桜流しの夜 7

 どの位経ったのか、ソファでうとうとしていた僕は、玄関の方のわずかな物音で跳ね起きた。
  レースのカーテンしか引かれていなかった居間の大きなガラス窓の向こうは、うす蒼く朝の気配が漂っている。
「鬼頭さん、お帰りなさい」
  居間に入ってきた鬼頭さんに、僕はなるべく平静を装って声をかけた。
「なんだ響(きょう)、起きてたのか」
「ううん、ソファで居眠ってた」
  さすがに疲れを滲ませた表情で、鬼頭さんはソファに腰を下ろすと、きのうの朝と同じポロシャツのポケットを探って、煙草のボックスとライターを取り出した。少し顔をしかめて煙草に火をつけるとき、鬼頭さんの左眉上の古い傷跡がへこんで目立った。
  リビングのソファテーブルの上に灰皿はなかったので、僕は鬼頭さんの寝室に行って、小さなクリスタルの灰皿を取ってリビングに持ってきた。
  ふうっと煙を吐き出すと、鬼頭さんはしばらく黙ったまま煙草を吸っていた。
  ふだんは吸わない鬼頭さんが、煙草を吸いたくなるのは一体どんなときだろうと、僕はふと考えた。
「心配かけたな」
  やがて灰皿で煙草をもみ消すと鬼頭さんは言った。
「誰に襲われたの?」
「マンションの占有屋を雇っていたチンピラだ」
「せんゆう屋?」
「権利移転する物件に不法に居座って、取引の邪魔をする連中だ」
  鬼頭さんの説明は僕には全然わからなかったけど、どうやら会社の仕事がらみで襲われたらしい。「……ばかなチンピラのお陰で警察沙汰だ」
  と、鬼頭さんは忌々しげに呟いた。
「榊は……?」
「あいつは傷害の前科(まえ)があるからな。どうなるかわからんが、只木先生に任せるしかないだろう」
  あっさりと言った鬼頭さんだったが、榊のことを気遣っているのは見ていて僕にもわかった。
  鬼頭さんをかばって怪我をして、相手を刺して警察に逮捕されるなんて、僕にはとてもできないと思う。
  ヤクザって、そんなのが当たり前なのだろうか。僕はなんだか悲しくなって泣きそうになった。
  鬼頭さんのことはもちろん、榊のことも好きだから、そんな風に傷ついて欲しくない。
「響……」
  と、うつむいた僕に、鬼頭さんは優しく声をかけた。
「ヤクザなんてやめればいいと思っているか」
  僕はうつむいたままうなずいた。
「どうしてヤクザになったのか、以前おまえは俺に訊いたことがあったな」
「……うん」
  確かそのときの鬼頭さんは『大人の事情だと』言ったはずだ。
「俺の母親は、若い頃銀座でホステスをやっていた。おふくろはヤクザを嫌っていたが、あるとき客で来ていたその筋の男に乱暴されて俺を身ごもった。妊娠に気づいたおふくろは、店をやめて男の前から姿をくらましたが、彼女が自分の子を身ごもったことを人づてに知ったヤクザの男は、おふくろの行方を追ったんだ。俺を産んでからも転々と住所を変えて、俺を連れて逃げ続けたおふくろは、俺が小学五年生のときに病気で死んだ。ほかに身内のなかった俺を捜し出して住んでいた安アパートに迎えにきたのは、黒塗りのベンツに乗ったヤクザだった。ヤクザの男はそのときはある組の幹部になっていて、いまでは組長だ」
「じゃあ……」
「蜷川組(にながわぐみ)組長、蜷川義之(よしゆき)は俺の実の父親だ」
「鬼頭さんのお父さん…」
  鬼頭さんは組長のことを「オヤジ」と呼んでいるのは知っていたけど、単にヤクザのそういう習慣なんだと思っていた。まさか本当の親子だとは思わなかった。
「でも鬼頭さんの名字、違うよね?」
「鬼頭ってのは俺のおふくろの名字だ。俺が引き取られたときには親父には正妻、――つまり俺の義母になるひとだが――がいたが、子供には恵まれていなかった」
  鬼頭さんはそこまで話すと少し言葉を切った。何か昔のことを思い出したのか、片頬に苦笑らしきものが浮かんで消える。
「義母は気の強いひとでな、認知してまだガキだった俺の面倒を見ることは承知したが、籍を入れることは頑として拒んだそうだ」
「いじめられたの?」
  僕が訊ねると鬼頭さんは軽く目を瞠った。
「いや。俺はずいぶんとかわいがってもらった。怒らせるととんでもなく怖かったけどな。歳はひとまわりしか違わないが、…俺はいまだにあの女性(ひと)には頭が上がらない」
