■ 熱帯魚 1 ■


「好きなのか?」
 問いかけられた柔らかな低音に意識を引き戻され、目の前の大きな水槽越しに瑞樹(みずき)はこの部屋の主人を見やった。
 さっきまではぴっしりと隙のないスーツ姿で、いかにもエリートサラリーマンといった感じだった一条(いちじょう)は、いまはラフなスウェットの部屋着に着替えて寝室から出てきたところだった。
 一条を初めて店で見たとき、凄く格好いいひとだな、と瑞樹は思ったけれど、初めて眼にするスーツ姿でない普段着の一条も、瑞樹の眼には酷く魅力的に映った。
 都心の高層マンションの一室はこの男の隠れ家的な存在で、瑞樹が部屋に上げてもらえたのは今夜が初めてだった。
 訊ねられた意味がわからず、長い睫を瞬かせた瑞樹を見て、一条は少し眉を寄せたようだった。
「グッピーのことだ」
「――これグッピーっていうの」
 瑞樹はまた、長い尾びれをひらめかせて優雅に泳ぎ回る蒼や緑や黄色が複雑に混ざりあった魚たちを見つめた。
「卵胎生のメダカの仲間だ。原産はアマゾン」
「らんたいせい、って?」
「親は卵を腹の中で孵(かえ)して、稚魚になってから産む」
 瑞樹の瞳が驚きにに見開かれた。
「すごい! 魚なのに、子供のこと大事にしているんだね」
 素直な感想を口にした瑞樹を見て、一条は目を眇めた。
「……そうでもない。産んだ稚魚と一緒にしておくと、ぜんぶ親が食うからな」
「………」
 一瞬痛ましそうに、瑞樹は視線をきれいな熱帯魚たちに投げた。
「心配するな。腹が大きくなるから子供を産みそうなやつはわかる。事前に隔離して、稚魚を産んだら親はすぐに水槽に戻してやる」  だからお前が心配するようなことは起こらないのだと、一条は瑞樹を慰めるように言った。

「一晩中そこに張りついているつもりなのか?」
 酷く熱心にグッピーの水槽に見入っていた瑞樹の背後から、苦笑まじりの声が聞こえた。
 振り返るとシャワーを使って出てきた一条が、バスローブに身を包んで立っていた。洗い髪が額に掛かっていて、前髪が下りているとまるで二十代みたいに見える。
 甘さのない男っぽい端整な容貌に、淡い微笑が浮かぶのを見て、瑞樹の鼓動がどきりと跳ねた。
 全身からふわりとシャンプーの清浄な香りを立たせている一条からは、その香りとは裏腹に、擬態した捕食者が獲物を狙うような、隠し切れない飢えが微かに滲み出ていた。
「あ、……ごめんなさい。――おれ、お金もらってるのに」
 申し訳なさそうに言った瑞樹は、一条に軽く促されるまま、自分もシャワーを浴びるために浴室へと向かった。

「……っ、…」
 いつものように一条の巧みな愛撫に全身を震わせて、瑞樹は声を出さないように必死に耐えていた。
 一条はお金で買っているはずの瑞樹には奉仕をさせない。逆に一条の唇は丁寧に瑞樹が感じる箇所をなぞり、下肢の淡い茂みへと下りていく。太股をそっと割り拡げ、蜜を垂らす茎を愛で始める。
 白くて広いベッドルームは、サイドテーブルの仄かなスタンドの灯りで満たされている。スクリーンの下ろされた窓の向こうは、たぶん夜の海だ。
 壁から天井に掛けて絡み合って揺れる影が、ここでいま行われていることを如実に語っていて、羞恥から瑞樹は眼を閉じた。
 今までホテルの部屋で抱かれていたときもそうだったが、一条はまるで恋人を抱くように瑞樹のことを優しく扱う。慈しむように唇を落とし、手のひらを沿わせ、肌を触れあわせて、一条の熱を注ぎ込む。
 ――違うのに……。
 勘違いしちゃいけない、と瑞樹は自戒しているのだった。だって、自分は一条の恋人ではないのだから。

