■ 熱帯魚3 ■


 早朝の便で成田に到着した一条は、その足で瑞樹のいる都心のマンションまで戻ってきた。今はバスルームで出張の疲れを洗い流している。今日はこのまま会社に出勤するつもりらしい。
 瑞樹がこの部屋で暮らすようになって四ヶ月あまり。もともと大きかったグッピーの水槽は、以前よりもさらにひとまわり大きくなった。繁殖したグッピーたちの数が増えたからだ。
 瑞樹の世話がいいお陰だと、一条は言ってくれる。自然の流木も配されて、緑も眩しい水草が植え込まれた水槽は、きれいな熱帯の川べりの一部を切り取ってきたかのようだ。その美しい小宇宙の中で、色とりどりのグッピーたちは思い思いに泳ぎまわっている。
 ――グッピーたちはどう思っているのだろう……?
 この水槽を安住の地だと思っているのだろうか。それとも、そんなことはあずかり知らぬことか。
 いずれにしてもグッピーたちは、この水槽の外では生きられない。それどころか今のような冬の季節、水槽の水を温めているヒーターが切れただけで、アマゾン原産の熱帯魚たちは凍えて死んでしまうだろう。
 瑞樹は、ガラスで仕切られた居心地のいい水槽から、少しだけ外界に出はじめている。ひとりの昼間はマンション近くのコンビニで、週三日のアルバイトを始めた。今日はたまたま休みの日だ。
 最初バイトをしたいと瑞樹が言ったら、一条は怪訝そうな顔をした。十分なお金を与えられているのだから、瑞樹がバイトをする必要性がわからなかったのだろう。しかし金銭面の問題ではなく、それが瑞樹の気持の問題であることがわかって、一条は好きにしていい、と言ってくれたのだった。
 バスルームから微かに聞こえていたドライヤーの音が止むと、しばらくして、きっちりと身支度を整えて新しいワイシャツを着た一条が、ジャケットを羽織りながらリビングに出てきた。
「東京は暖かいな」
 と、すっかり多忙なビジネスマンの顔つきになって一条は言った。
「今夜はなるべく早く帰るから」
 言いつつ一条は、広いリビングを横切って玄関ホールへと向かう。
「あ、一条さん、コート!」
 冬晴れの日中は暖かくても、さすがに十二月ともなれば夜は冷える。瑞樹は急いでクローゼットから一条の上等なピュアカシミアのコートを取り出すと、その後を追った。さっき一条が脱いでソファの背に引っ掛けていたのを、瑞樹がハンガーにかけ直したものだった。
 ――まるで奥さんみたいだな。
 そんなことをちらりと考え、瑞樹は面映い気持になる。出張のないとき、一条は週の半分くらいはこのマンションに帰ってくる。だから最近の瑞樹は、なんだか自分が一条の家族になったように思えるのだ。
 少なくとも一条がこの部屋にいる時間の限りは、瑞樹は余計なことは考えずに一条と過ごす時を大切にしようとしていた。
 玄関ホールでコートを着せると「ありがとう」と一条は微笑んだ。そのまま自然な仕種で瑞樹を抱き寄せ、指先で顎を少し持ち上げると、唇に軽くキスをしてくれた。
「行ってくる」
 一週間振りの口づけに胸がときめいてしまって、玄関のドアが閉まる直前、瑞樹は一条の背中に向かって、
「いってらっしゃい」
 と、ようやく小さな声で言った。

 ドアが閉まって一条が行ってしまっても、瑞樹はしばらく玄関ホールに立っていた。
 どんどん一条に惹かれていく自分が止められない。一条を初めて店で見たとき、凄く格好いいひとだな、と瑞樹は思ったけれど、今では一条の人柄そのものにも惹かれている。
 お金で買った瑞樹のことを、最初から恋人のように扱ってくれたことだけでうれしかったけど。
 ――一条さんは、おれのことを恋人だと言ってくれた……。
 物心ついた頃からずっと、遠い親類や養父母の間でお荷物のように扱われていた瑞樹に取って、必要とされることは何よりもうれしいことだった。
 あまりにも幸せ過ぎて、ときどき瑞樹は怖くなる。これが突然醒めてしまう夢ではないかと。それともこれは一条の単なる気紛れではないかと。
 ――なぜ一条さんは、おれのことを気に入ってくれたのだろう?
