■ 熱帯魚4 ■


 大きな水槽の中を思い思いにひらひらと泳ぎ回っている熱帯魚たちには、何の悩みもないのだろうと瑞樹は思う。
 今夜は早く帰ると言っていた一条は、結局夕食の時間には間に合わず、午後十時を過ぎたさっきようやく帰宅した。今夜はこちらに泊まるつもりらしい。いつもならカラスの行水の一条にしては珍しく、もう二十分程バスルームでくつろいでいるようだ。
 ソファからぼんやりと水槽を見つめながら、瑞樹は今日の昼間の出来事を思い返していた。
『今でも一条のことは愛しています』と、亜沙美は言った。しかしその気持は男女間の情愛ではなく、まるで兄妹のような感覚に近いものなのだと彼女は瑞樹に説明した。だから瑞樹と亜沙美は何ら立場を争うことにはならないのだと。
 実のところ一条と亜沙美の間には、五年前の結婚当初からほとんど夫婦生活の実体はなかったらしい。一条の性癖を承知の上で結婚したのだろうから、瑞樹がそれについて何か感想を差し挟むことはできなかったが、不思議な気持で瑞樹は亜沙美の告白を聞いた。
 さらに驚くべきことに亜沙美には、一条公認の恋人がいるのだという。あまり売れていない画家で、小さな画廊のオーナーをしている亜沙美がその関係で知り合ったのだそうだ。
 亜沙美が瑞樹に『一条をよろしくお願いします』と託すのは、彼女が一条に負い目があるからに他ならない。亜沙美にとって瑞樹の存在は、これ幸いと思えるようなものではなかったのか。
 瑞樹は何か、心に引っ掛かりを感じていた。一条と亜沙美のような複雑な関係は、よくわからないけれどもあり得るかもしれないと思う。画家の恋人のいる亜沙美が一条と離婚しないのは、売れない彼氏を援助するために資金が必要だからだろうと想像はつく。
 瑞樹は今朝ドアを開けたときに、亜沙美が見せた驚いた表情を思い出した。切れ長の瞳が見開かれたのは、瑞樹に亡くなった兄の面影を見い出していたからに違いなかった。
 ――きっと似ているんだ……。
 瑞樹が疑問に思っていたことの答えが、思いがけないところで見つかった気がする。
 今までどうしてなのかわからなかったのだ。 店でも地味めな瑞樹に、なぜ一条が声を掛けてくれたのかが。
 ――でも、そんなのは知りたくなかった……。
 一条がバスローブをまとってリビングに出てきた。かすかなボディーシャンプーの香りが柔らかく瑞樹の鼻孔を刺激する。けさ一条が出かける間際に軽くキスをしてくれただけで、瑞樹の心臓は高鳴ったはずなのに。
 すぐ隣に腰を下ろした一条に抱き寄せられて、なぜか胸がずきりと痛んだ。一週間振りの懐かしい一条の腕だった。それだけで瑞樹の鼓動は期待に乱れ始めるのに。
 今日、瑞樹が亜沙美に会ったことは、一条には秘密だった。彼女がそうして欲しいと言ったからだけではなく、瑞樹が自分で言いたくなかったからだ。
「瑞樹……」
 低くささやいて一条が口づけてきた。
「ベッドに行こう……」
 拒めるはずがなかった。心に刺さったままの小さなトゲに気づかない振りをして、瑞樹は目を閉じたまま一条にうなずいた。

 素肌を重ねてベッドで一条に抱きしめられながら、瑞樹は胸がつまったような心持ちがする。
「…どうした?」
 気遣うように間近より見下ろしてくる一条の真摯な双眸から、瑞樹は逃れるように視線を泳がせた。
「何でもない。…寂しかったから――」
 ごまかすように言って瞬いたら、熱い雫がまなじりを滑り落ちて、そのとき初めて瑞樹は自分が泣いていることに気がついた。
「瑞樹」
 慰めるように名前を呼んで、一条は瑞樹の涙の痕を唇でなぞった。『寂しかったから』ということばを額面通りに受け取ったのか、一条はそっと啄むような口づけを何度も落とす。
 ――心が痛い……。
 どこに刺さったのかわからないトゲは、抜き取るきっかけを逸して奥の方に入り込み、じくじくと時間をかけて膿み始めようとしている。
 それでもそのトゲの存在を、瑞樹は自分から口にすることはできなかった。その存在を認めたら、今の幸せがあっけなく壊れてしまうようなに思えた。
 瑞樹は一条の首の後ろに両腕をまわして一条の身体を引き寄せた。それからゆっくり力を抜いて、瑞樹は身体を開いていった。