親の顔を知らない瑞樹は、遠い親戚やら養父母やらの家をたらい回しにされて、ついには『他人の家』には帰らなくなった。
 家出中に誕生日がきて十八になっていたが、歳よりいつも幼く見られがちな仕事も保証人もない瑞樹に、借りられる部屋はみつからなかった。
 住所不定で素性のわからない瑞樹がありつける仕事は、やはり素性のわからない怪しげなものばかりだった。しばらく住み込みで働いた労務請負の人材派遣会社では、給料を踏み倒された挙句に同室の男に無理矢理乱暴されそうになって、瑞樹は着の身着のまま飛び出しそれっきりになった。
 だから当てもなくたどりついた新宿で、身体を売ることをおぼえたのは本当に偶然だった。会社の寮で襲われるまで、男の自分をその目的で誰かが買うなんて、瑞樹は想像したこともなかったからだ。

 瑞樹の十何人目かの客が一条だった。
 何回かホテルで抱かれて、今夜は初めてこのマンションの部屋に誘われた。
 一条の左手薬指にはまだ割りと新しい、銀色の輝きがはまっている。一条は結婚しているのだった。どうしてそんな男が、瑞樹のいるような店に来るのかはわからなかったが、初めて会ったとき瑞樹の視線に気づいた一条は、結婚していて子供はまだいないことを教えてくれた。一条は自宅の他に、妻には秘密の隠れ家としてこのマンションを所有しているのだった。
「んっ、……っ…!」
 一条の巧みな手淫に、堪らず瑞樹は一条の大きな手を迸る蜜で濡らした。その指がもっと奥のいまはまだ慎ましげな蕾へと忍ばされる。
「…っあ、…ん!」
 つぶりと長い指を挿しいれられて、身体が期待に震えた。
 ――買われている自分が、一条さんのことを気持良くさせなくちゃいけないのに……。
 中を探る指に酷く感じてしまって、瑞樹は思わず嬌声を上げてしまいそうになる自分が恥ずかしい。
「…っ! …ん、ん…っ…」
 唇を噛みしめ、やがて一条が中に入って来るときの押し開かれる痛みと、それをはるかに凌駕する快感に涙ぐみながら、瑞樹は一条の腕にすがり背中をのけ反らせた。

 ベッドサイドに落ちていたTシャツや下着を拾って、そっとベッドから抜け出そうとした瑞樹に「泊まっていけばいい……」と、同じベッドの中の一条が言った。
「でも、……いいの?」
 用は済んだのに? と、目顔で訊ねた瑞樹に、一条はふと優しげな笑みを洩らした。
 そんな風に優しくされるから、瑞樹は本当に勘違いしそうになるのだ。
 ――一条さんのことが好きだと。そして、一条さんに愛されているかもしれないと……。
 そんなの自分の勘違いなのに――。
「瑞樹」
 と、一条が名前を呼んでくれた。
「――行くところがないのなら、この部屋に住まないか?」
「えっ……?」
 思わず目を瞠(みは)った瑞樹に、一条は言い聞かせるように言った。
「いや…、住んで欲しい」
「………」
 どうして一条が自分にそんなことを言うのか、瑞樹は混乱して押し黙った。
「ダメか――?」
 切なげに訊ねた一条に、瑞樹はごくんと息を飲み込んで、乱れかけた呼吸を整えた。
「だっておれ、ウリセンで……、他に何もできないし――」
 戸惑ったまま、瑞樹は何かことばの続きをたぐろうと視線を彷徨わせた。
「グッピーの世話係を捜していたんだ」
 正当な理由をたった今発見したかのように、一条が言った。
「好きだろう?」
 畳み掛けるように訊ねられ、瑞樹は思わず頷いていた。
 それが熱帯魚のことなのか、それとも一条のことなのか、今の瑞樹にはよくわからないのだった。



「ある人のところでしばらく世話になることにした」
 と瑞樹が言ったら、〈シヴァ〉の三十代半ばらしいマスターはカウンターの中でグラスを磨きながら「へえ」と、小首を傾げた。
 店でも特に売れっ子ではなかった地味めな瑞樹に、パトロンがつくとは思っていなかったという顔つきだ。
 〈シヴァ〉は新宿にはいくらでもあるような小さなバーで、店内にはカウンター席が数席と、テーブル席が二つあるだけだった。瑞樹のように自分を買ってくれる客を捜している場合は、カウンター席の一番奥のスツールに座る。
 もし座っている瑞樹を見て気に入った客がいれば、その場で値段の交渉をして一緒に店を出る。そしてアガリの半額が店の取り分になるかわりに、店側はそこで少年たちが客をひくことを黙認してくれるのだった。
 瑞樹のような少年は他にも何人かいたが、それぞれ事情があるようで、お互いにあまり干渉しあうことはなかった。だから何かのときは、〈シヴァ〉のマスターが相談にのってくれるようなところがあったのだ。
「戻りたくなったら、またいつでもおいで」
 瑞樹が店を出るときに、マスターはそう言ってくれた。



