■ 熱帯魚2 ■


 一条のいない夜は長い。いつものように水槽の熱帯魚たちに餌をやると、瑞樹にはもう、やらなくてはならないことがなくなった。自分がここにいる理由はなんだろう、と瑞樹は考える。
 一条は『グッピーの世話係』を捜していたのだと瑞樹に言った。でも瑞樹はこの熱帯魚の大きな水槽に、オートフィーダーと呼ばれらしい自動餌やり機がついているのを知っている。それはいまオフに設定されているが、瑞樹が来る以前には使用されていたに違いない。
 水槽の水替えやフィルターの掃除なんかも、瑞樹が思っていたより頻繁にはしないものらしかった。詳しくは瑞樹にはわからないが、一条の説明によると水質が安定した水槽の中は、水の浄化に必要なバクテリアが住み着いてひとつの生態系のようになる。だから外から手を加えなくても魚たちに快適な環境が保たれるようになるのだそうだ。
 グッピーたちは相変わらずひらひらと水槽の中を泳ぎ回っている。長い尾びれの色彩が鮮やかなのがオスだ。蒼や緑や黄色が混じりあった派手な姿をしている。一方、メスのグッピーはくすんだ地味めな色合いで、尾びれも短い。
「あっ…」
 じっと見つめていた瑞樹は、思わず声を上げた。
 たくさんのグッピーの群れの中で、一匹のメスのグッピーの腹が膨れている。きれいな色や模様のオスと比べて、ずいぶん地味なメスのグッピーは、小さなパチンコ玉を飲んだように腹を膨らませていた。
 ――子供が産まれるんだ……!
 早く一条に報告しなければ、と瑞樹は思った。産まれてくる稚魚が、親魚に食べられてしまわないように。
 でも一条は出張中だ。あと二日は戻らない。



