不確かな絆

 初秋の夜の静寂を破ってインターフォンが鳴った。リビングのソファで、満澄は読んでいた単行本から目を上げ時計を見た。午前一時を過ぎたところだった。こんな時間にやって来るのは、奴ぐらいしかいないだろうと思って受話器を取ってみると、果して相手は冴島だった。
「何時だと思ってる。どうしたんだ?」
(……あんたの、顔が…見たくなって…)
  かなり酔っているのだろうか。冴島の声は吐息まじりにくぐもって聞こえた。
「――さっさと上がって来い」
  息を吐いてそれだけ言うと、満澄はマンションエントランスのロックを解除してやった。
  しばらくして玄関のチャイムが鳴った。やれやれと思いながら、満澄はドアを開けてやる。
  黒っぽいシャツに薄手のジャケットを羽織った冴島が、無言のままうつむき加減で玄関先に突っ立っていた。
「どうした。入れよ」
  反応のない冴島を訝(いぶか)しんで、満澄は玄関ホールから一歩足を踏み出しハッとした。ふわりと冴島から立ち上った生臭い匂いは、満澄が予想していたアルコール臭とは異なっていた。
「冴島……?」
  ぐらりと冴島の長身が揺らいで、満澄はとっさにその身体を抱きとめた。
「おいっ、どうした?」
  冴島が眼を閉じたまま「満澄…」と小さく呟いた。
「おいっ、冴島っ!?」
  ずるりと膝から崩れる冴島を支えようとしたら、満澄の両手はぐっしょりと濡れた。
  ぎょっとして眼をやると、満澄の両手は血だらけだった。
「冴島っ! おいっ、しっかりしろ!  ……敬っ!」
  冴島は満澄の腕の中で既に意識をなくしていた。

 

 携帯電話の着信音に、びくんとして美里が眼を醒ますと、暗がりの中、隣に寝ていた間宮が、ベッドサイドから素早く携帯を手に取る気配がした。
「……わかった。先生にはおれから連絡しておく」
  美里が枕元のスタンドをつけると、緊張した面持ちの間宮の端正な横顔が浮かび上がった。
「――ああ、今からそちらへ向かう」
  携帯を切りながら間宮はベッドから抜け出した。
「だれから?」
「満澄だ」
  短く答えて、間宮はクローゼットからシャツとスラックスを取り出し身に着け始めた。
「満澄さんがどうかしたのっ?」
  ただならぬ様子に美里が驚いて訊ねた。
「いや、満澄じゃない」
  間宮が美里の方に向き直って、冷静な口振りで言った。
「冴島が刺されたらしい」
「えっ、満澄さんの『天敵』の?」
  間宮と同業者である瀬川のグループに所属している冴島が、満澄と一緒にいるところを美里も見たことがある。もともとは満澄の仕事にちょっかいを出してきた男らしいが、ある事件で満澄の命を救ってから今でもどうやら付き合いがあるらしい。
  ――本当は『恋人』なのかもしれないけれど。
  しかしそれは美里には確信の持てないことだった。満澄の心中を想像して美里は胸が波立った。
「おれはこれから村岡先生のところへ行く。だいじょうぶだからおまえは寝てろ」
「う、…うん」
  村岡先生というのは、美里も世話になったことのある個人病院の院長だった。もちろんモグリなどではなくちゃんとした病院なのだが、間宮の知り合いだというだけあって、表立って病院に行けない患者が運びこまれたりすることもある多々あるようだ。何よりも病院のガードと、看護師を始めとしたスタッフの口が固いことは保証付きだった。
『刺された』などとこともなげに口にされて、だいじょうぶだと間宮に言われても、美里は不安が払拭しきれなかった。こんなときは、やはり間宮が裏社会の人間なのだと美里に実感させられる瞬間だった。
「気をつけて……」
  慌ただしく出掛けて行った間宮の後ろ姿を見て、美里はひとり呟いた。

 

