「陸海くんは、あのお店のバイトはもう長いの?」
「一年ちょっとぐらいですね。大学に入学してからすぐにはじめたので」
大学はどこかと訊ねられて、店から――つまりこのマンションからもすぐ近くの、私立大学の名前を挙げたら水城はとても納得したようだった。
「学校に近くて便利なので、<ル・プティ・ボワ>に決めたんです」
「小さな森か。おれもあの木陰はは気に入ってるんだ。きみのようなかわいいギャルソンもいるしね」
「……」
(か…、かわいい、と言われてしまった……!)
単なる言葉のあやだろうが、水城に言われるとうれしくて困る。陸海は表情に出さないようにするだけで精一杯だ。
「夏休み中はずっとバイト?」
「ええ、まあ。親からの仕送りにはあまり頼りたくないので、稼げるうちにバイトしておこうと思ってます」
「……へえ」
と、つぶやいて、水城は何やら思案しているようだった。
「もしも陸海くんの都合がよければだけど――」
やがて水城はそう切り出した。
「うちでアシスタントのバイトをする気はないか?」
「えっ! それは『美月啓先生』の、ですか?」
予想外の申し出に、思わず訊き返す。
「そう。カフェのバイトの合間でいいから、締め切り前後にうちのマンションの部屋が惨憺たる状況になるのを、ぜひ陸海くんに阻止してもらいたいんだ」
水城の口元が、笑みの形に引き上げられる。
「高級優遇するよ、どう?」
「でも、アシスタントって、僕は具体的には何をすれば……?」
「今日してくれたみたいなこと。部屋の掃除とか、あと……、陸海くん料理は得意?」
「得意ってほどじゃないですけど、僕がふだん食べてる普通のご飯でよければ」
「充分すぎるくらいだよ。おれはキッチンではお湯しか沸かしたことないから。あとは電子レンジしか使えない。キッチンには、ひととおりのものはあるはずだが」
「これまでお食事はどうされていたんですか?」
「ほとんど外食。締め切り前で時間がなくなってくると、コンビニ弁当になって、それから冷蔵庫にストックしてある冷凍食品になって、最終的にはカップ麺に行きつく」
「そう……なんですか」
とてもそんな無頓着そうに見えないのに、ひとは見かけによらないものだと陸海はびっくりして、疲れてはいても端整な容貌のままである水城の顔を見返した。
「ひょっとして呆れてる?」
「そ、そんなこと! ……少し、意外だとは思いましたけど」
「陸海くんは正直だね」
水城はくすくすと笑い声を立てた。
「言い訳をさせてもらうと、おれには歳の離れた姉がふたりいてね。両方ともかなり前に嫁いで今では家族持ちなんだけど、おれはその姉たちに子供のことから世話を焼かれっぱなしだったんだ。お陰で自分では家事ひとつできない役立たずな男になってしまったよ」
自虐的なコメントをして水城はにやりとした。
(それって、なんかおれと似てるかも)
親近感を持って陸海は言った。
「実は、僕もひとまわり歳の離れた兄がいて、いつまでも子供扱いされて困ってるんです」
「ってことは、お兄さんはおれと同じくらい?」
「今年三十二です」
「おれより三つ上か。でも陸海くんはやっぱりエライよ。おれと違って家事ができる」
「そんな……」
(どうしよう。水城さんにほめられると、すごくうれしい)
陸海は舞い上がってしまいそうな心持ちだった。ソファに座っているはずなのに、なんだか身体がふわふわしているみたいだ。
「じゃあ、バイトの件はOKということでいいかな。時給は……そうだな、カフェのバイト料に千円上乗せでどう?」
「それでは、いくらなんでも貰いすぎです!」
雑用をするだけなのに、相場から考えたって高すぎる時給だと思った。
「そんなことはないよ。おれはわがままだから、結構面倒なこともお願いするかもしれないし――」
「……?」
眼をしばたたかせて、陸海は水城の次の言葉を待った。
「あらかじめ、おれには断っておかなくてはいけないこともあるし」
そう言って、水城の奥二重の双眸がじっと陸海を見た。
ドクン、と大きく陸海の鼓動がひとつ波打つ。
「おれはね、バイなんだ。バイってわかるかな? バイセクシャル。女も男も抱けるってこと」
「あ……」
我知らず陸海は胸を喘がせた。
(嘘……、そんなこと……マジで!?)