 新宿に足が向いたのは久しぶりだった。誰か知り合いに顔を見られるのではないかと、宵の雑踏の中、無意識に人目を避けるようにして瑞樹は〈シヴァ〉のドアを押した。
 開店したばかりの店内は、客も客引きの少年も、まだ誰もいなかった。瑞樹の姿を認めてマスターが驚いたような顔をした。
「ジンジャーエール」
 瑞樹は一番奥のではなく、手前の方のスツールに腰を掛けて注文した。
 黙ってジンジャーエールのグラスをカウンターに置いて、マスターは瑞樹の様子をうかがっているようだった。
「追い出されたんじゃないよ」
 マスターが勘違いをして、瑞樹に変な気を使っている様だったので、瑞樹はそう前置きした。
「部屋にいても退屈だったから、マスターの顔を見に来ただけ」
「……なんだ」
 と、マスターは安堵のため息をもらした。
「おれはてっきり――」
 いつもビジネスライクで、ちょっと冷たいところもあるけれど、このマスターはそんなに悪い人じゃないなと瑞樹は思う。
「出張中なんだ。明日の夜にしか帰って来ないから」
「サラリーマンて言ってたけど、何やってる人?」
「潰れかけてる会社を安く買って、立て直してまた高く売るの」
 言っている瑞樹にも、実のところはよくわかっていない。
「ああ、いま流行りのやつだな。どうせ外資の会社だろう」
「うん、アメリカの会社。海外出張ばかりしている」
「そうか……。で、まさかバイトしに来たんじゃないよな」
「違うよ」
 心外だと瑞樹は眉をしかめた。
「優しくしてもらってるの?」
「……うん。こっちが困るぐらい」
「なんで困るの」
 マスターが変なことを言うという感じで訊ねた。
「だって、おれはお金で買われているだけなのに、一条さんは恋人みたいにしてくれるから」
「一条さんっていうのか。瑞樹はそのひとのことが好きなんだな」
 こんどは瑞樹が、意外なことを言われた顔をした。
「好き? そんなのダメだよ」
「どうして?」
「だっておれ、ウリセンだよ?」
 瑞樹のことばにマスターはちょっと眉を寄せた。
「でもいまは一条さんの専属だろ? これからもずっとそのひとの専属になればいい」
「………」
 ――ずっと一条さんの……。
 瑞樹が想像したこともないことだった。
 ――一条さんだけの……。
 そんなことがあるのだろうか。
「いらっしゃいませ」
 ドアの開いた気配にマスターが声を掛けた。
「おっ、瑞樹じゃないか」
 まだ夜も早い時間なのに、すでにかなり酔っているらしい客は、断りもなく瑞樹の隣に腰を降ろすと、馴れ馴れしく肩を抱いてきた。
 一度、買われたことのある客だった。金に物を言わせて、散々おもちゃにされた記憶がある。
「――お久しぶりです」
 店のマスターの手前、邪険にすることもできず、瑞樹は身体をさりげなく引きながら応じた。
「何飲んでるの? おごるよ?」
 酒臭い息を吐きながら、男はさらに身体を密着させてくる。
「ご注文は?」
 と、マスターが割り込むように訊ねてくれた。
「ワイルドターキー、ダブル。ロックでね」
 口早にマスターに告げ、男の関心は瑞樹にだけ集中している。
「どうこれから、付き合わない?」
「おれ、もう帰るところなんで」
 素っ気なくなり過ぎないように気をつけて瑞樹は言った。
 虚を衝かれたような男に、愛想笑いのマスターがすかさず言い足した。
「そうなんですよ! この子は先約があって。すいませんねえ、お客さん」
 だいたい、一番奥のスツールに座ってもいない瑞樹を誘うことがルール違反なのだ。
「それじゃあ」
 と、瑞樹は立ち上がり、マスターには目顔でお礼を言って〈シヴァ〉を出た。
 夏の熱気が満ちた細い路地裏を歩きながら、瑞樹はさっきマスターに言われたことを考えていた。考え事をしながら、自然と足取りはゆっくりとしたものになっていた。
 一条さんの専属になる。たとえ恋人でなくても。
 ――このさきもずっと……。
 そんなことができたら、どんなに幸せだろう。しかし、どんなに幸せだろうと想像する傍らで、瑞樹はそんなことは起こるはずがないと感じていた。
 ――今まで望んで手に入ったものなんて何もなかった。
 かなわない夢を見て傷つくよりも、現実を見つめていた方がずっと楽だった。
「瑞樹」
 ふいに腕を掴まれ、驚愕して振り向くと、さっきの客の男だった。
 なんてしつこい客だろう。こんなに近寄られるまで気づかないなんて迂闊だった。
「放してください」
 腕を振り解こうとするが、男は思いのほか強い力で瑞樹の腕を掴んで放さない。
「冷たいな。そんなにお高くとまることはないだろう」
 男は唇の端を歪めて笑った。お前の痴態を全部知っているんだ、と言われているかのようだった。
 屈辱に唇を噛みしめている瑞樹の頬を、財布から取り出した数枚の一万札で男は叩き、
「これが欲しいだろう?」
 と、ささやいた。
 今度こそ瑞樹はかっとして、何か言い返そうと唇を震わせたとき、「おい」と一喝する声が背後からした。
「その子はわたしの連れだ。勝手な真似は止めてもらおう」
 そこにはスーツ姿の一条が、剣呑な空気を漂わせて立っていた。
「なに――」
 と一条の方へ向き直った男は、夏なのに上等なスーツを隙なく着込んだ相手を見て、瞬時に分が悪いと判断したらしい。さっと踵を返すと酔っ払いとは思えない素早さで盛り場の人波に紛れていった。
「一条さん……、出張だったんじゃ?」
「予定がひとつキャンセルされて、一日早い便で帰ってきたんだ」
 そう言って、一条は冷静な面持ちで瑞樹を見つめた。
「いつも、こんなところをうろついていたのか?」
 それは一条が出張しているときのことを訊ねているのだった。こっそりと客を引いていたのかと。
「ちがっ……!」
 酷い誤解に瑞樹が絶句していると、一条は無表情のまま瑞樹を表通りに引っ張って行き、タクシーを停めた。
 瑞樹の隣のシートで一条は運転手にマンションの住所を告げ、それきり腕組みをして眼を閉じてしまった。
 ――ああ、終わりだな……。
 と、瑞樹は心臓がすっと冷えていくような気持で息をひそめた。
 ――あの部屋を出て行く前に、グッピーのこと忘れずに言わなくちゃ。
 産まれてくる稚魚が、親魚に食べられてしまわないように。



