不確かな絆
3
一般病棟の個室に移されていた冴島は、見るとまだ酸素マスクをつけたままだった。他にも点滴やら何やらのチューブで繋がれていて、痛々しいということばが満澄の頭に第一に浮かんだ。
そっとドアを開けて部屋に滑り込んだつもりだったが、満澄の気配に冴島はすぐに眼を開けた。
「しゃべるなよ」
と、眼が合うなり満澄は冴島を牽制した。
もっとも、しゃべりたくてもマスクをつけた状態ではできないのだろう。冴島は無言のまま、視線だけを動かして満澄の顔を見返した。
その瞳にいつもの冴えた輝きが戻っているのを見て、不覚にも満澄は涙腺が緩みそうになった。ごまかすように傍らの椅子を引き寄せてベッドの脇に腰を下ろした。
「全治一ヶ月の重傷だ。しばらくは大人しくしていることだな」
「………」
「この病院はうちの掛かりつけだ。誰にやられたのか知らんが、ここにいれば取りあえず安全なはずだ。絶対という保証はできないが」
「………」
「逆に言えばここにいる限り、おまえのことを煮ようと焼こうとこっちの自由ってことだ」
いつも一方的に冴島にやられているので、満澄はここぞとばかり言ってやったが、ベッドに括りつけられているケガ人相手におとな気なかったかと、言ってから少し後悔して反論のない冴島の顔を見ると、冴島は精悍な感じのする容貌の眉を苦し気にしかめていた。
傷が痛むのかと、はっとして冴島の様子を見つめ、それからそうでないことに気づいて満澄は少々腹を立てた。
冴島は笑っているのだった。おかしくて仕方がないといった様子で。少し身体に力を入れるだけできっと傷に響くのだろう、笑いながら苦痛に端正な顔を歪め、それでもなお笑いを止められないらしい。
――……上等だ。
全くなんて男だ。そもそも奴は簡単にくたばるようなタマじゃなかったんだ。
安堵と腹立たしさと、他にも自分ではうまく表現できない感情が渦巻いて、満澄は黙り込んで冴島を睨んだ。
ひとしきり笑い転げて――もし動けたのならの例えだったが――、ようやく笑いを納めると冴島は満澄の顔をひたと見た。酸素マスクの中で声を出さずに、冴島の唇が何かことばをつむいだ。
『好きにしろ』
と、言ったようだった。
「ああ、そうするさ。あんなことも、こんなこともしてやるからな!」
いつか冴島に言われたみたいなことを言って、満澄は椅子から立ち上がった。重傷の冴島を疲れさせたくなかったからなのは本当だが、これ以上顔を見ていると自分が酷く情緒不安定になりそうな気がして怖かったからだ。
病院の建物を出て駐車場に向かいながら、満澄は携帯を取り出して間宮の短縮ボタンを押した。
「社長? 今から事務所に帰る」
事務所として使われているマンションの一室のドアを開けると、間宮は本人のデスクにいて黙って満澄の顔を見た。満澄の定位置であるパソコンデスクの前には、美里が座っていた。
「あ、満澄さん」
ほっとしたように美里が言った。
「おれ、アクセスの使い方、よくわからなくって」
けさ満澄がいない間、間宮に言いつけられて、美里が代わりに満澄の仕事をしていたらしい。美里はさっさとパソコン前の席を満澄に明け渡すと、自分は来客用のソファに移動した。
「満澄さんの天敵、だいじょうぶだった?」
心配そうに訊ねられたが、『天敵』ということばに満澄は思わず眉を寄せた。
「天敵……か」
呟くと、美里が慌てたように言った。
「ごめん、えっと…、冴島さん?」
「いいさ、なんでも」
答えながら、美里はおれと冴島の関係をどう思っているのだろうかと、満澄は考えた。
――顔見知りの同業者? ライバル? それとも……。
美里の気遣わしげな視線から、満澄が思っている以上に、美里には核心に迫られている気がした。
実際、自分でもわからないのだ。奴と自分の間柄をどう表現すればいいのか。命の恩人か? そんなきれいごとだけの関係ではないのは知っている。
最初のときの駆け引きの末の肉体関係は、取り引きと表現することはできるだろう。しかしその後の奴との関係は? 一度や二度ではないのだ、あの男と肌を重ねたのは。冴島の愛撫に流されて、自分と同じ男の物を身体の奥の方まで突き立てられ、消し飛んだ理性の前で快感に身悶えたのは。
「――簡単にくたばるような奴じゃないさ」