 一条が抱いているのは確かに瑞樹の身体だ。他の何者でもないけれども、一条にとっては別の誰かなのかもしれなかった。
 亜沙美のようには、きっと自分はなれないと瑞樹は思う。身代わりでもいいなんて、そんなこと瑞樹には言えない。
 ――ようやく見つけたと思ったから。自分のことを必要としてくれるひとを……。
「…っ、あぁ…っ!」
 熱い一条の脈動を埋められて、瑞樹は小さく嬌声を放った。こんなに気持は揺れているのに、瑞樹の身体は素直に悦んで一条の昂りを待ち望んでいたかのように迎えいれる。貪欲に求めてしまう。
 ほんの数カ月前までは、瑞樹は一条にお金で買われながら、少し優しくされるだけで満足していたはずなのに。『恋人だ』と言われた瞬間から、どうして一条のすべてを手に入れたくなってしまうのだろう。
「あ、…んっ、はっ、あぁ、んっ…」
 自分の唇をついて零れ落ちる声を、どこか他人の物のように聞きながら、瑞樹は快楽の波に自ら身を投げ出し、飲み込まれて行った。



「いってらっしゃい」
 心にわだかまりを抱えたまま、瑞瑞は翌朝一条が出勤するのを見送った。一条は瑞樹の胸の内を知ってか知らずか、何かと問い質すこともなく出かけていった。
 ――今晩もここに帰って来るのだろうか?
 一条の部屋だからいつ来ようと一条の自由に違いないが、けさの瑞樹は何げなく訊ねることができなかった。
 一条は亜沙美といつもどんな会話をしているのだろう、ふと瑞樹は思った。瑞樹が亜沙美と会ったことを一条は知らない。そもそも一条のかつての想い人と瑞樹の面差しが似ているからと言って、即座に自分が誰かの身代わりと決まった訳ではない。ぐるぐる思い悩むのを止めて、瑞樹はバイトに出掛ける準備を始めた。