 間宮に連絡を入れてすぐに、満澄はマンションの地下駐車場から自分の車を出した。後部座席には毛布にくるまれた冴島が横たわっている。身長が百八十六センチの冴島には窮屈だろうがやむを得ない。意識のない自分より少し体格のいい冴島を、満澄はやっとの思いで車に運び込んだのだ。
  冴島は胸と背中の二ケ所を刺されていた。
  多量の出血のせいか冴島の身体は冷たかった。整った精悍な容貌は苦痛にゆがんでいて、脈は弱く呼吸も浅い。素人の眼から見てもかなり危険な状態だった。
  ――こんな身体で、なぜおれのところに来たのだろうか。
  どこか病院へ行くのが先だろう、と満澄は訳もわからず腹立たしく思った。そうでなくても、冴島が所属している瀬川のグループの誰かに助けを求めることぐらいできたはずだ。それともグループ内の誰かにやられたのだろうか。
  その可能性は否定できなかった。冴島が中野のような男とうまくいっていなかった様子を思い出し、満澄はハンドルを握る手に思わず力がこもって舌打ちした。なぜなら満澄自身がその原因のひとつに違いなかったからだ。
  かつて満澄の命を、冴島が同じグループの中野の意志に反して助けたことが禍根を残していたとしても不思議ではない。それによって、瀬川のグループ内での冴島の立場がどうなっているのか、満澄には想像できないことだったが。
「くたばったら承知しないぞ」
  冴島に聞こえないことはわかっていたが、満澄はそう低く言ってアクセルを踏み込んだ。

 

 病院には間宮が先に到着していた。夜更けにも関わらず院長の村岡本人が白衣姿で緊急搬入口にいて、満澄らを迎えた。村岡は冴島をひとめ見るなり、緊急手術と輸血の準備を看護師たちに命じた。
  ストレッチャーで処置室に運ばれていく冴島を呆然と見送る満澄に、間宮が近寄って来た。
「満澄。……だいじょうぶか」
  訊ねられて満澄は眼を見開いた。いま問題なのは冴島の容態なのに、なぜ社長はそんなことを言うのだろう。
「満澄」と、もう一度言って、間宮は廊下に置かれたベンチを目顔で指した。
  促されて間宮の隣に腰を下ろし、初めて満澄は自分の手が小刻みに震えていることに気づいた。
「くそっ!」
  と、奥歯を噛みしめて満澄は毒づいた。
「――すまない社長。迷惑を掛ける……」
  満澄が言うと、間宮の切れ長の瞳がメタルフレーム越しにこちらを見つめた。
「冴島は、誰にやられたのか言ったか?」
  満澄は首を振った。
「何も…。おれを訪ねてきて、うちの玄関先で意識をなくした」
  ――ひとこと『満澄…』と呟いただけだ。
「そうか」
  なぜ冴島が満澄の部屋を訪れたのか、と間宮は訊ねなかった。満澄は冴島の関係をおおっぴらにしたことはなかったが、間宮はそんなことぐらい先刻承知だったのだろう。それどころか、この状況を何かの取り引き材料として使えないか、もう冷静な頭の隅で計算を始めているかもしれなかった。
  しかし、いまの満澄にとってそんなことはどうでもよかった。自分が『組織』の一員として甘いという自覚は確かにある。それでもスーパバイザーの間宮や、その上にいるコントローラの藤森と比べたら、単なる実行係のひとりにすぎない自分のことだ。対立することもあるグループの所属だからといって、どうして冴島を見捨てることができるだろう。
  ――失いたくない……。
  満澄は冴島という男を、いま失う訳にはいかなかった。かつて自分を放火された地下倉庫から救い出し、それからことあるごとにちょっかいを出して自分を翻弄するこの男を。
  認めた訳ではない。同性の自分を抱く四歳も年下の男の存在は、いまでも満澄にとって不可解だ。しかし、それ以前にもっと不可解なのは自分自身だった。冴島に強引に組み敷かれ、抗い切れずにその愛撫を受け入れてしまう自分自身が。
  ――きっと後悔するだろう。
  それだけは確信していた。ここで冴島を失ったら、きっと後悔する。
  ――おれは奴に、まだ何も伝えていない。
「O型の血液型の方いらっしゃいませんか?」
  慌ただしく処置室から走り出てきた看護師が訊ねた。出血が酷くて、ストックの血液が手術中に足りなくなりそうだと言う。
  満澄はベンチから勢いよく立ち上がった。
「おれはO型だ」
  満澄は間宮と視線を交わして、それから処置室へと入って行った

 

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