傷に、触れる

 その視線に気づいたのは、うかつにもごく最近のことだった。
  繁華街の人混みの中で、自分のマンションの周辺で、いつも首の後ろがちりちりとうずくような視線を感じる。
  何気ない振りでその視線の元を確認した冴島は、……やっぱりな、と思った。
  自分を見ていたのは、いかにも安物のよれたスーツに地味なネクタイ姿の中年男だった。しかし、体格は冴島と同格で、身長は百八十センチ台半ばはある。
  男の外見である「パッケージ」は貧相だったが、中身が決して侮れないことは見る者が見ればわかるのだった。
  そうでなくても、男がまとっている雰囲気と暗い眼差しが、彼がごく平凡な勤め人であると想像することを難しくさせていた。
  冴島が自分の尾行に気づいたことを知っても、男は表情を動かさなかった。もしかしたら、冴島にわざと気づかせたのかもしれない。
  冬の午後。歌舞伎町近くの、瀬川の事務所を出たところだった。雑然とした通りで立ち止まって視線を投げた冴島を、男は同じく立ち止まり無表情のまま眺めている。
  冴島との間には数メートルの距離があったが、その男の顔には確かに見覚えがあった。
  比較的整った容貌だといっていいだろう。これでどこか崩れて荒んだ匂いを発散させていなければ、好ましいと思う女も多いのではないかと、なぜか冴島はしょうもないことを考えてみる。
  神崎――。
  以前、冴島も職務質問を受けたことのあるマル暴の刑事だった。
  警察に目をつけられるようなことは、最近やっていないはずだったが。心当たりがあるとすれば、やはり三年前の……アレか。
  三年前の夏、冴島は瀬川の命令で、仕事に失敗した同じ組織の男を消した。しかし、死体も凶器も発見されることはなく、警察に足のつくようなことは何もないはずだった。
  瀬川の望むままに実行犯となった冴島は、同じく瀬川の望むまま、いまも彼の配下で飼い慣らされている。瀬川の庇護下にあるうちならば、あんな刑事のひとりやふたり、気にするほどの存在でもない。
  だが、それは、冴島がさらに濃い汚泥にまみれることと同意義だったが。
  満澄を知る前なら、そんなのは考えもしないことだった。
  神崎はじっと冴島の存在を確認するかのような目つきでこちらを見やると、ふいに踵を返し、その背中は雑踏に紛れて消えた。
「………」
  目をすがめて神埼の背中を見送った冴島は、ポケットから煙草を取り出して火をつけた。
  歩き出しながら満澄のことを考える。
  満澄を巻き込みたくないな、と思う。
  自分にとっての満澄は、日々生きる意味や希望を与え、同時に、いつか来る終わりに怯え、後ろめたさを忘れさせることのない存在だった。
  プラスとマイナスの作用。
  相殺したら、ゼロになるのか?
  ――答えは、明らかに否だ。
  冴島の中で、満澄がゼロになることなんてあり得ない。
  どれだけ抱いても飽きることのない満澄の身体と、どれだけ穢(けが)そうとしても汚れない心と、まっすぐで陰りのない双眸――。
  激しく抱いたのはほんの二日前だったのに、無性に満澄に会いたくなった。
  衝動のまま携帯のキーを押しかけて、冴島は目を閉じ歩道上で立ち止まった。
  不審そうにこちらを避ける人波を感じながら、瞑目した冴島は、ポケットに戻した手の中で、そっと携帯を握り締めた。

 

「どうしたの、間宮さん」
  間近で問いかけられて、ふと我に返った間宮は、傍らにあった細身の、むき出しの肩を抱き寄せた。
  寝乱れた美里の髪を撫でると、じっとこちらを見つめる双眸とかちあう。
「また悩みごと?」
「……おまえは、なんでもわかるんだな」
「いつも、考えごとしてるときは…しつこくするからわかる」
「………」
  喘がされ過ぎて掠れた声に、――口調はそうでもなかったのだが――、言外に非難された気がした間宮は視線をわずかに泳がせた。
「満澄さんのこと…?」
「……なんでそう思うんだ」
「だって、間宮さん、ほかのことでは悩まないでしょ」
  やけに断定的な物言いをされて、ふと眉を寄せる。
「――そんなに悩みがなさそうに見えるか」
「そうじゃないよ。悩みがないんじゃなくて、『悩まない』って言ったの」
「………」
  間宮は薄闇の中で光る、美里の黒曜石のような双眸を見返した。
  美里の言葉は、核心をついていた。
  そう、間宮は悩まない――のだった。『組織』のスーパバイザーとして、求められる役割を完璧にこなすのが間宮の信条だった。その判断を鈍らせるような感情は持たないし、そもそも感じることはない。――無駄だからだ。裏社会に身をおいている以上、生易しい感情論でことを考えればすぐに自分の身が危うくなる。
  きわめて単純なルールだった。
  複雑に見える世界で生き残るための、実はシンプルなルール。
  しかし、そんなルールからもっとも離れた場所にいそうな美里の口から出たセリフは、間宮に少なからず衝撃を与えた。自分でこの世界に引き込んでおきながら、いまさらながら罪悪感を覚える。
「美里……」
「やっぱりそうだ」
  やっぱりというのは、間宮が満澄のこと――それと、近頃セットになってもれなくついてくるあの男のこと――を、考えていたのだということだが、美里自身も、間宮のその数少ない例外であることを、本当にわかっているのかどうか。
  らしくもなく、動揺する間宮だった。
「満澄さんってことは、またアイツがらみだね。いっそ間宮さんが引き取ればいいのに」
  アイツ呼ばわりの男のことが、美里は苦手なはずだった。
「捨て石にするな、と言ったのはおまえだろう」
  以前、美里は涙ぐんで、そんなことしないでと間宮に言った。
「うん……。あのときはそう思ったけど、違うかもしれないと、最近思うようになった」
  間宮は目をすがめて、美里の繊細に整った白い顔を見た。
「……たとえどんな形だろうと、お互い近くに居られた方がいいんだと思う。好きとか愛してるとか、しょせん相手を縛るエゴなんだし、それならやせ我慢なんてしなくて、いっそ近くに置いて縛り付ければいい」
  いつになく饒舌な美里を、間宮は驚いて見つめた。――が、すぐに唇の端に面白そうな笑みを浮かべる。
「縛り付けられたい…のか?」
  ふと、気づいたように美里が頬を赤らめた。
「……おれじゃなくて――」
  つと視線を外そうとする美里の顎を捕らえて、間宮は深く口づけた。歯列を割って舌を滑り込ませると、甘い舌が応えてきた。
「ん……ふ…っ」
  美里がわずかに洩らした吐息に、おさまっていた間宮の身体の熱が、ふたたび呼び起こされる。
「…あっ…や……っ!」
  下肢の間に手を伸ばされて、美里は小さく悲鳴を上げた。
「……まだするの?」
  戸惑った声で訊ねるわりには、美里のそこは頭をもたげ始めている。
「これ以上されたら…明日、起きられない……」
  睫の長い黒目がちの双眸で上目遣いに抗議されても、まったくそれが逆効果なことを本人は知らないのだろう。
  わずかな抵抗はさらりと無視して、間宮は美里の身体をしっかり組み敷いて言った。
「起きてこなくていい」

 

→NEXT