■ 壊されてもいい 5 ■

 

  カレンダーは八月に替わったが、長い大学の夏休みの残りはまだ一ヶ月ほどあって、陸海の生活圏は新宿区の自分のアパートと、カフェ<ル・プティ・ボワ>、カフェから徒歩五分の水城のマンションの三地点を中心としたものになっていた。
  平日は夕方までカフェでギャルソンのバイトをして、店を出た足でそのまま水城のマンションに向かう。部屋の片付けや掃除をしたり、締め切り前で忙しいときは、水城のために夕食の準備をしたりするのが仕事なので、美月啓のアシスタントというより、水城のマンションに通う家政婦さんのようだ。
  夕食を準備した日は、陸海も水城と一緒に食事をする。最初は遠慮していたのだが、水城が、どうせアパートに帰って食べるのならうちで食べていった方が効率的だなどと陸海を口説いたので、作るのは陸海自身だったが、そのたびに水城の相伴に預かっている。
  水城はこれまでどおり、午後には<ル・プティ・ボワ>にやって来てパソコンを広げていたので、陸海にとってはバイトをしながら憧れのひととの時間をすごせるという、夢みたいな生活だった。
  陸海が水城に好意を持っていることは、バイトの件を持ち出されたときからどうやら水城本人の知っていることなのだが、水城のマンションでふたりきりになっても、ちょっとした弾みで恋愛につながるようなアクシデントが起きることはなかった。
  いつも顔を合わせているのなら、もしかしたら……と、わずかな希望を持っていた陸海は心の中で落胆するほどに、そっち方面に関しては、日常の水城はひどくガードが固いのだった。
(水城さんには、恋人がいるのかもしれない)
  しばらくして陸海が達した結論だった。
  自意識過剰だと思われるかもしれないが、陸海はこれまでその容姿からか、いつも周囲から親切に――ありていに言えば、ちやほやされることが多かった。
  それが一度もまともな恋愛に繋がらなかったのは、陸海が人見知りでどちらかというと内向的な性格であることと、その恋愛対象が同性に限られていたからである。
  バイセクシャルだと明かした水城は、陸海にとって初めて恋愛対象として機能する相手に違いないのだった。
  しかし実際は、まるで恋愛経験のない陸海には食指が動かないとでも言うように、水城はそういう対象としては陸海を眼中に入れることはない。
  お陰で陸海は、一時の気まぐれでも遊びでもいいから、こちらを見て欲しいと、卑屈さと懇願が入り混じったような、複雑な心境で無意識のうちに水城の姿を追っていることがあるのだった。
  そんな陸海の内面とは裏腹に、水城の元でのバイトは自体は順調だった。ときどき水城のマンションにやって来る担当編集者の高枝にも、陸海は今では水城のアシスタントとして認知されていた。

 