  鬼頭さんの口ぶりから、お義母さんとの関係が必ずしも悪くないことをうかがわせた。
  僕の母親は生きているけど、彼女は母であるより女であることを選ぶひとだ。
  自分の父親のことは僕は何も知らない。物心ついたころには母親のところには何人もの男が出入りしていたから、僕はただ、僕のことを殴らないひとだといいなあと思う程度で、もともと父親なんてものはどんなものなのかわからないのだ。
「俺が引き取られてずいぶんたってから、親父と義母の間にも子供ができて、俺には腹違いの弟ができた。まだ十歳で小学生だが、親父は溺愛している」
  ずいぶん歳の離れた弟だ。鬼頭さんの息子だっていってもおかしくない。
「親父は将来、弟に組を継がせるつもりだ。俺には弟の懐刀になることを望んでいる」
「ふところがたなって?」
「ようするに俺が弟を守ってやるってことだ。俺がフロント会社をやっているのも彫り物がないのも、ぜんぶ蜷川組(にながわぐみ)の将来を見据えてのことなんだ」
「でも……」
  と、僕は口をはさんだ。
「鬼頭さんはそれでいいの?」
  なんだかこれでは鬼頭さんが損をしているような気がしたからだ。
  鬼頭さんはじっと僕の顔を見てから言った。
「俺の親父がヤクザの組長だったのは偶然だ。俺がどうこうしようと思ってなったもんじゃない。――だが、俺がいまこうしているのは、俺自身がそう決めたからだ」
  誰に強制されたわけでもないと、まっすぐ僕を見た鬼頭さんの双眸が語っていた。
  鬼頭さんは大切な家族のために、あえて影となる道を選んだのだ。
  僕は正直、家族って何なのかよくわからない。でも……たぶん、無条件に愛情を注いで、守りたいものなのだろうと思った。
  それなら僕は鬼頭さんの家族になりたい。
  ――鬼頭さんを守りたい。
「榊は、鬼頭さんの盾になったんだよね」
「そうだ」
  と、無表情に鬼頭さんは応じた。わざと何でもない振りをしているらしい鬼頭さんを見て、僕は榊がうらやましくなった。
「僕……、何もできないけど――。榊のように鬼頭さんの護衛も車の運転もできないけど」
  何を言い出したのかわからないように、鬼頭さんは僕の顔を見た。
「弾よけぐらいにはなるかもしれないから……」
  ――だから…側にいさせて欲しい。
  僕が鬼頭さん一番言いたかったことを口にする前に、鬼頭さんは僕の身体を荒々しくソファの上に押し倒していた。
「……っ!?」
「ばかが……」
  あ然とする僕を見下ろして、鬼頭さんは苦々しげにつぶやいた。
「鬼頭…さん?」
  最初、僕は鬼頭さんが怒っているのかと思ったけれど、どうやら違うようだった。
  眉根を寄せてじっと僕を見つめる鬼頭さんの双眸が、不思議な色を浮かべて揺らめいて見えた。
  それは――、まるで……泣いているようで。
  鬼頭さんが泣くはずなんてないと思ったけれど、僕はびっくりして鬼頭さんの男っぽく精悍に整った顔を見返した。
「響(きょう)…おまえを弾よけにして、俺が喜ぶと思ってるのか?」
  鬼頭さんが喜んでくれるかどうか、僕には自信がなかった。だから正直に答えた。
「……わからない」
「わからない?」
  目を瞠(みは)って、鬼頭さんは僕の顔を見つめた。
「響、おまえは本当に馬鹿だな」
  諦めたように、でも、優しい声で鬼頭さんは言った。
「おまえは弾よけなんかにならなくていい。だが…響、おまえは俺の側にいてくれ」
  僕が鬼頭さんに言いたかったことを思いがけず先に言われて、びっくりして僕は鬼頭さんを見返した。
  鬼頭さんの腕の中に引き寄せられ、僕は目を閉じることも忘れて口づけられる。
  そっと押し当てられただけで離れた唇は、僕の唇と胸の奥に、ふわりとした温かみを残した。
「――いてもいいの? 僕、鬼頭さんの役に立たないけど、側にいても……いいの?」
  僕の頬を片手で撫でながら「ああ」と、鬼頭さんは答えた。
「側にいてくれるだけでいい――」
  鬼頭さんのことばは、春の温かな雨が地面に落ちるように僕の胸にしみこんだ。
  ――側にいてくれるだけでいい。
  見返りを与えず、見返りを求めず、ただお互いに一緒にいたいと願う気持が、哀しいくらいうれしかった。
「響…」
  僕の震えるまつげにたまった涙の粒を、鬼頭さんの指先がそっとぬぐった。

