不確かな絆

「……っ」
  自身をタオルでそっと擦られて、冴島はわずかに身じろいだ。意識的にやっているのだろう、満澄は表情を変えずに淡々と冴島の器官の隅々までを拭いていく。
  満澄の手でこんなことをされて感じない訳がなかったが、冴島は敢えて意識を別のところへ飛ばして反応しないように心掛けた。多分、満澄もそう望んでいると思ったからだ。
  このマンションに連れて来られて二週間、冴島が満澄にキスを仕掛けたのは初日の一回だけ。それだけだった。満澄のことはこれまでに何回も押し倒していたから、ここまで自制できるのは傷のお陰と言っても過言ではない。身体が自由に動かせたら、きっといつもみたいに強引に満澄を組み強いていたことだろう。
  しかし実際はというと、動けなかったのは確かだったが、冴島は満澄の思いつめた顔を見るだけでもう何もできないのだった。冴島の処遇に悩み、明らかに『組織』における上との意向の間で板挟みになっている様子は、決して冴島が望んだことではなかった。
  満澄を困らせるつもりはなかったのだ。軽率だったと冴島は今になって思う。最期にひと目だけでも、会って顔が見たかったなどという自分の感傷で、満澄を傷つけることはなかったのだ。
  ――いまさらだがな。
  同じ裏社会の人間でも、満澄と自分では違い過ぎる。汚したくないのだと思う。満澄は裏社会の汚泥の中でも、きっとずっと変わらない。変わらないとわかっているから、自分は満澄には相応しくない。
  どんどん薄汚れて行くだろう自分には。
  満澄が優しい仕種で下着を直して、パジャマを着せ直してくれるのを、冴島はじっと気持を平静に保つ努力をしながら受け入れた。
「満澄……」
  名前を呼ぶと、満澄が太い眉の下の奥二重の瞳で見返した。何の裏もない、真摯な光をたたえた瞳だった。
「――世話を掛けた」
  くすりと満澄は笑った。
「たまには殊勝なことも言うんだな」
「そうだな」
  と応じると、満澄は灯りを消して「お休み」と言った。

 

 満澄が冴島から目を離したのは、ほんの二十分くらいだったと思う。『リップクリームが欲しい』などと、奴が言ったからだった。
「リップクリーム?」
  満澄が聞き直すと、ベッドの中で上半身を起こしていた冴島が言った。
「唇が荒れて痛い」
  満澄はそう言った冴島の唇をちらりと見た。本人が言うほどには荒れてはいないなと、満澄は確認する。
  冴島のベッドが置かれているこの部屋の空調は完璧のはずだった。温度はもちろん、エアコンで乾燥し過ぎないように加湿器も持ち込んでいたのだ。
  満澄にはリップクリームを使う習慣はなかった。美里なら持ち歩いていそうだと思いながら満澄は言った。
「美里に言って、買ってこさせよう」
「いま欲しい。コンビニでも行って買ってきてくれ」
「今すぐ?」
「ああ。それとも、――あんたが舐めてくれるか?」
  唇を、と意味ありげな視線を送られて満澄はたじろいだ。
「……わかった、ちょっと待ってろ。買ってきてやるから」

 

 そのコンビニは、マンションから徒歩五分のオフィス街の近くにあった。時間帯が朝の通勤客の波が引いた直後だったのか、明るい広めの店内は客もまばらで閑散としている。
  満澄は日常雑貨のコーナーに行って、目当てのリップクリームを捜した。何に使うのかも満澄にはよくわからない化粧品のビンやチューブが並んでいる商品棚に、それらしき物を見つけたが、自信がなかったので近くにいた男の店員を「すみません」と捕まえた。
「はい」
「男が使ってもいいリップクリームはどれかな」
「は?」
  一瞬きょとんとして、二十代前半に見える店員は満澄を見返した。しかし満澄が大真面目に訊ねているのに気づいたようで、
「男が使うリップクリームですね」
  と、満澄が当たりをつけていたのとは別のを持ってきて言った。
「僕は、これと同じのを使ってますけど」
  何がどう違うのかわからない満澄を見て、店員は遠慮がちに付け加える。
「たぶんそっちのやつは女性用だと思うので」
  そう言えばさっきのは妙にカラフルはパッケージだと思った。
  ――『ストロベリーの香り』とか書いてあるし。
  冴島にストロベリーでは、嫌がらせにしては質が悪いし、そんな味のキスはまっぴらだと満澄は余計なことまで考えた。そうして、そんなことを考えた自分が恥ずかしくなって、満澄は店員に薦められたリップクリームを買うと急いでコンビニを出た。

