夏の雨
4
肌寒い風が、色づき始めた公園の木々を揺らして吹き抜けていく。オフィス街のビルの狭間にある公園は、平日の午後ということもあって、外回りの途中なのかスーツ姿の通行人がときおり通り過ぎる程度でひと気はない。
冴島はすぐにその対象者(サブジェクト)を見つけることができた。公園のベンチに座って、落ちつきなく周囲を警戒している様子は明らかに挙動不審で、早く声をかけないと警官の職務質問に先を越されてしまいそうだ。
「あんたが山本さん?」
ベンチに近づいた冴島が声をかけると、山本は弾かれたように立ち上がった。眼鏡をかけた神経質そうな色白の三十男で、相当おびえている様子だ。シーンズ姿の冴島を、山本は上から下まですばやく検分してから言った。
「き、きみは庵原(いはら)さんか」
「そうだ。で、データは?」
「こ…ここにある」
山本は震える手でスーツのポケットからUSBメモリを取り出した。
「本当に助けてくれるんだろうな」
対象者の男が持っているのは職場から持ち出したある情報だった。
端金(はしたがね)目当てに持ち出したはいいが、彼は取引する相手を間違えた。そうとは知らず禁忌に触れてしまったのだ。
その男が所属していた職場は、男を警察に訴え出る替わりに『持ち出された情報ごと、なかったことにする』ことに決めて、結果、男は職場の元同僚とヤクザに追われ、命からがら逃げ回るはめになった。
「ああ。金とパスポート、それから航空券が入ってる」
冴島は山本の掌(てのひら)からメモリを取り上げると、その手にデパートの紙バッグを押しつけた。
「金はいくらだ?」
「三百万」
冴島が答えると山本は目をむいた。
「そんな、話が違うぞ! 最低でも一千万だって――」
「あんたは金と命、どっちが大事なんだ」
冷静な声で訊ねると、山本は口をつぐんで、こわばった表情で踵(きびす)を返した。
その背中を「おい」と、冴島は呼び止めた。
「――バックアップも置いていけ」
山本は眼鏡のレンズ越しに冴島を睨むと、抱えていたビジネスバッグから不承不承ケースに入ったコンパクトディスクを取り出した。
「これで全部だな?」
「そうだ」
「では山本さん、急いだ方がいい。飛行機は今日の夕方の便だ」
山本の後姿を見送ったのと入れ替わりに、公園にひとりの体格のいい若い男が現れた。
――やはり時間ぴったりだな。
冴島の読み通りだった。焦っている山本は定刻より早く現れ、約束の相手は定刻にしか現れないだろうと。
本来の相手が現れる前に、冴島がその相手になりすまして接触する。そのわずか五分ほどに、冴島は勝負をかけていたのだった。
公園の入り口付近、冴島から数メートル離れた場所で、男は濃い眉の下の眼を眇めてこちらを見た。
――たぶん、あの男が庵原というのだろう。
冴島の経験上、この仕事をしていて他の組織の人間と鉢合わせになるのはそれほど珍しいことではない。狙っていた獲物がたまたま同じだったということも、割にあることだ。基本的には早い者勝ち。相手を出し抜いた方の勝ちだ。
当然、獲ったの盗られたのという話になるのだが、大きなヤマならともかく、末端の細かい獲物となると組織もいちいち目くじらを立てたりはしない。あとは当事者どうしの問題だ。
彼は自分の獲物が、冴島によって横取りされたことを悟ったようだった。こちらの顔を確認するかのような一瞥(いちべつ)をくれると、さっと身を翻して公園から出て行った。
その『同業者』の顔を冴島は、これまで何度か見掛けたことがあった。年齢は冴島より少し上に見えたがまだ三十にはなっていないだろう。
出くわした状況から同業者だとはわかっていたが、冴島はその男が持つ場違いな雰囲気に、最初なぜそんな男が自分の前に現れたのかと、冴島は呆気に取られたのだ。
自分の周囲にはいないタイプだった。人種が違うと言ってもいい。見かけこそ、ちゃんと鍛えられている体躯と無駄のない身のこなしから、見る者が見ればこちら側の人間だということはわかる。