 一条が、店で偶然見掛けた瑞樹に声を掛けてくれたのは、どうしてだろうとずっと瑞樹は考えていた。本人に訊ければいいのだけれど、なんだか訊かない方がいい気もする。
 そのときドアのインターフォンが鳴った。一条の『隠れ家』であるこの部屋に、誰かが訪ねてくることはなかったので、瑞樹は一条が何か忘れものでもしたかと思い、そのまま相手も確かめずオートロックのドアを開けた。
「……!?」
 そこに立っていたのは、二十代後半ほどのきれいな女のひとだった。
 落ち着いた栗色のセミロングの髪は緩やかなウェーブを描き、オフホワイトのカシミヤのコートの肩に掛かっていた。くっきりとした切れ長の瞳を見開き、彼女は驚いたように瑞樹の顔を見つめる。
「……あの…?」
 瑞樹の声に我に返ったように、その女性は淡い色の口紅を引いた唇を開いた。
「ここに、一条が暮らしているのでしょうか?」
 一条、と呼び捨てにした女性のことばを聞いて、瑞樹は思わず硬直した。
 ――もしかして……!
「わたくし、一条の家内です」
「…っ!」
 ――一条さんの、奥さん!
 こういうときなんと言ったらいいのかわからず、瑞樹は玄関ドアを開けたまま、しばし絶句して相手の顔を見た。
 瑞樹は一条が妻帯者であることを知っていたし、一条のマンションの部屋で暮らして生活の面倒をみてもらっているのだから、瑞樹は紛れもなく世間でいうところの『愛人』だった。ただし瑞樹は女ではないけれども。
 その存在を発見した妻が激昂しようと、瑞樹のことを非難しようと、それはたぶん妻としてあたりまえの反応だろうと思う。
 しかし彼女は、最初こそ瑞樹の顔を見て驚いた様子だったが、瑞樹の予想からすると愛人の存在を知った妻というにはあまりにも落ち着き過ぎていた。
「こちらは一条の住まいなのでしょうか?」
 瑞樹が答えないので、もう一度、彼女は訊ねた。その声色は平静で、瑞樹にはこのマンションの部屋が一条の持ちものなのかどうかを単に確認したいだけのようにも聞こえた。
「――そうです。……一条さんのお部屋です」
 ようやく応じた瑞樹を見返して、
「やっぱりそうですか」
 と、彼女はちょっと息をはいた。それからまた、くっきりとした双眸でじっと瑞樹の顔を見返した。
「……すみません」
 言うべきセリフが思い浮かばず、瑞樹はそう言った。
 すると、
「なぜ……?」
 と彼女は訊ねた。なぜ謝るのかと。
 ――まさか、奥さんは知らないのだろうか? 一条さんが、男も抱くということを……。
「なぜ、あなたが謝るの?」
「そ、それは――」
 じっさい瑞樹にも、ここで謝るのが正しいのかどうかは判断がつかなかった。
 すると彼女がちょっと小首を傾(かし)げて言った。
「どこか外でお茶しませんか? ここが一条の部屋なら、わたしは中に入らない方がいいと思うの」
 ――奥さんなのに……?
 それとも、今は瑞樹がひとりしかいないからだろうか。瑞樹は一応、男だし。
「だってここは、あのひとの『秘密基地』でしょ?」
 ――秘密基地……!?
