水城本人が「すぐ近く」だと言っていたとおり、彼の住まいがあるマンションは、<ル・プティ・ボワ>から徒歩で五分ほどのところだった。
建物の間口自体は広くないが、立地している所柄たたずまいはかなり高級そうである。部外者の侵入を固く拒むような、プライベートな雰囲気の漂うエントランスホールのよく磨かれた大理石の床を恐るおそる踏んで、陸海はオートロックの入り口前に設置されているインターホンのキーに教えられていた水城の五階の部屋番号を打ち込んだ。
呼び出しボタンを押すと、しばらくして応答があった。
『はい、どちらさま?』
少しくぐもって事務的ではあるが、確かに水城の声だった。
陸海は胸の鼓動が高鳴るの感じながら、インターフォンに身分と用件を吹き込んだ。
「カフェ<ル・プティ・ボワ>の陸海です。クリーニングしたシャツをお届けにまいりました」
『……ああ』
と、水城はようやく何かを思い出したといったような声を出した。
『――陸海くん? どうぞ、上がってきて』
エレベータへと続くガラス扉のロックが、かちりと解除される音がした。
自宅玄関で出迎えてくれた水城を見て、陸海は思わずぎょっとした。
「ごめんね、こんな格好で」
店に来るときの端整な印象とは大きく違って、彼はよれよれのTシャツにジャージのハーフパンツといういでたちだった。
その表情はどこかやつれていて、髪は乱れたまま、まさに寝込みを襲われたかのような雰囲気である。
「あ、あの、……すみません。お忙しかったですか?」
「いや、とりあえず原稿はひとつ終わった。締め切りは今日だったんだけど、ついさっきデータ送信したところ。わざわざ届けに来てくれてありがとう」
そう言って、水城は男っぽく微笑んだ。
すかさずドキリと陸海の心臓が跳ねる。髪が乱れていようと、シャツがよれよれだろうと、これまで見たことのない生の水城の様子がひどく新鮮だった。
「陸海くんの私服、初めて見たよ。今日のバイトはもう終わり?」
と、一方の水城は陸海を見て訊ねた。
「はい。これをお届けして、そのまま帰っていいと店長に言われたので。あ、これは店長からお詫びだそうです。きのうは本当に申し訳ありませんでした」
と、水城のシャツと一緒に、陸海は言付けられていたラスクの入った紙バッグを差し出した。
「これは?」
「うちのお店のオリジナルラスクです。結構人気があるんです」
「へえ、全然知らなかったな。実はラスクは好物なんだ。遠慮なくいただくよ」
うれしそうに紙バッグを受け取ると水城は言った。
「陸海くん、バイトが終わりなら、うちでお茶でもどう?」
「え…っ」
渡すものを渡したらすぐ帰るつもりだったので、意外な誘いに陸海は驚いた。全然そんなことまでは期待してなかったのだ。
「もし時間があれば……なんだけど?」
「ありますっ」
我知らず勢い込んでしまって、頬が熱くなった。変に思われたかもしれないと内心焦って付け足した。
「下宿に帰ってもひとりで別にやることもないので――」
(……やだな、それも何だかつまんないひとみたいだ)
しかし水城はにっこりして「じゃあ」と陸海を上がるように促した。
「部屋、締め切り直後でものすごく散らかってるけど」
玄関から続いている廊下を抜けると広いリビングだった。
「………」
「いつもはもう少しマシなんだよ?」
こちらの反応を見て、水城は弁解するように言った。
(意外だ……、意外すぎる……!)
