電子書籍B-cube『迷宮の姫君は復讐を秘め』番外編(サンプル)
■ 迷宮の奥 ■

      一

  志岐(しき)の屋敷は東京の郊外に位置し、三千坪の広大な敷地に建てられた純和風の邸宅である。
  大貴(ひろたか)の居室は、広い屋敷の北の端、錦鯉が泳ぐ大きな池の上にめぐらされた渡り廊下を渡った向こう側にある離れにあった。
  それを大貴より二歳年下の弟、拓哉(たくや)は、志岐家の次期当主である大貴に対するこの家の特別扱いのひとつだと考えているようだが、実のところ、大貴を忌むべきモノとして隔離しているのがこの離れである。
  季節は三月の半ば。
  開け放された縁側からは、暖かな春の夜気が、庭の緑と微(かす)かな花の匂いを含んで流れ込んでくる。
  自室の座布団の上で足をくずして、大貴は物憂げに夜の闇を見やった。
  くっきりとした二重の双眸に細い鼻筋、唇はふっくらと中性的で、その容姿は精緻に造形された人形のようだと評されることがある。
  白く滑らかな肌と、長い艶やかな黒髪が日本人形を連想させるのかもしれない。
  そんなことは大貴本人にとってはどうでもいいことで、特にコメントするつもりもない。
  しかし本心では『奥座敷の姫君』などと呼ばれるのは、屈辱以外の何モノでもなかった。
  大貴は私立の付属高校を卒業したばかりだ。
  この春から内部推薦で大学に進学するが、この生活は何一つ変わらない。
(今年は桜が早いな……)
  池の対岸には、樹齢百年をを超えるという大きなしだれ桜の古木を中心に、様々な桜に囲まれたもうひとつの別棟がある。
  そこではもうソメイヨシノが咲き始めている。
  志岐の奥座敷――。
  それが、大貴が囚われている牢獄の呼び名だった。
「大貴さま、おしたくを」
  二十代とおぼしき若いメイドが現れると、慇懃な態度でそう告げた。
  ただ、声色はおそろしく事務的だった。
  彼女はこの屋敷に何人も雇われている使用人のひとりだが、大貴はいちいち顔や名前を憶えていない。
  こうして大貴を迎えにくるメイドが、まるで機械的に命令を遂行する一兵卒のように無個性で口数が少ないせいもある。
「わかった」
  と、うなずいて、大貴は座卓のかたわらから立ち上がった。
  大貴が身につけているのは白い単衣(ひとえ)の夜着だけである。その下には下着すらつけていない。
  だが、寒くは感じなかった。むしろ火照っている。これより少し前に飲まされた媚薬が効いているのだ。
  習慣性はないらしいが、奥座敷に向かう前に儀式のように飲むことになっている日本酒の盃には、志岐家とは昔から縁の深い斉木家の呪術師が調合したという媚薬が溶かし込んである。
  メイドに先導されて渡り廊下を歩く大貴は、ふわりと足元が浮き上がるような感覚に捕らわれた。
「……っ」
  もちろん錯覚である。
(せめて意識だけでも、この肉の檻から飛んでいければいいのに)
  しかしそれはかなわぬことだった。
  大貴が『志岐家の次期当主』である限り、逃れられない宿命なのである。
  志岐は古い家柄で、その名字は、もともとは権力者である主の『使い鬼』という意味からから『使鬼』と書いていたのだが、後のある当主が志岐という文字を当てることにしたのだという。
  日本を統(す)べてきたその時代の権力者を支える陰の力となって、世間に知られることなく歴史の裏側で暗躍した一族である。
  ところが、裏方である使い鬼の役目に飽き足らず、長い時間をかけて力をたくわえた志岐家は、いまや自律的に活動する陰の一族として表舞台に出ることなく栄えているのである。
  母屋から、さらに離れた渡り廊下の先の奥座敷が、大貴の檻であり、城だった。
  志岐の奥座敷の主として、大貴はここをひそかに訪れる賓客をもてなすのだ。


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迷宮の姫君は復讐を秘め

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迷宮の姫君は復讐を秘め