  今日は水曜日で、陸海のカフェのバイトはオフ日である。
  昼過ぎから水城に呼び出されてマンションに言ってみると、「高枝さんが取りに来るから」と、水城は著者校正の終わったゲラを陸海に託して、寝室のベッドで撃沈してしまった。しばらく寝てなかったらしい。
  そんなになるまで締め切りぎりぎりまで粘らなくてもいいのに……と、陸海は思うのだが、水城に言わせればそれほど単純なものではないようだ。
  ひととおり雑用をこなして終えても、夕飯の準備をするにはまだ早い時間だった。
  水城がいつものように散らかしていた部屋を片付けた陸海は、とりあえず彼が起きてくるまではフリータイムだとばかり、リビングのソファの上で、大学のレポート用に借りていた参考図書の新書を開いた。
  と、そのとき、マンションエントランスのインターフォンが鳴って来客を告げた。
  出てみると陸海の予想どおり、編集の高枝だった。
  高枝は水城より五歳年上で、出身大学が同じらしい。水城との関係は作家と編集者というよりも、陸海には親しい友人のような空気がふたりの間には感じられた。
  高枝の容姿には水城のような人目をひく華やかさはないが、細身で眼鏡をかけた知的な雰囲気の人物である。
「やあ陸海くん、こんにちは」
  玄関で出迎えると、いつものように高枝は勝手知ったマンションの部屋に上がりこんだ。
「水城は?」
「先生は仮眠中です。ゲラですよね? お渡しするようにと預かってます」
  ソファに腰を落ち着けた高枝にずっしりとしたB4サイズの封筒を手渡すと、中身を確認した高枝は満足そうにうなずいた。
「陸海くんがアシスタントしてくれるようになってから、このマンションの部屋も散らからなくなったねえ」
  冷蔵庫で冷やしていたアイスティーと、<ル・プティ・ボワ>のオリジナルラスクを出すと、高枝はうれしそうに言った。
「お茶とお茶菓子まで出てきて最高だよ」
「高枝さん、先生とのお付き合いは長いんですか?」
  陸海が高枝と一対一で親しく話す機会は初めてだったので、水城についていろいろ訊いてみたいことがあった。
「僕が編集者になりたてのころ、ちょうど彼が大学生のとき新人賞でデビューしたから、もう十年ぐらいになるね。本当は文学賞を目指していたらしいけど、気まぐれで書いた官能小説で生計を立てることになるとは、きっとそのときの水城は想像してなかったと思うな」
「美月先生が目指してたのは、文学賞だったんですか?」
「確か純文だったと思うよ。メジャーな雑誌の新人賞に応募していたはずだから。だけどあのとおり水城は見た目よりも無頓着で飾らない性格だから、とりあえず小説が書けるのなら満足で、楽しんでやってるみたいだけど。それに純文だったら、小説では食べていけなかっただろうし」
  たしかに高枝の言うように、水城はそのとき本人が価値を見出しているものと、それほどでもないものでは、対応に落差が大きいと陸海も思う。何かこだわりがあるのか、締め切りぎりぎりまで粘るのもそうだし、一方で部屋がめちゃくちゃに散らかっても平気でいられるのもそうだ。
「今からでも遅くはないから、一般小説も書いてみないかと勧めてるんだが、残念ながら水城はそれほど乗り気じゃなくてね」
「一般小説……ですか?」
「そう。今書いてるジャンルはコアで熱心なファンがついてるけど、マニアックな世界だから。水城のあの俳優ばりのルックスなら、顔出しして一般受けしそうなエンタメ小説でも書いたら、部数も人気出そうなんだけどな。知り合いの編集者を紹介すると言っても、全然興味を示さないんだ」
「……先生は、あまり騒がれるのは好きじゃないかも」
  個人的な感想をぽろりと洩らしたら、高枝は興味深そうにこちらの顔をうかがった。
「それは水城のプライベートに関して?」
「え? …ええ」
「ふぅん、そうか。きみにはカミングアウトしてたか」
  つぶやくように言って、高枝は何ごとかを納得している様子だった。
「水城は、きみのことがかなり気に入ってるようだ」
「えっ、なぜですか?」
  それが本当ならうれしいけど、こちらの気持ちにたぶん気づきながら、その告白を許さなかった水城が何を考えているのか、陸海には見当もつかない。
「あの男は、何か気になる相手じゃなかったら、そのようなことはまず口にしないからね」
「……そう、なんですか?」
  不覚にも胸が高鳴ってしまった。
(それはまだ希望は捨てなくてもいい、ってこと?)
「今だから言うけど、初めて陸海くんをこのマンションで見かけたときは、水城の新しい恋人かと思ったんだ。部屋に誰かを招きいれること自体、あまりないはずだから」
「……」
  やはり水城には誰か恋人が存在するのだ。
「でも、きみが水城とそういう関係でないのは見ればなんとなくわかるし、どういうことなのかな……と、実は僕もひそかに気になってるところ」
「あの……、僕が先生のことを、その……」
「それは――、きみを見れば誰にだってわかると思うよ?」
「……そうですか」
  あっさりと高枝に肯定されて、恥ずかしさに陸海はいたたまれなくなった。傍目からでもそんなにわかりやすかったのかと。
(だったら、水城さんは、なぜ……?)
「僕の片思いなんです。アシスタントのバイトに採用されるとき、告白しそうになったんですけど、それを先生が許してくれなくて」
「言わせなかったってこと?」
「はい。……先生の恋人って、どんな方ですか?」
「う…ん、僕も一度しか見かけてないし、マンションの廊下ですれ違っただけだから。たぶん彼だろうと思っただけで。日本人じゃないみたいだったけど、……若い白人青年だった。今もつきあってるかどうかは、水城に訊いたわけではないからわからないよ」
「きれいなひとでしたか?」
「そうだね、モデルかなんかと思ったよ」
「モデル……」
(やっぱり恋人がいるんだ)
  予想はついていたのに、がっくりとして陸海はソファに身体を沈ませた。
「おい、高枝さん。うちの陸海にあまりおかしなこと吹き込まないで欲しいな」
「あ、先生!」
「水城、起きたのか」
  いつのまにか寝室から出てきていたらしい水城がリビングに立っていた。


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