
それなのに――、陸海は幸福だったのだ。目も眩むほど。
水城の生の肉に蹂躙されていると考えるだけで、苦痛は脳内で激しい快感に変換された。
それはこれまで周到に作られた無機質なおもちゃでも、味わわされたことのない快感だった。
水城の肉塊が自分の弱いところを犯し、蹂躙して、羞恥や理性が介入する隙間もないほど力ずくで屈服させられていく。
陸海は水城に愛されていると実感できた。
全身全霊で貪られて、このまま壊されてもよかった。
水城のこと以外、何も考えられなくなるほど、水城でいっぱいにして欲しい。
「先…生……、いっ、……ああっ、あうっ、先……せっ、ぐっ……ぅ」
(愛してます)
そう言いたかったのに、もう言葉をつむぐこともできなかった。
壊れた人形のようにがくがくと全身を揺すられ、絶頂に達した男の精液を身体の奥深くまで大量に注ぎ込まれる。
水城の匂いが身体の芯までしみこんでいく錯覚にとらわれ、うれしくて、陸海は硬い皮のアイマスクの下でぼろぼろと涙を流し続けた。
気づくと同じベッドで水城がこちらを見下ろしていた。
水城の端整な顔が見えるということは、アイマスクは取り去れている。
「先…生……」
泣き叫んだせいか、かすれてひどい声だった。
「陸海くん」
手枷も外されていた。ひどく暴れたためか、拘束具の跡が内出血している。
身体を起こそうとしたあらぬ箇所に激痛が走ったが、陸海はかまわず両手を伸ばして水城の身体を抱きしめた。
「先生、愛してます」
「陸海……くん」
戸惑ったように、水城はおずおずと陸海の身体を抱き返してきた。
「いいのか……? おれは、いつかきみを壊してしまうかもしれない」
「壊されてもいい。先生になら、僕は壊されてもいい!」
「陸海……」
「だから、僕を先生の傍にずっと置いてください。二番目でもいいから、先生の奴隷にしてください」
「二番目?」
怪訝そうに水城が訊ねた。
「シオンってひとの、次でもいいから……」
「ああ」と、水城は苦笑したようだった。
「――彼は、これまで一番長くつづきたセフレだったけど、もう終わったよ。きみのことが頭にちらついてプレイに集中できないのを奴隷に見抜かれてしまったんだ。ご主人様としては失格だ」
「プレイ?」
「そうだ。それだけの関係だった。おれはシオンを抱いたことはない」
「きみだけだ……陸海」
今日は泣き叫び過ぎて、もう涙なんて出ないかと思ったのに、水城の言葉を聞いたらどっと新たな涙がこみ上げてきた。
「なぜ泣く? 痛むのか?」
おろおろとしたように、水城の手が陸海の背をさすった。
「違っ……」
水城の胸に顔をうずめて、陸海は頭を振った。たしかに身体はそこかしこが痛んだけれど、痛くて泣いている訳ではない。
「うれしいから……」
そう言うと、水城はさらに抱きしめてくれた。
「おれは怖いんだ……。きみのことが好きすぎて、壊してしまうと。だからなるべく気持ちを抑え、冷静にいたぶろうと思っていた。自分の身体で抱いたりせずに、無機質な器具で苛んだりした。こんな関係、いずれ終わらせなければ、陸海のためにはならないから、いつかは陸海くんを逃がしてやらなければならないと思っていた」
「先生……」
なんともアンビバレントな水城の衝動だった。
陸海の方は水城に愛されていないから抱いてくれないのだと思っていたし、水城は陸海を愛しているから抱けないと思っていた。
(でも、そんなことはもう、どうでもいい)
「壊されてもいい」
目を閉じてもう一度、うっとりと陸海はささやいた。
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