不確かな絆


      ***

 閑静な高級住宅地にある瀬川の邸宅は、純和風の日本家屋だ。手入れの行き届いた広い庭では見事な枝振りの松が月明かりに照らし出されている。晩秋の冷えた夜の空気が静かに庭園の底に降りて来ていて、つくばいの水は冴々とした月を映し込んでいた。
  いつものように冴島は長いぬれ縁をたどり、取り次ぎの中年女性に案内されて、瀬川の私室である奥座敷に通された。
「お連れしました」
  瀬川の部屋の引き戸まえで、中年女性は膝をついて声を掛けた。
「入りなさい」
  と、瀬川の声がした。

「傷の具合はどうかね」
  冴島の顔を見るなり、瀬川は端正な容貌に温和そうな表情を浮かべて訊ねた。
「お陰さまで、すっかり良くなりました」
  冴島が座敷に入ったところできちんと正座をしてそう答えると、瀬川は微笑して見返した。
  今夜も瀬川は和服をまとっていた。自宅ではいつも和服を着る習慣があるようだ。きれいになでつけられた髪は真っ白だが、相変わらず顔の色つやは良い。瀬川のはっきりとした年齢を冴島は知らなかったが、五十代半ばぐらいだろう。もし髪を黒く染めれば、見た目なら四十代でも通るかもしれない。
「今回のことでは色々とご面倒をおかけしました」
  深々と頭を下げると、瀬川は頷いて冴島に座ぶとんをすすめた。
  すすめられるがまま、冴島は座卓を挟んで瀬川の正面に座った。
「また、わたしのために働いてくれるかね」
「はい」
  ここしか戻るところはないのだと、答えながら冴島は思った。十代で拾われて以来、瀬川には恩義を感じている。例え自分が、瀬川にとって使い捨てにできる配下のひとりに過ぎなくても。
「きみを刺した子供のことだがね――」
  何げない風に瀬川は言った。
「いつだったかきみが処分した男の身内だったよ」
  はっとして冴島は瀬川の顔を見返した。
  瀬川の右目が無機質に光っていた。動かない瀬川の右目の眼球は、硝子の義眼だった。
「もう始末したから、敬くんは何も心配しなくてもいい」
  冴島は密かに息を飲んで言った。
「――あの子供は、素人でした」
「だが、きみを傷つけた」
  きっぱりと断じて、瀬川は薄く笑った。
  ――こうして取り込むのは、瀬川の手口なのだ。
「………」
  絶句しながらも、冴島は敢えて異を唱えることはしなかった。まるで容赦のない瀬川のやり方は、この世界では正しいとわかっているからだ。
「ひょっとしたら、きみはもう戻って来ないかもしれないと思っていたよ。それも仕方のないことだがね」
  意外なことばに、冴島は自分の表情が強張るのを感じた。
「――おれはもう必要がないってことですか」
  冴島が言うと瀬川は眼を細めてうっすらと笑った。
「必要としていないのは敬の方だよ」
「………」
「わたしはまだきみが欲しいと思っているけれども、きみはもう、わたしを必要としていないだろう? わたしがきみの『父親』になれないということは、きみも気づいてしまっているだろうからね」
  ことばがなかった。瀬川は冴島が何を求めていたのか、ちゃんとわかっていたのだ。
「わたしは今でもきみのことを愛しているよ」
  だから手放すのだと、瀬川は続けた。
「瀬川さん……」
「欲しいものがあれば、手に入れればいい」
  と、瀬川は言った。
「本当に欲しいものは、どんなことをしても奪い取るべきだろう?」
  おとなしく身を引くなんて、敬らしくないねと、瀬川は密やかに笑った。

 

