不確かな絆

  下宿をしていた学生時代から独り暮らしが長かったせいか、自分が生活している同じ場所に誰か他の人間がいるというの奇妙な感じだ。目前のパソコンの仕事に熱中しているときは大丈夫なのだが、満澄は一度冴島の存在が気になりだすとどうも気が散って仕方がない。
  ついには用もないのに、まだ午前中のうちから何度も部屋を覗いてしまって「なんなんだ」と、逆に冴島から訊ねられる始末だ。
「いや、――だいじょうぶかなと思って」
「どこへも逃げないから安心しろよ」
  平然と応じられて、満澄はちょっとことばに詰まった。むろん、逃げようにもさすがに今は身体の自由が利かなくて無理だろう。
  ――こいつはいつもこんな風に強気を装ってるが、実際不安に感じることはないのだろうか?
  本人から詳しく訊いた訳ではないが、間宮の情報からだとどうやら冴島には親兄弟はいないらしい。だから身内らしい身内といえば、いま冴島が所属しているグループのトップにいる瀬川ということなるのだろうか。そう言えば冴島が村岡の病院に運び込まれて、すぐに瀬川から冴島を引き取りたい旨が伝えられたことを満澄は思い出した。
  こちらは回答を先延ばしにして三週間なのだが、瀬川はともかく冴島自身はどういうつもりでいるのだろう。
  満澄はベッド脇に置かれている椅子に腰を掛けた。
「瀬川のところへ帰りたいか?」
  訊ねられて冴島は満澄の顔を見返した。どうしてそんなことを訊くのだろうという表情だった。
「おれは人質じゃないのか?」
  そのセリフに満澄は眼を見開いた。
「おまえが自分から転がり込んできたのに、なんで人質なんだ」
  それに瀬川のグループと揉めることはあっても、いつも敵対している訳ではない。
「あんたのところのボスなら、取り引き材料にすることぐらい考えるかと思ったが――」
「………」
  ――確かに。社長だったら、そんなことは計算済みに決まっている。
  しかし……。
「――それほどの価値もないってことか」
  自嘲気味に笑う冴島を見遣って、満澄は眉を寄せた。
「そんなことないぞ!」
  思わず、満澄は口にしていた。
「おまえに価値がないなんて、誰がそんなこと言ったんだ」
  いきなり気色ばんだ満澄を、驚いたとも呆れたとも取れる表情で冴島は見返して言った。
「――あんたがムキになることないだろう」
「…っ」
  満澄は無言で冴島を睨んだ。どうしてこの男は、いつもこんなに掴み所のない奴なのだろうと、満澄は内心で苛ついていた。
  どこまで本気なのかわからない。冴島のふざけているとも投げやりとも思える言動に、しょっちゅう満澄は振り回されるのだ。この四歳も年下の男に。
  こちらの身体を強引に開かせ、気持までさらっていこうとしながら、冴島は決して自らの心の内を満澄にさらすことはない。
「――瀬川は」
  と、満澄は気を取り直して口を開いた。
「おまえを返して欲しいと言ってきてるぞ」
  満澄が言うと、冴島の表情が少し動いたようだった。
「おれに決定権はないが、おまえがそうしたいのなら、うちの社長にそう進言してやってもいい」
  今度は、はっきりと冴島の表情が動いた。男っぽく整った容貌に奇妙な表情が浮かんでいる。満澄が今まで見たことのない冴島の顔だ。
「……あんたは甘いな」
  呟くように言うなり、冴島はつと視線を逸らしてそっぽを向いてしまった。
  ――何なんだよっ?
  満澄が訳もわからず、内心で不満の突っ込みを入れていると、玄関のインターフォンが鳴った。
  満澄は息を吐いて立ち上がった。

 

 冴島は、部屋から出て行く満澄の背中を横目で見ていた。ドアは静かに閉じられて、満澄は行ってしまった。防音のよく効いたこのマンションは、窓やドアが閉められているととても静かだ。
  ベッドの中で冴島は、天井パネルの淡いパターンを眺めて気持を落ち着けようとした。『あんたは甘い』などと、本当は言うつもりはなかった。満澄が甘いのは事実だが、もっと別に言いたいことがあったように思う。あんな真摯な表情で自分を慮(おもんぱか)るセリフを吐かれて、どう応じればいいのかわからなかったのだ。
  ――裏社会には似つかわしくない……。
  思えば満澄は、最初からそういう男だった。
  だからこそ自分は満澄に惹かれてたのではないのか。まっすぐで陰りのないあの男を蹂躙して、気持ごと滅茶苦茶にしてやりたいと感じたのではないのか。
  ずきずきと胸の傷がうずいた。しかし、実際の傷口は、自分でも驚くほど治りかけていた。傷ついた細胞が絶えず分裂を繰り返して、正常な組織へと成長しているのだ。生きているのだと感じる。
  ――おれはまだ、生きている。
  ちゃんと呼吸しているし、脈拍も正常だ。もう二、三日もすれば自力で歩けるようになるかもしれない。若い身体は持ち主の気持などお構いなく、貪欲に生への執着を持ち続ける。
  我知らず自嘲に唇が歪んだ。あの夜、満澄のマンションに来たのが間違いだった。
  ――あのまま薄汚い路上でくたばればよかったんだ。
  そうすれば、こんな気持を持て余すことはなかったと、冴島はじっと眼を閉じた。

