傷に、触れる

 よく磨かれた銀の食器とクリスタルのグラスが、適度に明度を落とした照明のもと静かにきらめいている。
  自分たちのほかに、夜更けのフレンチレストランに客はいない。知り合いの支配人に頼んで、本来の営業時間よりも遅い時間に店を開けてもらっている。ひそやかに食器が触れ合う音が、控えめなピアノの生演奏の合間に聞こえるだけだ。
  満澄は、前菜の次に運ばれてきた帆立の貝柱のソテーにナイフを入れながら、そっと目の前に座っている男を観察した。
  冴島はワイングラスの白ワインを飲み干すと、淀みのない動作で魚用のナイフとフォークを取り上げ、ほとんど洗練されたともいえる仕種で料理を口に運ぶ。
  空いたグラスにうやうやしくギャルソンがワインを注いで、静かにテーブルから離れた。
「……なんだ?」
  口に入れていた料理を飲み下すと、冴島は訊ねた。満澄が見ているのに気づいていたらしい。
  たまにはシチュエーションを変えてみるのも悪くない。……と、いうのは満澄自身の言い訳であって、多少の悪戯心があったのは紛れもない事実だった。
  出合ってからたぶん三度目の冬。十一月の夜。
  通りは気の早いクリスマスのイルミネーションにあふれていた。満澄のリクエスト通りにスーツ姿で待ち合わせ場所に現れた冴島は、「まず食事だ」と誘う満澄に大人しくついてきたのだった。
  ずらりと食器が並ぶフルコースのテーブルに、満澄とともに案内されて冴島は、軽く眉を上げただけだった。
  慣れた様子で席についた冴島を、少なからず驚きの表情で見た満澄だった。
「どれから使うのか、あんたに訊ねた方がよかったか?」
  唇の端に余裕の笑みを浮かべて、冴島はテーブルに視線を投げながら言った。
「――悪かった」
  と、素直に満澄は謝った。
  冴島がテーブルマナーを知っているはずがないなんて、どうして思ったりしたのだろう。
  いまでも例の社長令嬢のボディーガードは続けているようだし、そういった場に出入りすることはこれまでもあったはずだ。それとも――。
「瀬川さん、だったか。おまえンとこのボス」
  満澄が口にした名前に、冴島は黙って視線を合わせた。
「目をかけてもらっているようだな」
「親代わりのようなものだから」
  さらりと冴島は言った。
「一緒に食事に出かけたりするのか」
「ああ」
  道理で……と満澄は思う。
  かつて刺されて重傷を負った冴島を、満澄が間宮たちとかくまっていたときに、瀬川がこちら側のコントローラの藤森に冴島を返すよう、散々要求してきたことを満澄は思い出した。
  後から間宮に聞いたところによると、冷徹な裏社会のボスと呼ばれる男とは思えないほどの、瀬川の取り乱しようだったらしい。
  結局、冴島は自ら瀬川の元へと戻り、満澄と冴島は互いに敵対することもあり得る別々の裏社会組織に属したまま、つかず離れずの関係が続いている。
「気になるのか?」
  冴島が言った。
「え…?」
「瀬川さんのことだ」
  ――気にならないと言ったら嘘になる。
  思えば満澄は冴島のことは生い立ちも含めて何も知らない。冴島が話したがらないから満澄も無理には訊ねなかったが。冴島がどんな家庭で育って、どのようにして瀬川の組織に属することになったのか。
  だが満澄は、冴島から「ひとを殺したことがある」と、告白された後でも、それら全部をひっくるめて冴島という男に関わってきたつもりだし、これからもそうありたいと考えている。
  だからこそ、ほかの誰かが知っている冴島のことを、この自分が知らないというのは満澄にとって酷く気になることだったのだ。
  しかし一方の冴島は、満澄をこれ以上の汚泥に浸からせないようにしようとでも言うのか、彼のもっとも暗い部分には決して触れさせようとしない。
  同じ裏社会に属しながら、まるで汚泥にも粘度の差があるとでも言うように……。
「抱かれたことはある」
「っ!?」
「あんたに…出会う前だ」
  唐突な告白に満澄の思索は寸断された。思わず目を瞠って、満澄は冴島の男っぽく整った顔を見返す。
「おまえが……っ?」
  ――あの瀬川に……!?
  あんぐりと開いた口がふさがらない満澄の表情に、冴島は不審げに眉を寄せた。
「――なんだ、そういう意味じゃないのか」
「……そういう意味…って」
「瀬川さんのことを気にしたから」
「いや、それは……」
  しどろもどろになりながら、満澄は冴島を見て目を瞬かせた。
  冴島が誰かを抱くというのならともかく、誰かほかの男に抱かれるなんてこと、満澄にはとても想像がつかない。何度も冴島に抱かれた自分という立場からの嫉妬とか、こだわりとか以前の問題だ。
  思いがけず狼狽しながら、本当に自分は冴島という男をわかってはいないのだ、と満澄は痛感する。

 

 冴島の爆弾発言のせいで、満澄はその後の料理の味をろくに覚えていない。セッティングは完璧のはずだったのに残念だ。
  良くも悪くも予想を裏切る男は、このシティーホテルの同じ部屋で、いまはシャワーを使っている。
  たとえば出張のサラリーマンとか、スーツ姿の男二人連れが同じツインの部屋に泊まることは、それほど珍しいことではないだろう。自分はともかく、スーツ姿の冴島が普通のサラリーマンに見えるかどうかは別として。
  そんなことを気にすること自体、世間一般の目から見れば奇異な感じもするし、これがひとからどう思われるだろうかなんて、近頃ではあまり考えなくなった満澄だった。
  それほどまで、馴染んでしまったということだろうか。
  客室の暖房が効いて乾燥した空気のお陰で、先にシャワーを浴びた満澄の髪はもう乾いてしまっている。服は、着ていない。どうせすぐに脱ぐのだから。バスタオルをはおっただけで、満澄はホテルに来る途中のコンビニで買い求めたペットボトルの水を飲んでいる。
  浴室のドアを開けて、濡れた身体を拭いながら冴島が出てきた。
「飲むか?」
  持っていたペットボトルを差し出すと、冴島は黙って受け取りひとくち飲んだ。ごくりと動いた喉元に、目が惹きつけられる。
「ビールの方がいい」
  ペットボトルを返して冴島は言った。
「自分で買って来い」
  素っ気なく言い返すと、冴島はにやりとした。
「いいのか? あんた、待ちきれないだろ?」
  冴島はわざとだろう、裸の満澄に舐めるような卑猥な視線を投げかける。
「誰が」
  と、受け流したものの、視線だけで、満澄は身体の芯に仄暗い欲情の炎が微かにともったのを感じた。
「満澄……」
  まだ温かな湿り気を帯びた手に顎を取られる。
「おい、まだ濡れて――」
  最後まで言わせず、冴島は唇を重ねてきた。
  余裕の仕種で満澄の舌を味わい、甘噛みしては満澄の吐息を奪う。
  ふたつあるベッドの片方に満澄を押し倒しながら、「ちょっと狭いな」と冴島が呟くのが聞こえた。

 

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