 タクシーを降りて、黙ったままマンションの建物に入って行く一条に瑞樹は諾々と従った。エレベータの中でのふたりだけの気まずい沈黙の時間をしばし過ごして、高層階の一条の部屋に到着する。
 玄関ホールを抜けてリビングに入ると、薄暗いリビングで熱帯魚の大きな水槽だけがライトで煌々と照らされ、熱帯魚たちは鮮やかな緑の水草の間をひらひらと思い思いに泳ぎ回っていた。アマゾンの自然の川の浅瀬のように流木や藻なども配した水槽は、唐突に現れた美しい異空間の様にも思える。
 しかし、グッピーの水槽は今までと変わらず同じままなのに、部屋の空気はもう、妙によそよそしく瑞樹には感じられた。
 ――おれは出て行かなくちゃいけないんだ。好きだったな、この場所……。
「瑞樹」
 と、リビングの半ばで一条が立ち止まり、こちらを振り返った。暗がりで表情はよく見えなかった。一条の唇が別れのことばをつむぐことに耐えられなくて、瑞樹は先にそれをさえぎった。
「おれ、今夜中に出て行くから――」
 一条の表情が強張ったようだった。
「……そんなことで許されると思っているのか?」
 今までに聞いたことのない、低くて厳しい口調だった。思わず立ちすくんだ瑞樹の背中を、冷たい汗が滑って流れた。
「――来なさい」
 腕を捕られて、寝室に向かう一条に、瑞樹は逆らうことはできなかった。
 誤解だ、と説明することも瑞樹にはできるはずだった。一条が想像したようなやましいことは何ひとつしていないと。
 しかしそんな思いとは裏腹に、瑞樹の胸の中は諦めの気持に支配されつつあった。
 ――そう思われるのは無理もない。だって、おれは……。
 腹を立てた一条は、瑞樹に仕置きをするつもりなのかもしれなかった。一条にはこれまでずっと優しくされていたから、どんな豹変振りを見せられるのか酷く怖かった。
 寝室に入ると、瑞樹は腕を引かれて、つんのめるようにしてベッドに転がされた。
 瑞樹は思わず眼をぎゅっと閉じた。仰向けに横たわって、そのまま一条の気配をうかがう。
 何をされるにしても、それで一条の気が収まるなら、瑞樹はじっと耐えるつもりだった。 それだけの代価を一条は瑞樹に払っていたのだから。
 ――好き、だった……。
 たとえお金で買われている身であっても、たとえ勘違いでも、この気持は止められなかった。言ってはいけないことだったけれど。
 上着とシャツを脱ぎ捨てる衣擦れの音がして、一条の細身だが成熟した大人の身体が瑞樹の上に覆い被さってきた。
 泣きそうになるのを堪えて引き結んだ瑞樹の唇に、一条の唇が押し当てられる。
 
 強張る身体をなだめるように、いつものように、――もしかしたらいつも以上に――優しく落とされる口づけ。
「っ、……?」
 そのキスの、予想外の甘さに呆然として眼を開くと、一条の端正な顔が瑞樹を見下ろしていた。
「おれが何に腹を立てているか、わかるか?」
 優しく諭すような問いかけに、瑞樹は眼を見開いた。
「おれが腹を腹を立てているのは、おまえがあんな場所にいたことじゃない。あんな男に、あんな扱いをさせていたことに腹を立てているんだ」
「………」
 ――じゃあ、おれが客を引いてたと思った訳ではなかったんだ。
「おまえはもうウリセンなんかじゃないのに」
「……え?」
 瑞樹は睫を瞬かせた。
「おまえがこの部屋に来てから、おれは一度だって瑞樹のことをウリセンなどと思ったことはない。それに、この部屋に誰かを入れるのは、おまえが最初で最後だ」
 あまりに予想外な告白に、ことばもなく瑞樹は一条の顔を見返した。
「おれは瑞樹のことをずっと恋人だと思っていた。おまえもわかってくれているものだと、そう思っていた」
 端正な表情を苦しげに歪めて、一条は言った。
「……一条さん」
「――それとも、……みんな、おれの勘違いだったのか……?」
 ――勘違いしているのは、ずっと自分だと思っていた。
 瑞樹のかすんだ視界に一条の真摯な表情が映っていた。瞬きをすると熱い涙が頬を伝って耳朶に零れた。
 それからやっとの思いで、瑞樹はずっと心から言いたかったことを口にした。
「一条さんが、……好きです」

 繋がった熱の熱さに、抱きしめられる腕の強さに、瑞樹は胸が込み上げてきた。初めて、本当に一条に抱かれているような気持がする。
「あぁ、…あっ、あぁっ、…んぁ、あっ…」
 一条に力強く突きあげられて、絶え間なく唇から零れてしまう甘い声を、瑞樹にはもう止められない。
 ずっと一条に聞かれないようにと、あれほど我慢を重ねてきたのに。恥ずかしさに赤面し、涙ぐみながら瑞樹は一条の腕の中で与えられる快感に身悶えた。
「もっと聞かせてくれ……」
 と、掠れた声で一条が耳元に吹き込んだ。
「本当の瑞樹を抱きたい」
 情熱的に瑞樹の身体を愛しながら一条がささやく。客に聞かせるための演技ではなく、本当の瑞樹をと。
 息も絶え絶えに喘ぎながら、瑞樹は言った。
「…グッピー、…が……っ」
「グッピーが、どうした……?」
 一条がささやき返した。
「子供が、……産まれそう」
「そうか、じゃあ産卵用のケースに移そう」
「はっ、…ぁ…、親魚に、…食べられない、…ように……?」
「そうだ」
 一条のことばに瑞樹は安堵して微笑んだ。
「いっぱい増やして、もっと大きな水槽にしよう」
 一条が瑞樹に口づけながら、そう言った。
 快楽の波に翻弄されながら眼を閉じると、また長い尾びれをひらめかせて優雅に泳ぎ回る、蒼や緑や黄色が複雑に混ざりあった魚たちが脳裏に浮かんだ。

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