 インターフォンの音に、満澄はソファの上でびくりと硬直した。自分でも呆れるほど震える手で受話器を取り上げる。
(満澄……)
  一ヶ月振りに聞く冴島の声に、言い様のない安堵感で満澄は胸がいっぱいになった。
「――上がって来い」
  ようやく満澄それだけ言うと、冴島のためにエントランスのロックを外した。
「今日は刺されていないな」
  玄関ドアを開けた満澄が言うと、冴島は表情をうかがうように満澄の顔を見た。
「……何しに来たとは言わないのか?」
「言って欲しいのか」
  平静を装って満澄は応じた。
「………」
  らしくなく、冴島はうつむいた。
「いいから入れ」
  満澄は冷えた上着の腕を掴んで、冴島を招き入れドアを閉めた。
「で、まずは釈明を聞こうか」
  ローテーブル越しの冴島を見やって満澄は言った。
「怒っているのか?」
「当然だ」
「悪かった」
  あっさりと謝罪を口にした冴島を満澄は睨んだ。
「それだけか。……おれがどんなにおまえのことを心配したと思ってるんだ」
  そう言ってしまうと、もう満澄は平静な振りはできなくなった。
「傷はだいじょうぶなのか? 今までどこで何をしていた」
  つい詰問調になってしまう。
「………」
  しかし冴島がぼんやりしたような表情で満澄を見返すので、さらに苛々して満澄は声を荒げた。
「おまえはおれのことを、一体何だと思ってるんだっ!?」
「満澄」
  と、静かな口調で冴島が言った。
「おれは、あんたに相応しくはないと、自分でもよくわかっている」
「……ッ」
  冴島の意外な切り出し方と真摯な双眸に、瞬間息を飲んでしまった。
「おれはこれまで、満澄にはとても言えないような汚いことをやってきたし、これからもするかもしれない」
  満澄は黙ったまま冴島のことばを聞いていた。冴島はいままで数多くの犯罪行為に手を染めてきたということだろう。
  予想はしていた。
  満澄が『組織』の裏工作部門として、犯罪すれすれや少しヤバめの仕事をしているのと比較して、冴島が瀬川の下で、もっと危ないことをしているだろうという予感はあった。
「おれが刺されたのだって自業自得だ。やったのは、うちのグループにいた男が世話をしていた少年だった。その男は仕事で失敗して、……おれはうえの命令でその男を、……殺した。――まだ、満澄に出会う前のことだった」
「……!」
  あまりにも予想通りなのに、満澄は冴島の告白に絶句して、苦しそうな表情に歪んでいる冴島の精悍な顔を見返した。
  相応しくないとは、そういうことなのか。だからお互い本気になる前に、冴島は満澄の前から姿をくらましたというのか。
  ――だったらなぜ、今ごろ現れた?
  散々こちらの気持を引っ掻き回しておいて、なぜ今この男は自分の前でしおらしげな表情をして座っているのか。
「――あんたを、汚したくないんだ」
「っ! ……なんだって?」
  満澄は思わず訊き返した。何を言われているのかがわからなかった。
  冴島がもし身体の関係のことを言っているのなら、そんなの今更だ。汚れるも、汚れないも、あったものじゃない。これまで冴島に無理やり蹂躙されたことも確かにあったが、結局は受け入れていたではないか。あれが本当に苦痛だったら、満澄はもっと死に物狂いで抵抗していたはずだ。
  ――どうしてそれがわからない?
  自分が汚れていると冴島が思うのなら、なぜ満澄に一緒に汚れてくれと、冴島は言わないのだろう。
『一緒に、堕ちてくれ』と。
  そうひとこと言ってくれたら、同じ裏社会の繋がりに住む人間として、さらなる汚泥に沈むことだって厭(いと)わないものを……!
「卑怯だぞ、冴島」
  満澄は低い声でようやく言った。
「おれから、……逃げるのか?」
  冴島が眼を見開いた。それは満澄が初めて冴島を追う言動を見せたからだろうか。
  思えば、これまで冴島に追われるばかりで、満澄が自分から追うことはなかった。追われる立場を、知らないうちに受け入れていた。
  ――命の借りがあったから?
  最初はそうだったろうと満澄は思う。しかし、今は違うとはっきりと言える。もう立場は対等だった。貸しも借りもない男どうしだ。
  だからこそわかる。満澄は自分の本心が。
「もうおまえの身体には、おれの血が混ざりあって流れているというのに?」
「………」
  意味がわかったのか、冴島は満澄の顔を見返した。冴島が手術を受けたときに、輸血用の血液が足りなくなって、満澄は同じ血液型の自分の血を冴島に与えたのだ。そう言えばその事実を冴島に告げてはいなかった。
  じっとこちらを見つめる冴島の表情を、満澄は読むことができなかった。しかし満澄は、自分がどんな目つきで冴島のことを見ているのかはわかっていた。
  傲慢だろうと、独善的だろうと、構うものかと満澄は思う。冴島が誰を殺そうと、誰に殺されかけようと、いま目の前で生きている冴島が、自分の前に生身の身体を晒していることが重要なのだ。
「来い……」
  ソファから立ち上がって満澄は言った。
「本当に傷が治ったかどうか、おれが確かめてやる」

 

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