フラッシュバック

2


  翌朝、目が醒めたら何もかもを思い出していて、すべて悪い夢でも見ていたかのようだった。――だと良かったのだが、実際はというと何ひとつ変わっちゃいなかった。
  ゆうべは敬がいつ寝室に来たのかもわからなかった。ベッドに横になると墜落するように深い眠りに落ちてしまったのだ。朝気がついたときには隣のベッドはすでにカラで、敬の姿は見当たらなかった。
  敬はキッチンにいた。
「よく眠れたようだな」
  と、敬はトーストの皿と紅茶のカップを手際よくテーブルに並べながら訊いた。
「ああ、泥のようにって言うんだな」
  言いながらカイトはテーブルの席に着いた。トーストには薄くバターが塗ってあって、その上にきれいなペールグリーン色のジャムのようなものがのっていた。
「おまえが作ったのか?」
「お茶入れて食パンを焼いただけだろ。いつも俺がやっていた。……あんたは何もできないからな、こういうの」
  敬が白い歯を見せて少し笑った。
「――そうなのか」
  なんだか笑顔が目にしみた。敬がそう言うのなら、そうなのだろう。妙な気分だった。
「早く食えよ。ライムのマーマレードあんた好きだろ?」
「ライム? マーマレードってオレンジじゃないのか」
  自分の名前すら思い出せないのに、どうしてマーマレードがオレンジだなんて思うのだろう。
「ライムなんだよ。いつも俺に探させて買わせるくせに」
  トーストをかじってみるとオレンジとは違う柑橘系の香りが口に拡がった。たしかにライムだ。バターの塩味と絶妙にマッチしている。
  敬がじっとこちらを見ていた。視線が熱く絡んでくるようで、カイトは思わず食べかけのトーストを皿に置いた。
「なんだ?」
  敬がテーブルのこちら側に来て、後ろから椅子の背もたれごと上半身を抱きしめてきた。
「――心配したんだ。無事でよかった」
「敬……」
「ようやく名前で呼んでくれた――」
  敬が耳元でささやいて、その唇が頬に触れる。「カイト」と、顎をすくわれ上向かされた。
  そっと触れるだけのキス。唇に――。
  びくりと緊張した気配に、敬が身を引き、悲しげに表情を曇らせた。男っぽい容貌なだけにかえって痛々しい感じがする。
「ごめん」と敬が呟いた。「……我慢できなかった」
「いや……」
  どう答えたものかと悩む。
「しょうがないよな。憶えてないんだから」
  無理に笑って敬が言った。
「だいじょうぶだよ。きっと一時的なものさ。事故のショックで記憶が飛んでるだけだと思う」
「事故?」
「俺が見つけたときには車は大破してて、あんたの姿が見当たらないからマジで焦った」
「俺は誰かに追われてたのか」
  追われてた――と、口にしてカイトはハッとする。
  ――なんでそう思ったんだ? 
「そうだよ。正確にいうとカイトの持ってたものが、だけど」
「なんだそれは」
「データの入ったコンパクトディスク」
「ディスク?」
「何のことかわからない、……か」
  と、敬がカイトを探るように見て言った。
「俺が持ってるのか」
「持ってるはずなんだけどね。――少なくともいま手元にはないよな」