「買ってきたぞ」
  と寝室のドアを開けて、満澄はコンビニのビニール袋を下げたまま、呆然としてその場に立ち尽くした。
  ベッドから、冴島の姿が消えていた。

 

「社長、本当にすまない」
  さっき電話で目の前の事実を手短に報告して、最後に付け加えたのと同じフレーズを満澄は口にした。事務所のデスクで、行儀悪くふんぞり返って座っている間宮に頭を下げる。
  今度の件で、満澄が間宮に向かってこのセリフを吐くのは二度目だ。そして今回のは、明らかに満澄の失態だった。
「まんまと逃げられるとはな」
  間宮にメタルフレーム越しの冷たい一瞥を投げられて、満澄は大きな身体を無意識に縮めた。
  まさか冴島がベッドから抜けだせるほど回復していたとは、満澄は思わなかった。
  ――いなくなるなんて、思ってもみなかった……。
「――もういい。さっさとあのマンションに戻って、部屋を引き払って来い」
  うなだれたままの満澄に、間宮は面倒臭そうに手を振って言った。
「でも、冴島は――?」
「とっくの昔に、瀬川のところへ帰ってるだろう」
  と、こともなげに間宮は言った。
「さっき瀬川から藤森さんのところへ電話があった。うちの口座に冴島の入院・治療費一式と、礼金を振り込んだそうだ」
  だからこの件は終わりだと満澄に告げて、間宮は手元の仕事に戻ってしまった。

 

 季節は晩秋へと趣を変えつつあった。十一月にもなると、街路樹の銀杏やケヤキが色づき始め、朝晩はすっかり冷え込むようになってきている。
  あの日以来そろそろ一ヶ月、冴島は満澄の前から忽然と姿を消してしまった。心当たりのある携帯の番号にも電話を掛けてみたが、すでに解約されているようで繋がらなかった。
  ――一体どこへ行っちまったんだ?
  腹立たしいやら悔しいやら、自分でもよくわからない感情が渦巻いて、満澄は夜中の自分の部屋、ソファの上で盛大なため息をついた。思えば冴島に満澄が命を救われたのは、去年の今頃だった。
  ――もう、一年になるのか。
  あれから冴島とは何回身体を重ねたのだろう、と満澄は考えた。それまで満澄の人生の中で、男どうしで寝るなんてことは考えたこともなかった。きっかけは事故のようなものだったが、満澄の常識を根底から覆させた男は、それからずっと満澄の心の一角に居座り続けている。
  少なくとも、冴島が刺される直前まで、ずるずると不確かな関係は続いていた。それは冴島が十日と間を空けずに、満澄の前にふらりと現れていたからに過ぎなかったことに、最近になってようやく満澄は気がついた。
  冴島が自ら行方をくらましてしまった今となっては、満澄には冴島と連絡を取ることすら叶わない事実に愕然とする。
  ――……冴島。……敬――。
  命を助けられた借りは返したと思う。しかも同じ条件で。もうこれで、本当に貸し借りはなしだ。
  ――だから冴島は消えたのだろうか……?
  しかし満澄は、どこか納得できない気持を持て余していた。何かを、冴島に伝え忘れている気がした。

 

→NEXT