フラッシュバック

3


 敬の大きな手が器用に動いて、カイトの両手首の湿った包帯をほどいていく。なぜか敬に触れられるとカイトは緊張する。
  夕方、シャワーを浴びて出てきたカイトの両手を取ると、敬は濡れた包帯とガーゼを取り替えてやると言った。
  長くて節の目立つ指がガーゼを剥がすと、ワイヤーで手首に刻まれた傷が見えた。炎症が引いてかさぶたになりかけている。
「良かった。思ったより治りが早いな」
  敬が呟いた。
  消毒液を振り掛けて「しみる?」とカイトの顔を見る。
「ちょっとな」
  答えて顔を上げると、敬と視線が絡まった。敬の冴えた瞳が物言いたげに、じっと見つめる。
  無意識に唾を飲み込んで、カイトは敬に握られていた手を少し引いた。
「カイト?」
「すまん。特に意味はないんだ」
  強いて言えば慣れないということだった。どのくらいで元に戻るのか自分でもわからなかったが、記憶をすべて思い出せれば普通に敬のことも受け入れられるのだろうか。
「あやまるなよ」
  敬が俺を見てとがめるように言った。
「かえってこっちが気を使うだろう? それともいっそ俺と寝てみる? 何かの拍子に思い出すことがあるかも」
  敬が真面目な表情で言うので、手を握られたままカイトは思わず顔を見返した。
「――冗談だ」と敬が笑った。「カイトがその気にならなきゃ、俺だってノリが悪いからな」
  そう言いながらも、敬はその手を放そうとしない。
「……敬?」
  思い出したように、敬は傷口にガーゼを当てて、無言で包帯を巻き始めた。
「敬?」
  完璧に巻き終えたのを確認すると、敬はカイトの手を引っ張った。ソファに並んで座っていたので、自然と身体を敬に預ける体勢となる。
「おい……」
  敬が半身を抱きしめてきた。割と細身に見えたのに、予想外の力強い腕の感触だった。カイトが呆然としていると、ふいに唇を塞がれた。けさキッチンで触れられたような軽いキスではない。
  反射的に身を強張らせ、カイトが逃れようとする間もなく、さらに強く抱きすくめられる。喘いだはずみに敬の舌が口中に滑り込んできた。
「ん……っ」
  逃げる舌を巧妙に絡め取られる。頭を振って制止しようと試みるが、難なく顎をつかまれ押さえ込まれた。
「待て…――」
  ソファに上半身を押し倒されてカイトは焦った。上擦った声を上げたカイトを、敬はじっと見下ろした。端正な顔に読み取れる表情はなかった。
「――耐えしのぶって、言ったじゃないかっ」
  さらに抗議を重ねると、敬は妙に冷静な声で答えた。
「もう限界だ」
「早すぎるぞっ!」
「あっちの方は、そうでもない」
  冗談とも本気ともつかない面持ちでそう応じると、敬はカイトが着ていたパジャマのボタンを外し始めた。本気で抱くつもりらしいとわかってカイトは声を上げた。
「おいっ、ちょっと待――」
  敬の唇が新たな抗議を強引に封じた。そのまま胸元から侵入を果たした手が、素肌を確かめるように愛撫する。
  それなりの配慮はあったのか、乱暴でなかったが敬はしっかりとカイトを組み敷くと一切の抵抗を奪った。恋人どうしだったと言われても、まるでその記憶のないカイトは、困惑と混乱の中で途方に暮れていた。
  ――同じ男に何をされているんだ。
  そう思っても、明らかに慣れている敬の愛撫の施し方に、まるで酩酊しているかのように頭がくらくらしてくる。敬の指と唇が、首筋から胸へと降りてくる頃には、カイトはもうどうにでもなれという気分だった。
  だが突如、敬のジーンズのポケットから携帯電話の着信音が鳴り響いた。
  敬が小さく舌打ちをした。カイトから身を起こしてソファに座り直すと、ポケットから携帯電話を取り出した。
「はい、冴島」
  カイトは、はだけられたパジャマの前をかき合わせながら、敬の様子をうかがった。
「――わかっている。……そうだ。また後で連絡する」
  眉根を寄せて早口の小声でささやくと、敬は素早く電話を切った。
  カイトがパジャマのボタンをすべてはめているのを見て、敬は小さくため息をついた。
「残念だな」と唇に淡く笑みを浮かべて呟く敬は気をそがれたような目つきだった。その目よりも気になったことがあってカイトは訊ねた。
「俺の携帯はどうしたんだろう?」
「あんたの携帯……?」
  虚を衝かれたように敬が言った。
「……奴らに取り上げられたか、どこかで落としたりとかしたんだろう」
「そもそも奴らって何者なんだ?」

