■ 壊されてもいい 2 ■

 

「本当に申し訳ございませんでした」
  あらためて店長ともども深く頭を下げた陸海に、彼――水城啓一は少々面食らったような様子だった。
「いや、実害なかったし、だいじょうぶなんで」
  結果的に陸海に頭からアイスコーヒーをぶっ掛けられた水城は、店長がときどき別宅に使っている店奥に併設された居住空間でシャワーを使い着替えたところだった。
  水城の洗いざらしの髪からはかすかにシャンプーの匂いがしている。
  コーヒーの染みだらけになってしまった本人のシャツの代わりに、ギャルソン用の制服の白シャツを着ている水城は、客として接していたときより身近に思えて、陸海はこんな状況にも関わらず不謹慎にも胸が高鳴ってしまった。
「こちらこそ、なんか驚かせたみたいで――」
  陸海が偶然見てしまったのは、彼が『美月啓』のペンネームで書いている官能小説の一部だった。いわゆる男性向けのエロ小説である。
  官能小説を書くことを生業にしているのだと、水城は特に隠そうともせずペンネームと共にあっさりと教えてくれたのだった。
  店長の小田は、美月啓のペンネームを知っていた。男性向け週刊誌で連載されていた美月啓の小説を読んだことがあるとかで、まったく畑違いの陸海は初耳だったが、小田によればおじさん世代には有名な官能小説家で、結構売れている作家らしい。
「お召しになっていたシャツはクリーニングして、後日お届けに上がります」
  と店長の小田は言って、隣に並んで直立不動になっていた陸海の頭をおじぎの格好に押さえた。
「お詫びがてらコレに届けさせますので」
「……申し訳ありません」
  コレと呼ばれた陸海は恐縮したまま謝罪の言葉を重ねた。
「いえ、そこまでしていただかなくても」
  と、水城は生真面目そうに言った。
  アイスコーヒーを頭からかぶったことについては驚きこそすれ、とくに腹を立てている様子でないのは幸いだった。
「すぐ近くなので、また僕がお店におじゃましたときで結構ですから。――そういえば、きみの名前は?」
  こちらに向けられたらしい声に陸海がおずおずと顔を上げると、まともに水城と視線が絡んだ。
「…っ!」
  知的な印象の双眸に見返されて、すかさず心臓がどきんと跳ねる。カフェ<ル・プティ・ボワ>の店員としてではなく、こんなふうに個人として認識されたのは初めてだと思う。
「陸海です。宮元陸海といいます」
「たかみくん……、どんな字?」
「陸、海と書いて、陸海と読みます」
「男の子らしくて、いい名前だ」
にっこりとした水城に感想をのべられて、陸海は頬が熱くなるのを感じた。
「あ、ありがとうございます」
  陸海という自分の名前は、本当はコンプレックスだった。子供の頃は女みたいな顔して名前に合わないなどと、よくからかわれたから。
  でも、水城そう言われると、お世辞でもほめられたみたいで単純にうれしかった。

 

  きっかけはどうであれ、憧れのひとと話ができて、こちらの名前まで憶えてもらえた。
(水城啓一さんて言うのか。ペンネームは、美月啓……)
  バイトを終えて高田馬場にあるアパートの自分の部屋へ帰ると、陸海はさっそく自分のパソコンで水城のペンネームである「美月啓」を検索してみる。
  検索ワードに打ち込んでエンターキーを押すと、結果には「美月啓」名義の著書がずらずらとヒットした。
「……!」
  息をのんで、陸海はともするとパソコン画面を上滑りしそうな視線でなんとか単語を拾った。
(陵辱、監禁、人妻、女教師、調教……?)
  さすが男性向け官能小説というだけあって、どのタイトルのキーワードも、いかにもな感じのするものばかりだ。
  表現がダイレクトなのは、タイトルだけで中身の嗜好を読者にわからせるためだろうか。ひねりも何もない。そのまんま、いっそ清々しいほどにあからさまな語彙選択である。
  しかし、これら小説の内容にもちろん興味はなかった。
  陸海に興味があるのは、それを書いている水城啓一本人だけだった。彼のことを少しでも知りたいと思う一心で、陸海は水城がメインで書いていると思しき出版社のサイトへとアクセスした。
  彼が書くのがどんな小説なのか、一冊ぐらい試しに読んでみようと思ったのだ。ほとんど怖いもの見たさに近い感覚だ。
  いずれにしても一般書店のレジでこの手の本を購入する度胸は陸海にはなかったので、買うのなら最初からネット書店のつもりだった。
  そもそも水城の本が一般の書店に並べて売られているものなのか、官能小説なんて読んだことのない陸海にはわからない。
(もしかしたら、そういう専門店でないと買えないとか……?)
  これは別に陸海のジャンルに対する偏見とかじゃなくて、とにかく自分の知らない世界のことなので勝手がわからないのである。
  出版社のサイトでは、これまで水城が書いた書籍が電子書籍化されていた。ダウンロードでデータを購入すれば、すぐにパソコンで読めるらしい。決済はクレジットカードだが、うまい具合に陸海は去年の夏休みに海外へ行く前に作った学生向けのカードを持っていた。
(どれにしよう……?)
  扇情的なイラストとタイトルの並んだ表紙カバーを眺め、陸海はしばし考える。
  イラストとタイトルのほかに内容を判断する手がかりは、簡単な作品紹介のあらすじと、本文から十数行ほどの抜粋だけである。
  試しに読むだけだからどれでもかまわないのだが、個人的に暴力的なのとか、無理やりな感じは好きではないのでレイプやSMものはまずパスだ。
(これ……とかだったら――)
『母娘美獣 誘惑の下宿屋敷』と、タイトルのつけられた電子書籍の購入ボタンを、陸海は思い切ってクリックした。