 週三日のバイトに瑞樹の生活がかかっているのでないことは、コンビニの店主も知っていることだった。その日オーナーから、冬休みで学生バイトを大勢確保できるから、瑞樹はシフトを休みにしてくれて構わないと言われ「わかりました」と応じたものの、瑞樹はちょっと落ち込んでしまった。
 ――遊びでやっている訳ではないのに……。
 またこの部屋で一条の帰りを待ちながら、しばらくは熱帯魚を眺める生活に逆戻りだ。
 一条はやはり、今夜は本宅の方へ帰ったようだ。待つともなしに待っていた瑞樹は、時計を見てため息をついた。そろそろ日付の変わる時刻だった。もう寝ようかとソファから立ち上がったとき、玄関のインターフォンが鳴った。
 出てみると一条だった。酒に強い一条にしては珍しく、かなり酔っているようだ。もたれるようにしてくる一条の、いつもより熱い体温を感じながら、瑞樹は肩を貸してリビングのソファへと一条を導いた。
「いま、水、持ってくるから」
 そう言ってキッチンに向かいかけた瑞樹は、ふいに腕を引っ張られ「あっ」と、バランスを崩して一条の膝の上に手をついた。
「…瑞樹」
 ささやきながら強引に瑞樹の身体を引き寄せる一条を、瑞樹はむげに押し返すこともできず、戸惑いながらそのまま唇を奪われた。
「い、一条さっ…」
 ソファに押し倒しながら、性急な仕種で瑞樹のセーターのすそから手を差し込んでくる一条に、思わず瑞樹は声を上げた。
「ちょっと、待って」
 しかし一条の動きは止まらない。セーターを胸までたくしあげられ、身を捩って逃れようとしたが、
「…ッ! や…っ」
 胸の飾りに歯を立てられて、瑞樹は小さく悲鳴を上げた。背中をのけ反らして抗う瑞樹を、一条は押さえ込むようにしてジーンズのファスナーを下ろす。
「あぁっ!」
 乱暴に前を直接握り込まれて、瑞樹は涙目になって身悶えた。
「――亜沙美と会ったのか」
 一条は瑞樹の耳元に唇をよせて低く訊ねた。 右手は瑞樹の前を愛撫しながらだ。
「…ぁ、はっ、き、きのう……」
 一条の断定的な問いかけに、瑞樹は隠しだてすることもできず、素直に肯定した。
「ゆうべ泣いていたのは、その所為か」
「…ぅ、……」
 今度は答えないでいると、一条に脅かすように握られた。
「あう…ッ!」
 どうやら一条は、瑞樹の何かに腹を立てているようだった。ずいぶん酔っているように見えるのは、腹立ち紛れに飲んだりしたかの所為だろうか。
 恐らく今夜の一条は、いったん亜沙美のいる本宅に戻ったのだろう。そこで亜沙美の口から瑞樹と話したことを聞いたのかもしれない。亜沙美が進んでそのことを話したとは、瑞樹には思えなかったが。
「亜沙美の――兄のことを聞いたんだな?」
 仕方なしに瑞樹が頷くと、一条はその端整な容貌に、言い様のない苦渋の表情を浮べた。
「……そうか」
 呟くように言って、一条は瑞樹を本気で追い上げ始めた。
「あ、あっ、あぁっ」
 急激に快感が押し寄せて、瑞樹は訳がわからないまま高みに強引に押し上げられた。やがて視界が白くスパークすると、瑞樹は宙空に放り出されるようにして墜落した。
「…、……」
 肩で息をついていると、一条が手近なティッシュボックスを引き寄せて、無造作に汚れた手を拭うのが目に入った。一条に乱された衣服を直しながら羞恥に身を縮ませている瑞樹を、一条が冷静な視線で見据えた。
「身代わりだと、思っているのか……?」
 静かに問いかけられて、瑞樹はうつむいた。亜沙美の話を聞いて、確かに瑞樹は自分のことを亜沙美の兄の『身代わり』だと思った。けれど、きっと一条は否定してくれると期待している自分がそこにいたのだった。
 しかし続いた一条のことばは、瑞樹の期待を大きく裏切るものだった。
「なぜ『身代わり』で、いけない?」
 呆然として、瑞樹は一条の顔を見返した。
「どうして、いけないんだ」
 悪びれたり開き直ったりする様子でもなく、一条は瑞樹に訊ねた。本心から、その理由が知りたいというような口調だった。
「…っ」
 ――おれは、『身代わり』なの?
 喉元まで出かかったセリフを、瑞樹は無理やり飲み下した。瑞樹から、そう訊ねてしまってはいけないセリフだった。
 きっと一条は、「そうだ」と肯定するに違いなかったから。その瞬間、瑞樹は〈シヴァ〉のカウンターの片隅で客を引く、一晩限りの恋人に戻ってしまう。
 魔法が、とけてしまう――。
「あいつは……、」
 と、一条が絞り出すように言った。
「もう死んでるんだ。十年もまえに――。だから抱きたくても抱けない。汗ばむ肌も、軋む骨も、ぜんぶ塵になって、……もう、ないんだ」
 一条の声は、彼自身に言い聞かせるかのように瑞樹には聞こえた。
「面影さえもおぼろになって、記憶の隙間から零れ落ちていくのに――」
 そう言った一条に強く腕を掴まれて、瑞樹は息を飲んだ。
「おまえはこうして、熱い身体をおれの前にさらしているじゃないか」
 押さえられた声色に、悲痛な響きが滲んでいた。
「………」
 瑞樹は目を見開いて一条の顔を見つめた。 一条の潤んだ双眸の奥に、瑞樹は見てはいけない闇を見つけてしまったような気がした。一条が心の奥底に抱えて、放すことの叶わない闇を。
 腕を取られて、瑞樹は一条に引きずられるように寝室へと連れていかれた。瑞樹に抵抗する気はなかった。しかし、惚けたような身体が脱力していくように足をもつれさせ、無言の抵抗を試みているようだった。
 ベッドに投げ出されて一条に組み敷かれても、瑞樹は声も上げずに何もない空間の一点を見つめていた。



 ベッドの中で小さく身じろいで、瑞樹は隣の部屋からかすかに伝わる、出勤前の一条の気配に神経を集中させる。
 一条に、『起きて来なくていい』と言われるまでもなく、けさの瑞樹は昨夜の情交の名残りで身体を動かすことさえ億劫だった。こんな風に一条に抱かれたのは初めてだった。声が嗄れるまで叫ばされ、ついには『もう許して』と瑞樹は懇願した。
 ――まるで別人のようだった……。
 ゆうべのは暴力を振るわれた訳ではなかったが、今まで瑞樹のことを慈しむように優しく抱いていた一条からは想像できないくらい、荒々しく、激しいものだった。
 瑞樹の感じるところを熟知した一条に、瑞樹はさんざん翻弄された。一条のむき出しの欲望の前におじけづきながら、それでも瑞樹は身体を開いて一条を求めたのだ。
 ――……もう、最後だから。
 一条の気配がリビングから玄関ホールへと移動して、そしてわずかにドアの閉まる音がした。
 一条が出掛けてしまうと、部屋はしんとした静寂に包まれた。ベッドの中で潜めるように息をして、瑞樹は目を閉じた。もう少しだけ眠ろうと思う。もう少しだけ。
 何か楽しいことを考えようと瑞樹は思った。
 緑が眩しい水草が揺らめく熱帯の川の浅瀬。陽の光を浴びながら、水草の間を色とりどりのグッピーたちが思い思いに泳ぎまわっている――。

