フラッシュバック


  けたたましい非常ベルの音で意識が急激に覚醒した。目を開けると辺りはぼんやりと暗かった。薄汚い壁が視界いっぱいに広がっている。
  ここはどこだ……? 
  息を吸ったとたんに咳き込んでしまった。きな臭い。はっとして頭を上げると、どうやら狭い倉庫のような部屋で、自分は壁際の床に転がされているようだ。煙りが閉ざされたドアの隙間から流れ入ってきていた。
  これは火事? 
  と、ドアが激しく叩かれ蹴破られた。
「だいじょうぶかッ!?」
  若い男がまっすぐ駆け寄ってきて訊ねた。二十代半ば位だろうか、男らしい端正な容貌の強い意志をもった双眸がこちらを見つめた。
  だれだろう? なにがどうなっているのか、皆目見当がつかない。無言のまま男を見上げていると、舌打ちして男が言った。
「手を出せ。切ってやるから」
  そのとき初めて、自分の両手首が細いワイヤーのようなもので縛められていることに気がついた。縛られたまま暴れたのだろうか、ワイヤーはところどころ皮膚に食い込み、切り傷となって血が固まった痕跡があった。
  男がズボンのポケットから小さなペンチのようなものを取り出し、器用に手首のワイヤーを切って外してくれた。
「立てるか? ほかに怪我は?」
「……わからない」
  掠れた声が出た。
  これが自分の声…?
「よし、立ってみろ」と男が肩を貸してくれる。両足に力を入れて立ち上がろうとしたら、かくんと膝が笑ってよろめいた。下半身に力が入らない。なぜか下肢奥に濡れたような湿った違和感がある。
「まあなんとか歩けそうだな。急ごう、このままでは蒸し焼きだ」
  男が白い歯を見せ、不敵に笑って言った。

 自分は建物の地下倉庫にいたらしい。男と非常灯に導かれ、よろめきながら脱出すると外は夜だった。消防車だろうか、サイレンの音が近づいてくる。
「こっちだ」
  建物脇に駐車していた白いセダンの後部座席に、押し込むように乗せられた。男が運転席に滑り込み、車が急発進する。
「ひどくやられたな」
  ルームミラー越しに声を掛けられた。いまになって体中が痛みだした。ワイヤーが食い込んでいた手首はずきずきするし、腕や足にも打撲があるようだ。それと下肢奥の馴染みのない場所の痛みはいったい……。
「………」
  返事をしないのでミラーの中で男が心配そうに眉を寄せて訊ねた。
「痛むのか、カイト?」
「―――それが俺の名前か。名字か、それとも下の名前か?」
「おいおい、冗談言うほど元気なのか」
「冗談ではない。……俺はだれだ?」
  男が、ミラー越しに愕然とした表情をこちらに向けた。

     **

「庵原海渡(いはらかいと)、それがあんたの名前だ。年齢は二十九歳。俺より四つ年上」
  カイトは差し出された自動車免許証を見つめた。助け出されたとき、床に落ちていた上着の財布に入っていたらしい。
  確かに自分の顔写真のようだった。本籍地、現住所ともに東京都になっている。記載された現住所はいまふたりがいるこのマンションだった。
「――で俺の名前が、冴島敬(さえじまたかし)。あんたのパートナーだ」
「パートナー? 仕事のか?」
「――公私ともどもだ。……ったく、こんなことをあんたに説明する日が来るとは思ってなかったぜ」
  敬は全身でため息をついて、カイトに向き直った。
「よく聞けよ、あんたと俺はこの3LDKのマンションに一緒に住んでる。世間ではこういうのを同棲という」
「……意味がわからないが」
  なぜ男どうしで住むのが同棲になるのか。それを言うのなら同居だろう。
「マジで言ってる?」
  カイトは大真面目に頷いた。
  敬(たかし)は仕方ないといった様子でソファから立ち上がり、カイトのすぐ隣に座った。
「あんたと俺は、恋人だ」
「―――」
  一瞬思考が停止した。
「男どうしだぞ?」
「もちろん」
「……俺が、おまえを抱いていたのか?」
  すごい勢いで敬が飛び退った。
「ちがーうッ!」
  敬がソファのクッションをガードするかのように鷲掴みに抱え叫んだ。
「違う?」
「俺が、あんたを、抱いてたのッ!」
「――!!」
  ――この青年が俺を……!? ……嘘だ。そんなことがあるはずない。
  根拠はなかったがカイトはそう思った。そう思いたいだけだったかもしれない。
「……とにかく、その汚れた服を脱いでシャワー浴びてくれば? 傷の手当てもしたいし」
  敬がクッションを抱きかかえたまま、困ったように言った。

 自分の名前も思い出せないのに、性的嗜好がどうこうなんてわかる訳がない。
  言われるまま、カイトはバスルームへ向かうと服を脱いだ。手首の浅い切り傷の他は、予想どおり打撲だった。腕や肩が内出血のあざになっている。なにか定期的に運動をしていたのだろうか。割としっかりとした筋肉が身体全体についている。傷や手術痕などはなし。
  ――俺は何者なんだ? 
  とりあえず名前と年齢はわかった。現在の自分には単なる記号のようなものにしか思えなかったが。
  洗面台の鏡の中にはこちらを見つめる男の顔がある。濃い眉、奥二重の眼、尖った鼻、少し薄めの唇。免許証の顔と同じだったが、見覚えがないというか愛着を感じない。他人の顔のようだった。
  カイトはシャワーを全開にして奔流の下に立った。強張っていた筋肉が解れていくようだ。ふいに下半身に違和感が走った。下肢奥に痛みがある。どうしたのだろうと指で探って息を飲んだ。熱を持って粘膜が柔らかく露出していた。まさかと思いながらおそるおそる指を差し入れてみると、あっけなく弛んだ粘膜が指先を飲み込んだ。内部からとろりとした液体が流れ出る。
「―――ッ…!」
  ようやく自分がなにをされたのかを思い当たって、瞬間めまいがした。流れでできたのは男の体液に違いなかった。まったく記憶にないのがせめてもの救いだ。信じ難いことだが、拉致されたときこの身体が男の慰みものにされたということだった。

「顔色が悪い」
  バスローブを纏って出てきたカイトを見て敬が言った。
「……やっぱりヤられてたのか?」
  意味がわかってカイトは頷いた。
「そのようだ」
  敬は眉をしかめた。
「それも憶えていないのか」
「ああ。おまえの言うことが本当なら、俺はだれに拉致されていたんだ? 目的はなんだ。俺が何かしたのか?」
「落ち着けよ。順番に説明するから。まず傷を見せろ」
  敬がソファから立ち上がって傍らに立った。身長はカイトより少し高かった。
「おまえ、身長なんセンチだ?」
「百八十六。スリーサイズも知りたいか?」
「いや、いい」
  ソファに座らされて両手首の傷を消毒されると、ガーゼを当てて包帯を巻かれた。慣れた手付きだった。
「これでよしっと。今夜はもう寝よう。夜が明けちまう」
  我知らず敬を見返してしまったらしい。
「……なにもしないから安心しろよ。ベッドルームはひとつだが、ベッドは二台ある」
  敬はため息まじりにカイトを見やり、そう言った。




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