 

 『有限会社マミヤサービス・コンサルティング』の事務所のデスクで、社長の間宮はその端正な面(おもて)の眉間にしわを寄せていた。社長といっても間宮は三十歳を少し越えたばかりだ。事務所には常勤の社員がいるわけでもなく、いつものように閑散としている。
  間宮はメタルフレームの眼鏡を外すと煙草に火をつけ、大きく息をはいた。本当は眼鏡が必要なほど視力は悪くない。裸眼でもギリギリ車の免許が更新できる位だ。眼鏡をかけるようになったのは『組織』の仕事を始めてからだった。眼鏡をかけることで無意識に素の表情を隠そうとしているのか、間宮は自分でも釈然としない。しかし自分が裏社会に足を踏み入れたことと、まんざら関係がないと言い切れない気がするのは確かだ。
  間宮の会社の業務は、表向きは人材派遣やアウトソーシングだったが、依頼があればなんでも請け負う『組織』の一員としての裏の顔を持っていた。社員は登録制で合法、非合法を問わずその道のプロフェッショナル――裏の顔での呼び名では実行係――を多く抱えている。
  実はそのうちのひとりが、この一週間行方不明になっているのだった。優秀な実行係だがもともと単独行動が多く、しばらく連絡も取れずに行方をくらますことのある男だった。
  もしかしたら、まだ行方不明と決めつけるには時期尚早かもしれない。俺は『スーパバイザー』失格かな、と間宮は自問した。
  煙草を一本灰にしたところで、事務所に大学生の美里が入ってきた。午後の授業の帰りなのだろう。大学からの通り道ではないから、わざわざ立ち寄ったと言う方が正しいが。
「なんか仕事ない?」
  と、自分のデスクでふんぞり返っている間宮の傍らに来て、美里が訊ねた。飼い主を慕うミニチュアダックスのような眼で間宮を見つめる。
「ないな」
  ことさら事務的な声で間宮は即答した。
「そっか……」
  美里は呟くように言って、その繊細に整った容貌を曇らせると、間宮に少々恨みがましい表情を向けた。ここのところまともに相手をしてやっていないから、拗ねているに違いない。
  美里を公私ともに自分のパートナーとすることについて、『コントローラ』の藤森は了承済みだった。美里が思っているよりずっと、間宮にとって美里はかけがえのない存在なのだが、それを知らせるにはまだ段階が必要だった。間宮はまだ、美里に『組織』のことを何も打ち明けてはいないのだ。
「――おまえ向きの仕事はないということだ。美里がうちの会社にとって必要な人材だというのは嘘じゃないぞ」
  あまりにも美里が落胆した様子だったので、さすがに気が引けた間宮はそう言い足した。
「会社にとってだけ……?」
  不満そうに美里が言った。
「俺にとってもだ」
  ちょっと視線をずらして間宮は言った。いい大人が照れているのを気取られたくなかったからだ。
  ぱっと美里の表情が明るくなったのを横目で見ながら、間宮は言おうかどうしようかと少し迷って、口を開いた。
「実はな、満澄(ますみ)とこの一週間連絡が取れない」
  それがかまってやれない理由だと、言外ににじませて間宮は言った。




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