「ん…っ……ふ……っ」
  僕の息を奪いながら、鬼頭さんは深く繋いだままの腰をゆるやかにうごめかせる。
  床に敷かれた毛足の長いカーペットが、裸の背中に慣れない感触をさわさわと残していく。朝の明るい日差しが落ちるリビングの床の上で、僕たちは抱き合っていた。少し開けられていた窓からは、眼下の葉桜の並木を揺らした風が吹き込んでくる。
「あっ……う…っ…」
  熱く硬い鬼頭さんの楔は、僕の下肢奥をぎりぎりまで拓いて、これ以上ないぐらい深く埋め込まれていた。
  ゆっくりと中をかき混ぜられて僕は快感に身悶え、折り曲げられた下肢の内腿を細かく痙攣させながら、鬼頭さんのがっしりとした首筋から背中にかけて爪を立てる。
「ん…んっ……」
  いつものような激しい律動を刻む代わりに、鬼頭さんは僕の快感を長引かせようとしているかのように、甘く苦痛じみた快感の波を、大きくしたり小さくしたりして、ずっと僕の中にいる。
  僕はもう、足の奥でとろとろになって鬼頭さんのモノに絡みついている粘膜だけでなく、頭の中まで蕩けてしまいそうだ。
  僕の中心は壊れたみたいにたらたらと雫をこぼし続けて、鬼頭さんのお腹とカーペットを汚していた。
「…き、とう……さん…っ」
  繋がったところからぐずぐずと溶け落ちてしまいそうで、怖くなって僕は鬼頭さんの名を呼んだ。
「響……」
  鬼頭さんのさびを含んだ声が吐息交じりに聞こえて、僕の唇をふさぐ。
  互いの舌を絡めたとき、僕の中で鬼頭さんが達して、身体の奥を温かく濡らされるのを感じた。

 

 鬼頭さんの胸に頭を預けて、僕は目を閉じたまま鬼頭さんの鼓動と、さわさわと青葉を揺らす風の音を聞いていた。
  ずっと捜していたような気がする。
  公園のベンチで満開の桜が雨に散るのを見ていたあの夜から。
  僕の居場所は今――ここにあるのだ、と思う。
  ふいに熱くこみ上げてくる気持に名前がつけられないまま、僕は眠る鬼頭さんにそっと口づけた。

 

■ END ■