 

  今日はいつもの時間になっても、水城は店に現れなかった。
  きのうのことがあったばかりなので心配だったが、水城は必ずしも毎日通ってくるわけでもなかったので、今日は来ない日なのかもしれない。
(水城さんは、ああいうえっちが好みなのかなあ……)
  ふと脳裏に浮かぶシーンは、きのう読んだ電子書籍の、高校を卒業したばかりの十八歳の女の子とその母親である熟女との3P場面だ。
  主人公は平凡な大学生の男で、下宿先のお屋敷の未亡人である大家と、その娘と同時に関係を持つ話だった。
  そういうジャンルだからか、とにかくセックスシーンが微に入り細にわたり描写してあって、初めてその類の小説を手にした陸海は、一読しただけですっかりお腹いっぱいになってしまった。
  どうしてそんなにモテるのかわからない平凡な主人公が、美女たちに同時にアプローチされて入喰い状態というのも不思議な展開だが、普通の男性向けなのだから、これで抜けるかどうかということが一番肝心なのだろう。
  そもそも美少女も熟女も恋愛対象が違うから、美月啓が書く小説の汁だく濃厚エロは、陸海には抜くどころか「うわぁ、……無理!」というのが正直な感想だった。
  官能小説なんてあくまでもファンタジーでフィクションのはずだから、その内容を書いている本人と結びつけるなんてナンセンスだとは思うが、作者である水城を知っているだけに、考えはじめれば陸海は気になってしょうがない。
  自分の憧れの相手がどんなセックスを好むのかは、名前を憶えてもらったばかりの今の段階から時期尚早ながら重要な関心事項だったのだ。
(だけど、そもそも無理だよなあ……)
  無理に決まっているのだ。いくら子供の頃は女の子に間違われ、今は二十歳過ぎてるのにかわいいと言われても、陸海は正真正銘の男だったから。
  どんなにこちらが水城のことを好きになったって、彼と恋愛関係になるなんてことは、水城にとってはまったく想定外のことなのである。
  それどころか、万一こちらの気持ちに気づかれでもしたら――。
(きっと気持ち悪いって思われる……)
  だから、彼の姿を近くで見ていられるだけでいいと思う。辛いけど、気持ち悪いと避けられるよりはずっといい。
  午後の混む時間帯も過ぎ、店内はお客も減って閑散としている。時計は夕方の四時半をまわったところ。陸海はあと三十分ほどで上がる時刻だ。
  顔を見たらきのうのお詫びをしようと、陸海は昨夜から頭の中で何度もシュミレーションしていたので、ついに水城が来ないとわかると、なんだか肩透かしを食らったようながっかりしたような気分になった。
  そんな具合に、ぼんやりトレイを抱えて水城のことを考えていたら、店長の小野に「陸海」と、呼ばれ我に返った。
「は…っ、はい?」
「今日はちょっと暇だから、ちょうどいい。おまえ私服に着替えから、例の先生のところにコレ届けてきのうのお詫びに行ってこい。あとはそのまま帰っていいから」
  と、小野に手渡された紙バッグには、クリーニングから戻ってきた水城のシャツと、店頭でも販売している<ル・プティ・ボワ>の人気商品であるラスクの、きれいにギフトラッピングされた箱が入っていた。
「店長もお詫びしてたと伝えてくれよ。くれぐれも粗相のないようにな」
「はい。すみません、僕のせいで」
「ああ、この分はちゃんとバイト代から引いておくから」
「……わかりました」
  全面的に自分のミスだとわかっているので陸海がしおらしくうなずくと、小野は吹き出した。
「冗談だよ。早く行っておいで」
  陸海は着替えると、きのう店長が念のため水城から訊いておいたマンションの場所をしるしたメモを手に店を出た。


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