鼓動が速くなって、喉がからからに干上がっていくのがわかった。
「ごめん、驚いた? そういう人種に出くわすのはおれが初めてかな」
水城はバイで『男も抱ける』――それはつまり、陸海にもチャンスがあるということ――なのだろうか?
「だけど安心して、陸海くんの了承もなく襲ったりしないから」
「……」
「ここ、笑うところなんだけど」
陸海が反応しないので、さすがに水城はきまりが悪そうに苦笑いした。
「そういうの陸海くんが生理的に無理って言うのなら、今回のバイトの件は諦めるよ?」
「ち、違いますっ、……そうじゃないんです」
焦って陸海は言葉を継いだ。
「そうじゃなくて……その、僕は――」
「ん?」と、水城が先を促すような表情でこちらを見やった。
(どうしよう。いきなりこんな場面で告白するなんて想定外だ)
「その……、僕は、いつも好きになるひとが同性で、だから、たぶん――」
「同性愛者ってこと?」
切り出しにくいことを代わりにあっさりと言われて、陸海は必死の思いでうなずいた。
「本当にそうなのかなあ……? おれも同類は雰囲気でなんとなくわかるものだけど、陸海くんは全然気づかなかったな。そんなこと言っても、陸海くんは男とえっちしたことなんてないでしょう?」
「っ…!」
なんで水城がそんなふうに陸海のことを確信を持って言い切れるのかは疑問だったが、羞恥のためか頬にカッと血が上ってしまったので、答えは言わずもがなだったろう。
(もちろん、女の子と経験のないことだって見抜かれてる)
「なら、バイトは契約成立ってことでいい?」
「は、はい……」
陸海にとってすごく重要なことを、水城にはさらりとかわされたような気がする。
同性を好きになると陸海が告白したってことは、いま陸海の目の前にいる自分がその対象になっている可能性について、水城が考えていないはずがない。
(僕は水城さんにとって恋愛の対象外ってこと……かな)
こちらの気持ちに気づいていながら、水城はあえて知らない振りをするつもりなのだろうか? つまり陸海は、見込みがないということか。
毎度のことながら、告白もできずに消えていく恋なんて残念すぎる。
これでは結局いつものパターンになってしまう。
そんな自分を変えたいと陸海は思っていたのではないのか。
「先生」
渾身の勇気を振り絞って、陸海は言った。
「僕は……先生のことが――」
「しっ!」
水城は自分の唇に人差し指を押し当て、陸海を押しとどめた。
思わず息をのんで、陸海は水城の顔を見返す。
あまりにも決然としていて、水城の態度は有無を言わさない強制力があった。それより先を口にしてはいけない、と言うのか。
(水城さん、わかってるんだ)
陸海が言おうとしていたことが。
だが、なぜ水城に告白してはいけないのか、陸海にはわからなかった。もし受け入れられないということならば、もっとわかりやすく拒絶すればいいことではないのだろうか。
それとも、はっきりと言うことで陸海を傷つけたくないという、水城なりの配慮なのだろうか。
(そんなの、かえって傷つくけどな……)
しかし、水城に対する好意を口にすることは許さないのに、陸海を水城の元でバイトをさせようというのはどうしてだろう。
陸海がそれ以上、何も言えなくなったのを確認すると、水城はにっこりとした。
「今日部屋を片付けてくれた分も、バイトの時間としてつけておくよ。さっそくだけど、おれのスケジュールを教えるから、手伝いに来れそうな日と時間を教えてくれるかな」
しっくりと腑に落ちないまま、こうして陸海は官能小説家、美月啓こと水城の元でアシスタントのバイトをすることになったのである。
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