 面喰らって見返すと、彼女はわずかに微笑みを浮べた。
 なんか少し違うような気もしたが、この部屋が一条の『隠れ家』的な場所なのは確かだった。瑞樹は一条が、この部屋に入れるのは瑞樹だけだと言っていたのを思い出した。
「わかりました」
 瑞樹は急いで部屋に取って返すと、自分の上着を掴んで玄関を出た。

「一条とはいつから?」
 一条のマンションから、徒歩五分ほどのカフェに向かって歩きながら彼女が訊ねた。まるで道でも尋ねるような、さりげない口調だった。
 やはり彼女は、一条と瑞樹がそういう関係だということはわかっているらしい。
「今年の夏の始めごろからです」
「…そう」
 呟いた吐息が冬の日差しに白く光った。
 彼女の横顔を盗み見ながら、きれいなひとだと瑞樹は思う。
 一条のあの同じ腕に彼女も抱かれているのかと考えると、瑞樹はいたたまれない気持ちになった。
 それは一条と暮らすようになってこのかた、瑞樹がずっと目を背け続けていたことだった。一条に妻がいることは最初からわかっていた。瑞樹はわかっていて思い出さないようにしていたのだ。少なくとも一条が瑞樹と一緒にいる時間は、一条は瑞樹だけのものだと思いたかった。
 しかし目前のきれいな女性は確かに存在していて、間違いなく一条の妻のようだった。
「ここ?」
 立ち止まってこちらを見た彼女の声に瑞樹は我に返った。マンションから一番近い外資系チェーンのカフェの前だった。
「そうです」
 瑞樹が答えると彼女は先に店の中へと入っていった。
 入口ドアにはセンスのいいリースがさりげなく飾られていた。店内にもデコレーションがあって、クリスマスシーズンの雰囲気を盛り上げている。
 窓際のテーブル席に向かい合って腰をかけ、瑞樹は買ってもらった熱いラテのマグカップを前に、会話の取っ掛かりをどう掴めばいいのかわからず黙り込んでいた。
 すると彼女が敢えてなのか、気安げな明るい声を出した。
「若いのね。いくつ?」
「十八です」
「よかった、犯罪にはならないわね」
 冗談っぽく言った彼女は、やはり一条と瑞樹の間柄について正しく理解しているようだ。
「あの…奥さんは、一条さんと僕のことは――?」
「いやだわ、若い子から『奥さん』だなんて。亜沙美(あさみ)っていうの」
「亜沙美さん…」
「そういえばお名前は?」
「瑞樹です」
「瑞樹くんね。たぶんわたしが思っているので、間違ってないと思うけど」
 そう言って亜沙美は瑞樹の顔を見た。
「……でも、びっくりした。最初に瑞樹くんを見たとき、本当にそっくりに見えたから」
「そっくり?」
「ううん。こうして見ると実際そうでもないの。でもなんか雰囲気が似てるのよ、わたしの二歳上の兄に」
 亜沙美の兄というのなら一条と同じぐらい、いま三十前後だろうか。
「大学生のときに病気で亡くなったんだけど」
「……え?」
「だから私は十代だった兄の顔しか知らないのよ」
 亜沙美はちょっとさびしそうに微笑して言った。
「わたしの兄と一条は、高校からの親友だったの。家にもしょっちゅう遊びに来ていて」
 亜沙美はラテのカップを両手で包み込むようにして話し始めた。

 亜沙美の兄は、都内でも名の知られた進学校に通っていて、そこで一条と出会ったのだという。亜沙美はまだ中学生だったが、兄の部屋に出入りする端整な容姿で愛想も悪くなかった高校生の一条に、割合すぐに好意を抱くようになったらしい。
「ブラコンって程じゃなかったと思うけど、他に兄妹はいなかったし、お兄ちゃん子だったのよね。一条のこと素敵だなと思うようになって、これでわたしもお兄ちゃんから卒業かなって」
 亜沙美は瑞樹の方を見ていたが、懐かしむような遠い眼は、瑞樹ではない誰かを捜しているようだった。