水城の「散らかっている」というのは、けして謙遜ではなかった。リビングは本当にものすごく散らかっている。
ソファや床には着替えたらしい衣服が脱ぎ散らかしてあるし、コンビニのビニール袋はローテーブルの上に放置されたままだ。中身は弁当の空き容器かだろうか。
部屋が広いだけに、足の踏み場がないというほどでないが、とにかくそのときに使ったものが後片付けされずに水城が移動したルート上に散らばっている印象だ。
「とりあえずソファに座って――、あ、今ちょっと片付けるね」
急いでコンビニの袋を拾い、洗濯ものになるらしい衣類をかき集める水城の姿は、これまで陸海が彼に抱いていた落ち着いた大人のイメージを崩壊させるのに充分すぎた。が、それを変に格好つけず、こちらにあっさりと見せてしまうあたり、妙に親近感がわくというか、かわいいというか、陸海は思わずくすりと笑ってしまった。
「手伝いましょうか?」
「なんか悪いね、助かるよ。もともと家事は苦手で、締め切り直後はご覧のように惨憺たる有様なんだ。専属のお手伝いさんが欲しいくらいだ」
水城が本当に困ってるといった表情で応じるので、さらに陸海は笑みを誘われた。
「僕、わりと家事は得意ですよ」
これは嘘じゃない。ひとり暮らしをはじめてから、陸海は自分に適性があることに気づいた。
「そうなんだ、えらいね」
本気で感心してるみたいに水城は言った。
「あはは…っ」
水城にえらいなんて言われることじゃないなと思いつつ、面映さに曖昧な笑い声をもらして、陸海はそこかしこに転がっているコンビニ弁当の残骸やペットボトルを集めて、分別しながらゴミ袋に収集する。
実家にいるときはいつも周囲のひとたちに世話を焼かれるばかりだったから、自分が誰かの世話を焼いてるなんてなんだか楽しい。
その相手が憧れの水城なら、なおさらだった。
ゴミを片付け、洗濯物をランドリーに放り込んだら、リビングは思いのほかきれいになった。どうやら水城の言うとおり、散らかっていたのは彼の小説の締め切りのせいで、一時的なものだったらしい。家事が苦手だとしても、普段はそれなりに掃除もしているのだろう。
本来の状態に戻ったリビングのソファで向かい合って座り、陸海が持ってきたラスクの箱を開けて、ふたりはようやくお茶にありついた。
「お茶でもなんて声を掛けておきながら、ペットボトルで申し訳ない」
水城は冷蔵庫から出してきたペットボトルのストレートティーを、陸海の目の前のコップに注いで言った。
「とんでもないです。かえってすみません。僕が店を出るときに、先に電話してご都合をうかがえばよかったですよね」
「そこまで忙しくしてないよ」
と、水城は楽しそうに笑った。
お店でお客さんとして接していたときとは全然感覚が違う。まるで友人のように間近で接して話ができるなんて夢のようだ。
「単純にいつも切羽詰らないと書けないので、締め切りぎりぎりまで粘って、半ばヤケクソで一気に書き上げる感じかな」
ふたりきりで部屋にいると思うだけで、陸海の胸は高鳴った。おかしなハイテンションにならないようにと、注意深くあたりさわりのない返答する。
「作家さんて大変なんですね」
「ただのエロ小説家だよ」
何の気負いもなさそうに応じてから、水城は好奇心をにじませた視線でちらりとこちらを見返した。
「もしかして、おれの小説読んだ?」
「え、あの……、実はきのう電子書籍で一冊購入させていただきました」
こっそり読んだことを簡単に見抜かれて、陸海は素直に告白した。
「それは、ありがとう。でも、おれが書いてるのは主にオジサン向けだから、陸海くんには抜けなかったでしょう?」
「……っ」
(抜くって、やっぱりそういう用途なのか)
返事に困っていると、「ごめんごめん」と水城が何かに気づいたように顔の前で手を振った。
「陸海くんは、いまどきのアレ……草食系って言うんだっけ?」
「そういうわけじゃ――」
「おれも仕事で書いてるから、妄想をどれだけ形にするかが勝負だけど、慣れてくると段取りでやってるようなところもあって、何と言うか、いつもえっちなことばかり考えてるわけでもないんだよ?」
こちらが引いているように見えたのか、水城はそんなことを言った。
(だけど、水城さん相手にいきなりカミングアウトもできないし……)
女の子は恋愛対象じゃないんです。実は水城さんが好きなんです――なんて、それこそこっちが完全に引かれてしまいそうだ。
「えっと……、お話は面白かったです」
「無理しなくてもいいよ?」
と、水城は苦笑した。
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