しかしどうにも、その男の持っている印象が冴島の眼にはその場からは浮いて見えた。月並みな表現だが、「育ちが良い」と言えばいいのだろうか。幼い頃から何不自由なく愛情を注がれ、慈しまれて成長すると、あんな大人ができあがるのではないかと冴島は想像している。
――……面白い。
自分とは間逆にあるような人間だった。
あんな男をからかってやったら、さぞかし面白いだろう、と冴島は思った。
そうして間もなく、冴島はその『同業者』の素性を知った。
男の名は庵原満澄(いはらますみ)。冴島より四歳年上の二十八歳。瀬川のように裏社会の別組織の一グループを率いる藤森の傘下、三十代前半で派遣会社を経営している間宮という男の右腕だった。
瀬川が経営する数々の会社と同様、間宮の派遣会社は登記上も世間的な一般評価も、まったく問題のないものだった。しかし見かけはともかく、裏社会に通じていることは同業の間では暗黙の事実だ。
満澄はまぎれもなく、裏社会に属する男だった。
同じ瀬川のグループに属する中野が、そのヤマに割り込んで来ていたの冴島が知ったのは、ほんの偶然のことだ。断片的に小耳に挟んだ情報では、中野は間宮の配下の男ともめているらしかった。その男の名前が庵原満澄(いはらますみ)だと知ったとき、冴島はほとんど考えることもなく行動を起こしていた。
理由はよくわからない。中野とは馬が合わないから、という理由でも冴島に不都合はない。瀬川のグループ内でも、中野のやり方が特に荒っぽいことは冴島も知っていた。
どうやら庵原は、今回は冴島が譲ってやった――庵原は認めないだろうが――獲物を、確保するにはしたらしいが、それを嗅ぎつけた中野に、逆にこんどは獲物ごと拉致されてしまったらしい。
自分のちょっとした気まぐれが発端となったことには冴島も正直驚いたが、逃げる途中、事故を起こして大破した車を残し、庵原本人が消えてしまっていたのを目撃したからには、さすがにそのまま放っておくわけにもいかなかった。
冴島がようやく探し当てたのは、湾岸沿いの中小の倉庫が立ち並ぶ界隈で、元は事務用品を扱う小さな会社が自社ビルとして使っていた地下一階、地上四階の建物だった
抵当に入っていた土地と建物は、その会社が倒産した際に金融会社のものとなるはずだったが、実は暴力団がらみだったために、占有屋を巻き込んで所有権の移転が錯綜したあげく、傷害事件まで起きたいわくつきの物件だ。最終的には競売に出されたところ、一般人が二の足を踏むのは当然だったが、それを見越した瀬川が格安の値段で競り落としたのだった。
いずれは更地にして転売するのだろうが、今は古い建屋のまま、誰かが倉庫がわりに使っているようだった。
深夜ともなるとあたりに眼に入るような人影もなく、耳に入ってくるのはコンクリートで固められた護岸にぶつかる波の音と、湾岸沿いの道路を行き来する車の音が混じりあった独特の低いざわめきだけだ。
乗り付けた白いセダンの運転席で、冴島はパワーウィンドウを下ろして暗い建物の中の気配をうかがった。晩秋の冷えた空気が潮の匂いと共に車内に流れ込んでくる。
――おれは一体何をしているんだ……?
ふと我に返り冴島は自問した。
あの男がどうなろうと、おれには関係ないじゃないか。むしろ同業他社がつぶれてくれたほうが、自分の取り分が増えて助かる位だ。
――あんな裏社会には不似合いな甘ちゃんがどこでくたばろうと、おれの知ったことじゃない。
……知ったことじゃなかったが、中野にやられるのは面白くなかった。
ましてや自分がわざわざ庵原に譲ったはずの獲物を、中野に横から攫(さら)われるなんてのはもってのほかだ。
――庵原満澄をコケにしていいのは、このおれだけなのに……。
そこまで考えて冴島はハッとした。
――おれは庵原に執着している? 『捨て石』のこのおれが……?
