■ 壊されてもいい 1 ■

 

  フランス語で小さな森を意味するというその名のとおり、アスファルトに照りつける夏の強い日差しを和らげ、都心のビルの谷間に涼しげな木陰を提供するように、緑の木々に囲まれた瀟洒なカフェ<ル・プティ・ボワ>はあった。
  青山という場所柄、周辺にこういったカフェは数多くあるのだが、宮元陸海(みやもとたかみ)がこのカフェをバイト先に選んだ理由は、第一には店を取り囲むこの小さな森が気に入ったからだった。店内もお洒落な雰囲気で外人客も多く、陸海は得意な英語で対応することもある。
  第二には陸海が通っている大学に近くて、それでいて学生はあまりこない店であることだった。このカフェの落ち着いた大人向けの雰囲気と、メニューの値段設定が少々高めであることがその理由だと陸海は想像している。
  学生を避けたいと思っているのはなぜかと言うと、同じ大学の女の子たちに見つかりでもしたら、ギャルソン姿を「かわいい〜!」なんて言われて騒がれるのは想像にかたくなかったし、そうなるのは陸海としてはバツが悪いからである。
  実際二十歳にもなっている男がかわいいなどと形容されるのはかなり不本意なのだが、子供の頃はいつも女の子と間違えられ、成人した今も中背ながら華奢な体格で、色白の容貌にくっきりとした二重の双眸に細めの鼻梁と、ふっくらと柔らかな印象の唇が、陸海本人が理想とするような、男っぽい容姿とは正反対の雰囲気を醸し出しているのはまた事実なのだった。
  大学はちょうど夏休みで、陸海は昼間の時間帯にほぼフルタイムでバイトに入っている。都内のアパートで一人暮らしをしている陸海は、できる限り生活費は抑えながらバイトをして、仕送りをしてくれる両親の負担を減らす努力をしているつもりだった。
  陸海の実家は茨城の兼業農家である。陸海にはひとまわり年の離れた役場に勤める兄がいて、陸海が大学に入学する前の冬に高校の同級生と結婚してお嫁さんと実家で同居している。
  年が離れているせいか、このお嫁さんを含め、陸海は家族みんなからいつまでも子ども扱いで猫かわいがりされているが、いい加減大人として見てもらいたいというのが陸海の本音である。だから東京で大学に通いながらひとり暮らしをするのは、陸海にとっては念願である自立の第一歩とも言えるものだった。
  それからもうひとつ。このひとり暮らしでは、家族にすら打ち明けていないある望みをかなえることもできるかもしれないと、陸海はひそかに期待していた。
  それは、恋人――それも同性の――が欲しい、ということだった。
  自分の恋愛対象を求める眼が、同性である男にしか向かないことをはっきりと自覚したのは、陸海が高校生になって間もなくのことだった。これは誰にもカミングアウトしていない事実だったが、以来、いつかは同性の恋人が欲しいと夢見てきた。
  ――が、現実は厳しい。恋愛嗜好が明らかに少数派に属する陸海は必要以上に慎重だったし、奥手で根が真面目な性格だったため、おいそれ誰かと気軽に付き合う機会なんて見つからなかった。たいていは片思いのまま告白すらできずに、行き場のないつらい恋は誰にも知られず消えていく運命だったのである。
  そして今、このバイト先の小さな森にも、陸海の心臓をひそかに騒がせる人物がいた。

 