     **

「――つまり、俺が敬の下で働いていたってことか」
  朝食後、リビングのソファで確認するようにカイトは敬に訊ねた。
「ああ。『組織』の役割からするとそうなるか。会社でいうと直属の上司だな」
  不審そうな顔をしたのだろうか、敬が薄く笑った。
「年功序列じゃないから。年下の俺があんたのスーパバイザーで、カイトは俺の実行係だ」
  敬の話を整理するとこういうことだった。
  自分は『組織』と呼び習わされるいわゆる裏社会の団体に所属していて、非合法な活動にも関わっていたらしい。
  『組織』は様々なセクションに別れていて、敬がスーパバイザーを務めるセクションは裏工作を専門としている。セクションによっては暗殺を請け負うような物騒なところもあるということだった。
  敬のようなスーパバイザーの上には、さらにコントローラと呼ばれる人物がいて、『組織』の上部と直接繋がっているらしい。普段実行係と接触するのは直属のスーパバイザーだけで、実行係が『組織』の全容を知ることはできない仕組みのようだ。
「俺たちのセクションは『Fセクション』と呼ばれている」
  敬が説明に付け加えた。
「F? 何の頭文字だ」
「コントローラの名前だ。本名は部外秘」
「………」
  なんと言うか、突拍子もない話だった。
「で、ディスクには何のデータが入っていたんだ?」
  カイトが訊ねると敬が眉を寄せた。
「それが……、わからないんだ」
「わからないって、あんたは俺のスーパバイザーだろう」
  怪訝そうに言ったカイトの顔を、敬はじっと見た。
「カイトは優秀な実行係だったから」
  敬がぽつりと言った。
「たしかに俺が指示をするのが『組織』のやり方としては順当だけど、あんたは割と自律的に動いていたんだ。俺の上のコントローラが異義を唱えなければ、そういうのもアリなのさ」
「優秀な実行係が記憶喪失なんてお笑いだな」
  自虐的に答えると、敬が悲しそうに目を伏せる。
「焦らなくていい……」
  と、敬は優しい声で言った。
  その声に、自分が苛ついていたことにカイトは気がついた。無意識のうちに敬みにあたっていたようだ。
「すまない。あんただって困っているよな」
  すると敬が顔を上げてこっちを見た。気を取りなすように微笑を返す。
  ハンサムだな、と唐突にカイトは思った。同性から見ても惚れ惚れするような男らしい風貌だ。白い歯を覗かせて微笑む仕種に、見覚えがある気がした。少なくとも自分の顔を見たときよりも、馴染みのある顔のような気がする。
  ――……俺はこの顔を知っている。
  しかしこの男に、同じ男の俺が抱かれていたというのか。それがまだカイトには信じられない。
「カイトのこと、なんだか遠くにいるように感じるよ」
  カイトは敬の顔を見返した。
「本当はすぐにでも抱きたかったけど、まだ無理だよな」
「………」
  敬の言うとおりだとカイトは思った。まだ自分の置かれている状況すら把握しきれていないのだ。
「いいよ。理性がもつギリギリまで耐えしのぶから」
  敬は軽口を叩いて片目をつむった。
「念のため二、三日は部屋で安静にしていたほうがいいな。手がかりを捜すのはそれからにしよう」
「一緒に捜してくれるのか?」
「当然だろ。いつもはベッドの中まで一緒だったんだから」
  さりげない敬の主張に、カイトは年甲斐もなくドギマギした。恋人だというのは、やっぱり本当なのか。
「カイト、あんたの部屋見てみないか。何か思い出すきっかけになるかもしれない」
  と、敬が提案した。
  このマンションの部屋はふたりの寝室を除くとあと二部屋あって、それぞれがカイトと敬の個室になっていた。書斎のように使っていたようだ。
  案内されてカイトは部屋の中を見回した。八畳ほどの洋室だった。大きめのデスクに本棚。ベッドが置かれていないから広く感じる。壁の一方がクローゼットになっていて、開いてみると、当然だけれども自分の服が入っていた。スーツが何着か吊るされている。
  本棚に本はほとんどなかった。都内の地図や首都圏の道路地図がメインだった。実用一点張りで趣味を感じさせるようなものは何もない。
  デスクの上にはスタンドと、写真立てがひとつ。手に取ってみて、カイトは思わず息をはいた。写真は自分と敬だった。ふたりとも笑っている。背景はどこかの高原か。
「軽井沢だ。去年の夏に出掛けた」
  隣に立っていた敬が言った。
「プライベート?」
「そうだよ」
  ふたりで旅行をするような仲だったというわけだ。自分の笑顔がなんだか照れくさくて、カイトは咳払いをして写真立てを元に戻した。
  デスクの引き出しの中には、これといってめぼしい物は入っていなかった。筆記用具と便せん、ブランクのメモ用紙の類いだ。
  ふいに違和感を覚えてカイトは訊ねた。
「パソコンは?」
  いまどきの必需品のはずだった。デスクの上にパソコンがない。
  敬がくすくすと笑い声を立てた。
「信じられないな。あんたがパソコンだなんて」
「どういう意味だ」
「カイトはパソコン苦手だったんだよ。パソコンなんておもちゃは必要ないって、いつも言ってたじゃないか。……もちろん負け惜しみだけどね」
「――そうなのか」
  まるでオヤジだな、とカイトは思った。そんなオヤジがコンパクトディスクか。思い出すのに手間取りそうな予感がした。




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