だとすれば、珍しい感覚だった。
瀬川に拾われてからも、何を望んでいるか自分でもわからなかった冴島が、何かを欲しいと感じたのは久しぶりだった。
――あの男、……庵原満澄が欲しい。
明確に焦点を結んだ自分の意図に気づいて、冴島は我知らず息を飲んだ。
自分とは正反対の男だからか。自分の周囲にはいないタイプの人間で珍しいからか。
……それとも、きれいなものを汚したいだけだろうか?
冴島はそれまで滞っていた全身の血が、急に体中を廻(めぐ)って流れ始めたように感じた。鈍磨していた感覚が鋭敏になり、ざわざわと体中の産毛が逆立つようだ。
――欲しい。
まっすぐで陰りのないあの男を、気持ごとからめとって、無理やり抉じ開け、中まで見てみたい。
冴島は、唇に微笑が自然に浮かぶのをとめられなかった。
――満澄……。
建物の脇から黒っぽい車が急発進して走り去るのと、火災報知機のベルが響き渡ったのはほぼ同時だった。反射的に冴島は運転席から飛び出し、建物の方へと走った。
屋外から直接地下倉庫へと続く鉄製の扉は施錠されていなかった。煙が上がっているのは地下一階からのようだった。火災報知機は鳴り響いているのに、スプリンクラーが作動する気配はない。冴島は煙にむせながら非常灯に照らされた階段をかけ下りると、ダンボール箱が積み上げられた狭い通路を奥へと進んだ。
奥まったところにもうひとつ扉があり、その入り口をふさぐようにしてダンボールが積み上げられて煙と炎を吹き上げている。
中にまだ生きているひとの気配があった。
「くそっ…!」
夢中で燃えるかたまりを蹴飛ばし、蹴散らして、冴島はドアに体当たりを食らわした。髪の毛が焦げる匂いもするが構っていられない。安普請な合板製のドアは、体格のいい冴島の渾身の体当たりで、バリバリと音を立てて破れる。ついに蝶番(ちょうつがい)ごと蹴破り、冴島は奥の部屋へと飛び込んだ。
向こうの壁際に両手首を拘束された男が転がっていた。
まぎれもない、庵原満澄だった。
「だいじょうぶかッ!?」
まっすぐ駆け寄ってきて訊ねると、満澄はぼんやりとした表情でこちらを見上げた。太い眉の下で奥二重の双眸が不思議そうに眇められる。
満澄の髪や着衣は乱れ、彼がここで暴行を受けていたのは明らかだった。見れば両手首に縛めのワイヤーが食い込んでいて、ところどころ皮膚に食い込み、血が流れた痕がある。
思わず舌打ちをして冴島は言った。
「手を出せ。切ってやるから」
何か薬でも打たれているのだろう。満澄はまるでいま気づいたかのように自分の手首に視線を落とした。
冴島はズボンのポケットからペンチを取り出し、満澄の手首のワイヤーを切って外した。
「立てるか? ほかに怪我は?」
「……わからない」
掠(かす)れた声で満澄が答えた。満澄が初めて冴島と交わす言葉だった。
「よし、立ってみろ」
冴島が肩を貸すと、ようやく満澄は立ち上がった。下半身に力が力が入らないらしく、膝がかくんと笑ってよろめいてしまう。
冴島は思わず眉をひそめそうになった。
おそらく満澄は、中野に性的暴行を受けている。薬を打たれているらしい状況では、本人の記憶にあるかどうかは疑問だが。
込み上げてきた苦い気持を振り切るように冴島は笑みを浮かべた。
「まあなんとか歩けそうだな。急ごう、このままでは蒸し焼きだ」
間近で満澄が冴島の顔を見上げた。
陰りのない双眸がまっすぐに冴島を見つめる。
――欲しい。
この男が欲しい。はっきりと形を結んだ気持が、冴島の胸の内で長くわだかまっていた生ぬるい澱みを清冽な流れが洗い流すように
満ちてくる。
――満澄……!
「来い!」
と、冴島が満澄に向かって右手を差しのべる。
満澄は、ひたと冴島の顔を見返すと、しっかりその手を握った。