 身支度を整えると、瑞樹はグッピーの水槽を見遣った。最初瑞樹がこの部屋に来たときから、ずいぶんとグッピーの数は増えた。瑞樹は水温が適温になっているのを確認してから、自動餌やり機のスイッチをオンにした。
 荷物は、ほとんどない。このマンションでの瑞樹の持ち物は、みんな一条から与えられた物だった。だから瑞樹は、身体ひとつだけでこの部屋を出て行こうと思う。
 ――さようなら。
 熱帯魚に別れを告げて、瑞樹は合鍵をローテーブルの上に置くと玄関に向かった。靴を履いて玄関ドアを開ける。マンションの通路に出ると、オートロックのドアが瑞樹の背後で静かに閉まった。



 新宿の街はやっぱり見慣れた風景で、瑞樹はわずかな失望と共に、どこか安堵感のようなものを味わっていた。
 ――結局、戻って来ちゃったな。
 十二月の夜の街は、深い訳もなく盛り上がっていて、寒風の中イルミネーションがぎらぎらしている。刹那の快楽を売買する街には似つかわしいと瑞樹は思う。
 まだ夜はこれからという時間、瑞樹の足は通い慣れた〈シヴァ〉へと向かっていた。
「いらっしゃ…」
 ドアを開けた瑞樹に、マスターの掛けた声が尻切れとんぼになった。
 黙ったまままだマスターしかいない狭い店内の、カウンター一番奥のスツールに瑞樹は腰を下ろした。
 じっとマスターが様子をうかがう気配がした。マスターはそれから息を吐いてグラスを出すと、静かに瑞樹の前のカウンターに置いた。ジンジャーエールの爽やかな香りが立ちのぼる。
「――追い出されたんじゃないよな?」
 確かめるようにマスターが口を開いた。
「うん」
「そうだよなっ」
 すかさずマスターが相槌を打った。
「自分から出て来た」
「っ! ……なんで? 酷いことされたのか?」
 本気で心配をしてくれているらしいマスターの顔を見て、瑞樹はちょっと胸が熱くなった。
「……ちがうよ。一条さんは良くしてくれた。ただ、魔法がとけただけ」
 柄にもない想像だと思ったけれど、馬車がカボチャに戻っただけなんだと瑞樹は考えた。でも、どうしてガラスの靴だけは魔法がとけずに残ったのだろうか? あのおとぎ話はどうも納得できない。
「またここでお世話になってもいいかな?」
 控えめに瑞樹が切り出すと、マスターはこれ見よがしにため息をついた。
「そりゃあ、おれも商売だから。瑞樹がそうしたいって言うなら、とめないけど……」
 本当にいいのか? そんな目つきでマスターは言った。
「ありがと。おれも稼がないと暮らしていけないから」
 瑞樹はそう言ってジンジャーエールのグラスに口をつけた。
 カウンター内で準備をしているマスターを眺めながら、しばらくカウンターでぼんやりしているうちに、客が何人か来はじめた。
 さりげなくこちらを値踏みする視線を感じながら、瑞樹は気の抜けてしまったジンジャーエールのグラスを見つめていた。これまでの経験上、店の一番奥のスツールに座っていたからといって、すぐに客がつく訳ではなかった。
 瑞樹はどちらかというと地味めで、他の子のように派手できれいな容姿を売り物にしているのでもない。それでも好みはひとそれぞれなので、そんな瑞樹を気に入ってくれる客が現れるまで辛抱強く待つしかないのだ。
 一条が声を掛けてくれたのは、瑞樹が一条の亡くなった恋人に似ていたからだったが。その事実を知るまで、ずっと瑞樹は一条から声を掛けられたことを不思議に思っていたのだった。
「となり、いいかな?」
 声に我に返り、瑞樹は顔を上げた。
「どうぞ」
 細面で公務員ふうの三十歳位の男だった。
 ――よかった、嫌なタイプじゃない。
 男が隣のスツールに座ると、瑞樹はすかさず営業用スマイルを向けて訊ねた。
「ここのシステムはご存じですか?」
「だいたいは」
 おずおずと答えた男に、瑞樹はさらに愛想よく続けた。
「じゃあ一応、説明させてもらいますね」
 なるべく慣れているように見える様、瑞樹はことさらビジネスライクにシステムの説明を始めた。気持が揺らぐのを客に見透かされないようにと。
「できればステイがうれしいんだけど」
 料金の説明をした瑞樹は、にっこりと客に笑いかけて言った。ショートを繰り返した方が稼げるけど、続けて客がつくとは限らないし、そもそも今夜は帰る場所がなかった。
「では、それで」
 生真面目そうに男が答えた。
 席を立って自分から男の腰に手を廻した瑞樹を見て、マスターがちょっと眉を寄せたようだった。気づかない振りをして瑞樹は客に笑顔で言った。
「僕がいつも使ってる場所でいいよね?」
 それは、近くの素っ気ないビジネスホテルだ。瑞樹は恋人のように男に寄り添って、冷たい夜の中へ歩き出した。

■ 5へ ■