 彼は最近、常連のひとりとして数えられるようになった客である。
  いつもテラスに近い窓側のテーブル席に座り、ノートパソコンを広げている。テラス席に出ないのは、彼が喫煙者ではないからだろう。年の頃は三十に手が届くかどうかといったところで陸海の兄より少し若いくらいだろうか。
  初めて彼を店で見かけたとき、陸海は自分の知らない誰か芸能人でないかと思ったほどだ。長身の上に彫りの深い精悍に整った容貌は思わず見とれてしまって、俳優と言われたらそうだろうと納得しそうだ。
  しかし、いつもパソコンを前にしてときおりキーを叩きながら知的な印象の眼差しを画面に向けている様子を見ると、どうやら物書きのような仕事を生業にしているのではないかと思う。
  彼がスーツやネクタイ姿ではなく、たいていはカジュアルでセンスのいいラフな服装をしていることから、陸海は自由業だろうと予想したのだが、<ル・プティ・ボワ>のオーナーで先月不惑の大台に乗ったばかりの店長である小野によれば、たぶん作家じゃないかということだった。
  いずれにしても芸能人と同じく、これまで陸海の周辺ではお目にかかったことのない人種であるには違いない。
  物珍しさも手伝ってか陸海はこの客がやってくると、ついそわそわとしてしまう。テーブルにオーダーを取りにいくときも、緊張して声が硬くなってしまったり、胸がどきどきしてしまうのだ。
「お待たせしました。ご注文のアイスラテでございます」
  陸海は慎重にパソコンの脇のスペースにコースターを敷いて、ラテのグラスを置いた。
「ありがとう」
  彼はパソコンから視線を上げて微笑んだ。理知的な雰囲気の奥二重の双眸が涼しげで、落ち着いて分別がある大人の男という感じがする。
「ごゆっくりどうぞ」
  いつものようにギャルソンとして微笑み返した陸海の心臓は、しかし、ふつうの客にするよりも遥かに早く鼓動を打っている。
(声も素敵だ。低いけれどよく透る落ち着いた声だ。すごく……イイ)
  こんな男(ひと)が自分の恋人だったらなあ……と、陸海はつい夢想してしまう。
  だが現実は厳しいことはこれまでにじゅうぶん学習していた。彼が男の自分を恋愛対象として見てくれる確率はきっとものすごく低い。何と言っても同性どうしが少数派であるのは間違いないのだ。
  それでも陸海は彼のオーダーを取って飲み物を運ぶだけでときめいてしまう。このドキドキ感は誰にも止められない。
  もちろん個人的に話したことなどない。ギャルソンと客という間柄だけだったけれど、もはや陸海のバイトに行く最大の楽しみとなってしまっていた。
  そのため夏休みになっても実家に帰省せず、「いつになったら帰ってくるの?」と親からは電話がかかってくるほどにバイト三昧の陸海なのだった。
  せめて彼の名前が知りたいと思う。もし作家ならばペンネームでもいい。
  しかし、もっとあのひとのことを知りたいと思っても相手はお客だし、なかなかこちらからは声を掛けづらい。陸海がちょっと内気だということもある。
  これがもっと外交的な性格なら、お客にギャルソンとして気の利いたあいさつをするついでに自己紹介でもして、相手の名前くらい聞き出せるかもしれないのに……。
(これでも接客のバイトがやれるようになったのだから、少しは進歩はしているはずなんだけど)
  七月も中旬になり梅雨明けしたまぶしい午後の日差しが、夏空の天頂から降りそそいでいる。外は暑そうだったが、テラス側の全面ガラス越しに見える小さな森は、周囲に涼しげな濃い日陰を作っていた。
  店内の空調は冷やしすぎず、快適な温度に保たれている。ランチタイムの忙しい時間が終わったあとで店の中は客が一瞬まばらになり、陸海はほっと一息ついているところだった。
  例の客は、ランチタイム後の客が減ったこの時間帯から、たいていは夕方の五時よりは少し早い時間まで、<ル・プティ・ボワ>で二、三時間過ごしていく。
  つまり店がわりと空いている時間帯にやってくるわけだが、今日は珍しくランチの時間からやってきて、食事をしてからアイスラテをオーダーしてテーブルにノートパソコンを広げたのだった。
「すみません」
  と、その彼がこちらの視線を捉えて言った。
  そろそろコーヒーのおかわりだろうと、陸海は素早い身のこなしで彼のテーブルに歩み寄った。
「アイスコーヒーください」
「かしこまりました」
  と、陸海は飲み終わったラテのグラスを下げて一礼した。
  いつもと同じパターンだ。彼は長居をするとき、残りの時間を水だけで粘ったりせずに最低でも二回はオーダーしてくれる。それなりに店側に気を使ってくれているのだろうと陸海は思っている。
  戻ってきてオーダーを伝えると、オーナー兼店長の小野が言った。
「今日も作家先生来てるね」
「本当に作家さんでしょうか? あのルックスだし……」
  それに文章を書いているからと言って小説家とは限らない。フリーライターとか、シナリオライターとか、陸海はよく知らないがほかにも色々ありそうだ。
「じゃあ直接本人に訊いてみれば?」
「お客さんにそんな個人的なことは――」
  陸海が口ごもると、小野はふふんと面白そうに笑った。
「すごく気になってるくせに」
  すっかり小野はお見通しだった。
「う……」
  たしかにそうだけど、仕事の邪魔をするのは悪い気がするし、あのひとに鬱陶しい店員だと思われでもしたらもっと嫌だ。
  にやにやしている小野を尻目に、陸海は真面目そうなギャルソンの表情を取りつくろうと、出てきたアイスコーヒーのグラスをトレイにのせて、テラスに近い彼のテーブルへと向かった。
  彼がどんなものを書いているにせよ、自分の仕事部屋ではなくこんなカフェのような他人が行き来する場所でパソコンを開いているのだから、仮に見られることがあってもいちいち気にしていないかもしれないと思ったりもする。
  ちなみに陸海の視力は良い方だった。裸眼で両目とも一.五である。
  正直いつも彼が何を書いているのか、そのパソコン画面の内容には陸海も興味津々だったのだが、勝手にのぞき込むのも失礼だと、これまでもなるべく見ないようにしてきたのだ。
  ――だから、本当に、意図的に見るつもりはまったくなかった。
「アイスコーヒー、お待たせいたしま――…」
  お決まりのセリフが尻切れトンボに立ち消え、偶然見えてしまったパソコンの画面に陸海の眼は釘付けになる。
  視界にダイレクトに飛び込んできた『豊乳』だの『未亡人』だの『美尻』だのの見慣れない単語の群れに幻惑され、陸海が「しまった!」と思ったときには、もう手にしていたトレイの上でアイスコーヒーのグラスは大きくバランスを崩していた。
「わぁっ!」
  思わず声を上げたのは陸海の方だった。
  トレイの上で倒れたグラスからざぶりと、氷と一緒に冷えたコーヒーの濃い褐色の液体が流れ出し、とっさにパソコンをかばった男の頭上へとまともに降り注いだ。
「……バックアップ、まだ取ってなかったから」
  呆然と立ち尽くす陸海に、顔を上げた彼は、髪からコーヒーを滴らせて言った。


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