満澄がそれだけ言うと、美里は何か言いたそうにじっと満澄の顔を見返したが、思い直したようにソファから立ち上がった。
「じゃあおれ、大学行くから」
間宮が「ああ」と応じて、出ていった美里の背後でドアがパタンと閉まった。
美里が行ってしまったのを確認して、間宮が口を開いた。
「コントローラのところに瀬川から連絡があった。あちらの病院に冴島を移送したいそうだ」
弾かれたように顔を上げて、満澄は間宮の方を見た。
――もう来たのか……。
あちらの病院とは、瀬川の息がかかった病院ということだろう。
「手数料をたっぷり上乗せした請求書と一緒に送り返してやってもいいが?」
淡々とそう言って間宮は満澄の顔を見た。
「どうするかはあんたとコントローラの決めることだろ」
満澄は憮然として応じた。たかが実行係の自分の言うことが組織のコントローラの意向を左右するとは到底思えない。それを承知の上での間宮のことばに満澄は微かに苛立ちすらおぼえた。
「その通りだ」
と、間宮があっさり応じた。
「だが、参考意見として聞いてやってもいい」
満澄は間宮の顔を見返した。
「社長、あんた一体おれに何を言わせたいんだ」
「なんだと思う?」
片眉を引き上げて、間宮が意地悪く笑った。
――面白がってるな。
被害妄想かもしれないが、間宮はそもそも冴島のことを焚き付けておいては、こちらの戸惑いを楽しんでいるようなところがある気がする。
しかしそれでも、間宮の頭の中には確実に『組織』のスーパバイザーとしての計算があるはずだ。冴島の利用価値を、瀬川との取り引き材料としての値段を、間宮は思案中なのかもしれない。
答えられない満澄を見やって間宮は言った。
「いずれにしても、あの傷だ。いますぐ奴を移動させろとは瀬川も言わないだろう。……しばらくは面倒を見てやるしかないだろうな」
言外に『おまえに任せた』との意味合いを匂わせ、間宮は人の悪い笑みを浮べた。
「せいぜい奴に恩を売っておくことだ」
それから一週間、満澄は毎日冴島の病室へと通っていた。完全介護だったから、満澄が顔を出したからといって何かしてやることがあった訳でもなく、たかだか様子を見てくるだけだったが、満澄にしてみれば冴島が日ごとに目覚ましく回復していく様子を見るだけで、精神衛生上非常に好ましいことだったのだ。
冴島はと言うと、医者や看護師を手こずらせることもなく、大人しく指示に従っているようだった。ああいうのを猫を被ると言うのだろう。
病室に入ると冴島は起きていて、満澄の姿を認めると少し身体を動かして満澄の方へ向けた。顔色もずいぶん良くなっていて、男らしい眉に下の冴えた双瞳でこちらを見返した。
一週間でここまでになるとは大した体力だ。あの夜、玄関ドアの所で死にかけていた男には到底見えない。
「何か欲しいものはあるか?」
ベッド脇の椅子に腰掛けて満澄は声を掛けた。
「煙草が欲しい」
「却下だ」
満澄が即答するとベッドの冴島は恨みがましい眼で見返した。
「肺に穴が開いてたんだぞ?」
よくよく言い含めるように満澄が言うと、
「もう塞がった」
と、冴島が応じた。
「とにかくだめだ。悔しかったら早く自力で歩けるようになるんだな。煙草ならこの先のコンビニで売ってるぞ。まあそのチューブで繋がれた状態じゃあ、無理だろうが」
「………」
「小便にだってまだ行けないんだろう? それともあれか、カテーテルが気に入ったか? なんなら挿しっ放しにしておいてもらえるよう頼んでやろうか」
満澄が揶揄(から)かうように言うと、冴島は本当に嫌そうな顔をした。
「そんな趣味はない」
と、冴島は憮然として答えた。
「――それにおれは、挿されるより、挿す方が好きだな。あんたに……」
いきなりそっちに振られて満澄はたじろいだ。
「ばッ……!」
意味ありげな流し目を送られて、思わず眼を泳がせてしまう。
「それより、誰にやられたのか心当たりはあるのか?」
気を取り直して満澄は訊ねた。
「心当たり、……か」
考えるような素振りを見せて冴島が言った。
「……あり過ぎてわからないな」
それを聞いて満澄は眉を寄せた。瀬川の身内のことのなのか、それとももっと別のルートなのか。少なくとも、そのどちらなのか見当ぐらいつかないのだろうか