 

「コーヒーでも飲むか?」
  インターフォン鳴らしたのは、満澄の予想した通り美里だった。満澄の臨時オフィス兼リビングのソファに腰を落ち着けた美里に満澄は訊ねた。
「うん、ありがとう。カフェオレがいいな」
  遠慮なくオーダーして、美里は言った。
「間宮さんに、様子を見て来い、と言われて」
「ヤツなら大丈夫だぞ。部屋、覗いてこいよ」
「えっ、いいよ」
  思いっきり尻込みする美里に満澄は言った。
「? 様子を見に来たんだろう?」
「うん。でも満澄さんの『天敵』じゃなくて、満澄さんの」
「――なんでおれの様子なんだ」
  満澄は眉を寄せた。
「だって、間宮さんがそう言ったんだもの」
  優し気な面立ちの美里は、長い睫を瞬かせて言った。
  ――……まったく。
  満澄は胸の内でため息をついた。社長の間宮は、満澄の反応次第で事の対応を考えようというのだろうか。美里もこんな虫も殺さないような顔で、間宮の意図もわからないままこちらの様子を見に来ているはずがない。
「なあ、社長は実のところはなんて言ってるんだ?」
  湯気を立てるマグカップを美里の前に置いて満澄は訊ねた。
「実のところ、って?」
  マグカップを両手で持って美里は小首を傾げた。
  訊ねられた意味がわからないといった表情を自然にする美里は、最近手強くなったなと、唐突に満澄は感心してしまう。さすがに間宮がパートナーに選んだだけのことはある。
「ああ、もう降参だ! 間宮先輩が何を企んでいるのか教えてくれ」
  そうそうに抵抗を諦めて満澄は言った。
  すると美里はちょっと逡巡してから口を開いた。
「あのね、『天敵』のこと、引き取ってもいいって」
「冴島を? 社長の配下にか?」
  驚いて訊ねると美里が頷いた。
「でも、間宮さんは『捨て石』にするつもりだよ、あいつのこと」
「………」
  捨て石ということばに息を飲んでいると美里が続けた。
「間宮さんやコントローラの藤森さんが命令すれば、満澄さんはそうするって」
  本当なの? と、ことばを切った美里が眼で訊ねた。
「捨て石か……」
  ――なぜ、どいつもこいつも冴島のことを『捨て石』にしたがるのだろう。
  悪いことに冴島本人ですら、自分自身に価値を見い出していない素振りすらある。
  ――できる訳ないだろう? おれは、こんなに奴のことが気になっているのに……。
  そんな思いにハッとして、満澄は苦虫を噛み潰したような気になった。じっと見つめる美里に満澄は言った。
「――正直、わからないんだ。おれにもな」
  満澄の嘘に、美里は気づいただろうか。美里は澄んだ双眸で、黙って満澄を見返しただけだった。

 

 スタンドの柔らかな灯りに、冴島の裸の上半身が浮かび上がる。ベッドのリクライングで半身を起こした冴島は、一ヶ月近くもベッドに横になったままだというのに筋肉はそれほど落ちてはおらず、背中と胸の二箇所に当てられた大きなガーゼが、不釣り合いに痛々しい感じだ。
  お湯で固く絞ったタオルを注意深く冴島の肌に当てて、満澄は傷に響かないよう気をつけながら黙ったまま冴島の身体を清めていく。冴島にからかわれないようことさら事務的に、しかし丁寧に身体を拭いてやっている満澄に、冴島は大人しくされるがままになっていた。
  静かな寝室で、洗面器のお湯にタオルを絞る音がやけに大きく響く気がして、満澄はついに耐えられなくなって口を開いた。
「痛まないか?」
「ああ」
  と、冴島はすぐに答えた。
  しかしそれきり会話は続かず、また無言のまま満澄は作業に没頭した。
「そこはいい」
  パジャマのズボンに手を掛けた満澄に冴島は言った。
「下も拭いてやる」
  意に介さず満澄は冴島のズボンを下着ごと下げて、温かいタオルを当てた。

 

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