「兄と一条は本当に仲良しだったのよ。端から見ていて嫉妬しちゃうぐらい。わたしの場合は両方に嫉妬してたんだけど」
 亜沙美は一条に憧れる一方で、お兄ちゃんのことも好きだから、ふたりが仲良くしているのを見るのは複雑な気持だったのだろう。
「――でもね」
 と、亜沙美は言った。
「あるとき、わたし気づいちゃったの。兄と一条はただの『親友」じゃないってことに」
「親友じゃないって……?」
 思わず瑞樹は訊き返していたが、話の筋は既にわかりかけていた。
「そう。『恋人』だったの」
 多感な思春期に相当ショックだったわと、亜沙美は感想を付け加えた。
「最初は友達から始まったんだと思う。いつから、とはっきりは言えないけど、たぶん兄と一条が高二の夏休みじゃないかな。何か変わったなって、ふたりを見てて思ったの」
 相手の微かな変化を感じることができる人間なら、わかるかもしれないと瑞樹は思った。互いのさりげない視線の交わし方や、肩先に触れる指先の仕種の変容に。
「……だからわたしから一条に告白はできなかった。それでもよかったの。偽善的って言われるかも知れないけど、兄と一条が幸せなら、わたしは近くで見守ろうと思ってた」
 亜沙美はそこまで話すとラテのカップに口をつけて一口飲んだ。
「兄と一条は高校を卒業するとそれぞれ希望の大学に進学して、付き合いは続いてるみたいだった。幸せなカップルのまま大人になれたらいいなあと、ずっと思ってたのに……」
 その後の亜沙美の話をまとめるとこうだ。
 亜沙美の兄は大学に入学した夏頃から、原因不明の頭痛に悩まされるようになり、検査の結果の脳に腫瘍があることがわかった。手術の難しい位置にあって、化学療法などの治療が施されたが、入退院を繰り返して、結局一年後に亜沙美の兄は亡くなったそうだ。
「今なら助かったかも知れないけど、当時はあれで精一杯だった」
 十年以上経ってもなお、最愛の兄を亡くした傷は心の底に残ったままなのだろう。亜沙美は辛そうに、しかし静かに言った。
「でね、残された者どうしが結婚したの」
「でも、…その、一条さんは――」
 瑞樹の疑問を察して亜沙美は引き継いだ。
「女のひとは実はダメかもって?」
 亜沙美の話を聞く限りでは、一条はバイではなくゲイのように思える。
「…ええ」
 瑞樹が曖昧にうなずくと、亜沙美はちょっと笑った。
「かなり無理すれば、できないこともないみたい。だからわたし一条に言ったの。『身代わりでもいいから……』って。兄の代わりに抱いて欲しいって」
 ――身代わりでもいいから……。
 ずきりと胸に響いて、瑞樹は我知らず息を飲んでいた。
「寂しかったんだと思う。一条も、わたしも」
 過去の懐かしい恋の思い出を語るように、亜沙美は透明な微笑を浮べた。
「いま思うと恋愛感情とはたぶん、ちょっと違ってた」
 亜沙美の白くて細いしなやかな指が、ほとんど空になったマグカップを弄んだ。
「………」
 見るともなしに見つめていた瑞樹は、彼女の左手薬指に、結婚指輪がはまっていないことに今更ながらに気づいた。
「ああ、ごめんなさいね。こんな話を初対面のあなたに長々としゃべって」
「いえ」
「お話したかったのは、もっと別のことだったの。でもわたしと一条とのことを最初に話さないとわからないと思ったから――」
 そう言って亜沙美は居住まいを正した。
「どうか、一条をよろしくお願いします」
 瑞樹に向かって亜沙美は深々と頭を下げた。
「…っ……!?」
 どうしてそうなったのか、瑞樹はこれまでの話を勘案しても訳がわからず、ただ目を白黒させた。
「――あの、どういうことでしょう?」
 ようやく頭をあげた亜沙美に、瑞樹は戸惑いながら訊ねた。

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