不確かな絆
2
そのとき何を考えていたのか、冴島の記憶は定かではない。場所は新宿にある瀬川の事務所を出て少し歩いたところだったと思う。たぶん、満澄のことでも考えていたのだ。ぼんやりしていたことには間違いない。
だから人波が途絶えた路地裏の暗がりで、身体ごとぶつかられるまで、自分の背後で距離を縮めていた若い男の存在に気づかなかったのだ。
その瞬間、刺されたということはすぐにわかった。背後から浅く刺されて振り向いて見ると、そこにいたのは必死の形相でナイフを握りしめた、自分より頭ひとつ分小柄な若い男だった。もしかしたらまだ十代かもしれない。
素人だと直感して、「なぜ?」と考え、冴島は次の反応が遅れた。恐らくこんな素人が相手でなければ、もっと別の対応の仕方をしていたに違いない。
「っ……!」
少なくとも向き直ったところをもう一度刺されるなどという失態はなかったはずだ。
果物ナイフのようなちゃちな刃物が、面白いくらいきれいに自分の右胸に突き刺さったのを冴島は見た。
その若い男が、突き立ったナイフをちゃんと抜いて走って逃げたのは、素人にしては素晴らしい手際だった。どこの誰だか知らないが、拍手喝采を送ってやりたいところだ。
しかし拍手を送るかわりに、冴島は微かに呻いてその場に片膝をついた。
誰にも気に留められないのが幸いだ。こんな時間にこんな場所で、飲み過ぎの酔っ払いが路上にうずくまっている程度にしか見えないのだろう。浅く呼吸しながら、なぜだか笑いが込み上げて来るのを止めることができなかった。
――なんてこった。あんな素人のガキにやられるなんて……。
喉の奥で笑いながらこれでジ・エンドかと思ったら、酷く自分には似つかわしい気がして、冴島は自分の口元が自嘲に歪むのを感じた。
――満澄……。
無性に会いたいと思った。最期にひと目だけでも、会って顔が見たかった。瀬川ではなく、最期に会いたいと思ったのが満澄だという事実に、冴島は自分でも内心驚いた。
「……満澄…」
口の中でその名前を呟くと、萎えそうになる身体に力を込めて、冴島はようやく立ち上がった。
表通りまで歩いていって冴島が停めたのは個人タクシーだった。
「お客さん、具合悪そうですね」
乗り込んで満澄のマンションの住所を告げると、年輩の運転手が冴島の様子をうかがうような眼つきで言った。まずい客に捕まったといった雰囲気だ。
「……飲み過ぎた。吐かないから、…安心してくれ」
冴島が答えると、不審そうな顔をしながらも、運転手はそれ以上追求しない方が無難だと思ったのか、黙ってそのまま車を出した。
シートを汚さないようにしたつもりだったが、少々血の染みがついたかもしれない。
「クリーニング代込みだ」
満澄のマンション前でタクシーを降りるとき、冴島は財布にあった数枚の一万円札を全部抜き出し運転手に押しつけた。
運転手は固い表情のまま、冴島の顔を見ないようにして震える手でそれを受け取った。一秒でも早くその場を離れたいといった雰囲気だった。そして冴島を降ろすと、その場を逃げるようにタクシーは走り去った。
エントランスのインターフォンまでの数メートルが、今の冴島には気が遠くなりそうな道のりだった。実際あと何メートル歩けるのか、自分でも見当がつかない。
やっとの思いでインターフォンまでたどり着いて、満澄の部屋番号を押した。
「何時だと思ってる。どうしたんだ?」
満澄の不機嫌そうな声が聞こえて、冴島は我知らず微笑んだ。
「……あんたの、顔が…見たくなって…」
「――さっさと上がって来い」
少し苛立ったような、耳に馴染んだ満澄の声がした。そんな声を聞いただけで、冴島は大層な満足感を覚えた。
――……満澄。
寒い。身体が思うように動かない。エレベーターになんとか乗り込み、四階にある満澄の部屋のドアまで移動した。玄関のチャイムを押すのに、こんなに力がいるとは知らなかった。
「――――」
ドアを開けた満澄が何か言っている。何を言っているのかわからない。
「満澄…」
『敬っ!』と呼ぶ声が遠くに聞こえた気がして、後は何もわからなくなった。
明け方近く、緊急手術によって冴島はなんとか命を取りとめ集中治療室へと送られた。
刺された身体でむやみに移動したせいで、冴島は余計に血を流していた。そして流れ出た血は、満澄のものであがなわれたのだった。今、冴島の身体を流れている血液には、満澄の身体を流れていたものも混じっているはずだった。
集中治療室の前の廊下を、落ち着きなく行ったり来たりしている満澄を見て間宮が言った。
「帰るぞ、満澄」
「しかし――」
「おまえがそこにいたからといって奴の容態が変わるわけじゃない」
ことさら冷たく言われた気がして満澄は眉を寄せた。間宮の言うことはもっともだとわかってはいたが、心情的に受け入れ難かったのだ。
――これが美里だったら、おれ以上に大騒ぎするだろうに……。
そう思ってから満澄は、はっとした。
――おれは、あいつと美里を同列にしているのか?
無意識のうちに引き比べていた自分に驚いて、満澄は息を飲んだ。冴島はいつも間にか自分にとってそこまでの人間になっていたのだろうか。
――いつも自分をいいように振り回すあの男が……?
呆然として黙り込んだ満澄に、間宮が今度は言い聞かせるように言った。
「鏡を見てみろ。そんな顔色をされていたら、おまえの方がよっぽど心配だ。うちはおまえが使い物にならなくても困らないほど、人手は足りてないんだが?」
半ば強引に帰宅させられた満澄だったが、明るくなった頃に到着したマンションの部屋に入るなり、寝室に直行してベッドに倒れ込んだ。眼を閉じたがとても眠れそうになかった。頭の中を血まみれの冴島の映像がぐるぐると回り、集中治療室に運ばれるときにちらりと見えた、冴島の蒼白な顔と重なった。
「…冴島……」
我知らず呟いて、ベッドの上でごろりと仰向けになり、満澄はじっと天井を睨んだ。
何かの物音に驚いて跳ね起き、それが携帯の着信音だと認識するより先に応答していた。
(おれだ)
と、聞こえてきたのは間宮の低い声だった。
(今日はもう事務所に来なくていい)
ひやりとした冷気が満澄の心臓を掠めた。
――まさか、冴島……!?
容態が急変でもしたのだろうか。
「冴島はっ?」
(――さっき意識が戻ったそうだ)
はあ、と大きく息を吐いて満澄は脱力した。まったく、紛らわしい言い方をしないでもらいたいものだ。
(病院へ行って様子を見てこい。念のため警備は厳重にするよう院長には言っておいたが、人の出入りには気をつけろよ)
「わかった。後で連絡を入れる」
そう言うとそのまま電話を切られそうになって、「社長」と満澄は慌てて通話口に呼び掛けた。
(なんだ?)
「……ありがとう」
ふっと笑ったような間合いがあって、電話は無言で切れた。
腕時計を見ると二時間程うとうとした計算だった。こんなところで事故を起こす訳にもいかないので、満澄は眠気覚ましに冷たい水で顔を洗って、車のキーを掴むと部屋を飛び出した。