 瑞樹が『グッピーの世話係』になってから二週間が経っていた。一条の部屋での生活は快適そのものだった。海外出張の多い一条は、このマンションどころか日本を留守にしている場合が多く、瑞樹はここでほとんどひとり暮らしをしているかのようだ。
 充分な生活費を与えられ、一条が瑞樹を抱きたいときにだけ部屋を訪れる。それでも多忙な一条が瑞樹を抱きに来たのは、この二週間にほんの三回だけだ。
 ――こういうのを囲われるというのだろうか……? 
 恋人ではないのだから、一条に「寂しい」と訴えるのはきっと間違っている。
 自分はあの熱帯魚たちと同じなのだ。ガラスで仕切られた水槽の中、水温やpH(ペーハー)を最適に調整された住処を与えられ、愛でられるためだけの存在。
 それとも同じではなくて、もしかしたら自分より熱帯魚たちの方が身分が上かもしれない。『グッピーの世話係』なのだから、瑞樹はいわば熱帯魚の付属品なのだ。一条が所有している様々な物の中のほんのひとつ――。

 昼過ぎにようやくベッドから起きだして、瑞樹はシャワーを浴びた。今年は七月にはいっても天候が夏らしくなく、気温は平年より低いままだ。バスルームの窓からは曇天の下、霞がかかったようなブルーグレイの東京湾が見渡せる。夏の陽射しは、どこにいったのだろう。
 濡れた髪を拭きながら全裸のままリビングに行くと、ソファに一条がいて驚いた。
「い、いらしてたんですか?」
 思わずバスタオルをかき寄せて瑞樹が言うと、スーツ姿の一条がうっすらと笑った。
「朝寝坊だな。――いま成田から戻ったところだ。着替えてから出勤するつもりだったが……」
 一条は瑞樹を手招いて言った。
「――気が変わった」

 リビングのフローリングの床に押し倒されて「あっ」と、小さく声が出た。
「っ、一条さん…!」
 いつもより性急な仕種で求められて、瑞樹は息を喘がせる。服を脱がせる手間がないぶん、一条は余計な手順を省いたようにダイレクトに瑞樹の前を握ってきた。
「…ッ……!」
 バスタオル一枚を隔てたフローリングの硬さを背中に感じながら、瑞樹は全身を弓なりに引きつらせた。一条の手の中で、瑞樹の物は淫らに形をかえてしまう。
 引きつる身体をなだめるように、一条の唇が胸に触れてくる。既に尖ってしまっている薄赤い胸の飾りに舌をはわせる。
「…ん、…ッ……」
 変な声を上げないように、瑞樹は歯を食いしばった。胸と足の間を同時に責められて、瑞樹はあっけなく暴発してしまった。
 瑞樹が零した蜜をすくい集めて、一条の指が瑞樹の中に差し入れられた。
「…っ!」
 熱くなりかけた粘膜を優しく中から拡げるように、一条はだんだんと慣らしながら指の数を増やしていく。
 ぎゅっと眼を閉じて、瑞樹はされるがまま一条に身体を開いていく。
 かちゃかちゃとベルトのバックルを外す音がして、指が抜かれたあとに昂った熱の固まりが押し当てられた。それが脈打ちながら奥まで埋められていく。
「うっ」
 その瞬間のわずかな痛みをやり過ごして、瑞樹はうっすらと眼を開けた。
 瑞樹の中に自分を納めた一条が、じっと瑞樹を見下ろしていた。一条の端正な容貌にあるのはなぜか遠くを見るような表情で、欲望の欠片も浮かんでいなかった。
 ――よくないんだろうか、おれの身体……。
 瑞樹は急に不安になる。
 と、無言のまま一条が抜き差しを始めた。
「はっ、…ぁっ、…っ…!」
 突き上げて来る衝撃と快感に、瑞樹の指は床のバスタオルを握りしめた。
 揺れる視界の端で、水槽の中でひらめく熱帯魚の鮮やかな尾びれが見えた。

 同じベッドの中の一条は穏やかな寝息を立てている。海外出張つづきで時差の疲れが出ているのかもしれない。
 リビングの床の上で。それから寝室に移動して。留守にしていた間の空隙を埋めるかのように、一条は瑞樹を抱いた。
 窓の外は夕暮れで、西の雲間から黄色い薄日が射している。
 瑞樹は静かに身体の位置をずらして、眠る一条の顔を見下ろした。微かに顰められた男っぽい眉の下、閉じられた睫が西日に影を落としている。彫りの深い整った顔立ちからは、大人の男の色気が感じられた。
 形のいい唇を見たら瑞樹は我慢できなくなって、引き寄せられるように一条の唇にそっと自分の唇を押し当てた。
 普段、瑞樹が自分から一条に口づけることはない。それは恋人がすることだと思っているから。だから自分から一条に口づけるなんて、しちゃいけないことだとわかっているけど。
「………」
 口づけられて、一条はうっすらと眼を開いた。
「!」
 至近距離で視線がぶつかって瑞樹はうろたえる。
「…ご、…めんなさい」
 一条が怪訝そうな瞳で瑞樹を見返した。
「――なにを謝っている」
 いま自分がキスしたことを一条は気づいていないのだろうか。それともわかっていて訊いているのだろうか。
 判断がつかず、瑞樹は赤面して睫を伏せた。
「おかしなヤツだな……」
 呟くように言って、一条はベッドから抜け出すとバスルームへと消えた。

「おれに……?」
 土産だと差し出されて、手のひらにのる程のケースを受け取りながら、瑞樹は一条の顔を見返した。
 シャワーを使って出てきた一条は、さっきの情事の痕跡はすっかり洗い流していた。新しいワイシャツに着替えて、すぐにでも外出できるような格好だ。
「シアトルの店先でたまたま見つけた。それ自体は、カナダの先住民アーティストによる一点ものだそうだ」
 ケースを開けてみると、出てきたのはシルバー製のブレスレットだった。
「最近の若い子は、こういうのが好きだろ?」
 一条の柄にもなくおやじくさい訊ね方に瑞樹は眼をばちくりさせた。確かに瑞樹は十八だが、一条だって三十になったばかりのはずだ。
 細身の表面に彫り込まれた幾何学的なデザインは、たぶん鳥だ。ところどころにはめ込まれている透明で蒼い小さな石はサファイアだろうか。
「その紋様は大烏―おおがらす―(レヴィン)だ」
「いいの? こんな高そうな物……」
 瑞樹が言うと、一条は微苦笑をした。
「そんなに高価な物じゃないさ。――おまえ、何も欲しがらないからな」
 一条のことばに、瑞樹は眉根をよせた。
 ――何も欲しがらない……?
 欲しいと思って、いままで手に入ったものがあっただろうか。
 渇望しても手に入らず、いつしか諦めることで自分の気持と折り合いをつけてきた。それはもう、瑞樹にとって習慣のようなものだった。  
――欲しいと言えば、本当に手に入るんだろうか。
「おまえもシャワーを浴びてくるといい。夕食はどこか外で食べよう」
 困惑したままの瑞樹に一条は言った。
 言われるがまま、瑞樹はバスルームに入ってシャワーの栓をひねった。久しぶりに一条に抱かれて、まだ身体の芯が熱を持っている気がする。
 いつも一条が優しくしてくれるから、瑞樹は感じ過ぎてしまって声を殺すことに苦労するのだった。まるで、一条は自分をを悦ばせるために抱くみたいだと、瑞樹は思う。
 だからお金で買われていることを、ときどき忘れてしまいそうになるのだ。もしも一条がもっとあからさまな欲望を押しつけてきたり、何かもっと酷いことを瑞樹に強要したりするのだったら、いまの瑞樹のような戸惑いはなかったかもしれない。
 実際、そんな客はいくらでもいたのだ。そこまで酷くなくても、瑞樹が声を出すことで興奮するのなら、もしそんな客の要望があれば、痛いだけでも瑞樹は感じている振りの演技だってした。
 ――でも一条さんのときには、そんな声出せない。おれ、本気で感じているから……。
 何も欲しがらないと一条は言ったが、瑞樹が何かをねだればそれを買い与えることで一条は満足してくれるのだろうか。
 きっとお金で買えるものならば、一条は何でも瑞樹の欲しがる物を買ってくれることだろう。少なくとも一条が瑞樹に飽きてしまうまでは。そのときは、瑞樹は〈シヴァ〉に戻っていくのだ。
 きっと一条にはわからない。本当に瑞樹の欲しい物は、お金では買えないことが。
 ――だって、一条さんの心が、お金でかえるはずがない……。

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