「桜流しか」
と、背後で鬼頭さんが呟くのが聞こえた。
夜になって降り出した雨が、窓ガラスにぽつぽつと当たり始めたと思った途端、強風をともなって桜の花びらを巻き上げ、すぐに本降りになった。
鬼頭さんのマンションの目の前は広い公園で、まるで都心のオアシスのようだ。今の季節は桜が満開で窓からは白く盛り上がった桜並木が見おろせる。
「響(きょう)は桜が好きか?」
低くさびを含んだ声で鬼頭さんは僕に訊ねた。
鬼頭さんは滅多なことでは声を荒げたりはしないが、逆に配下の組員たちは幹部の迫力を感じるらしい。
僕は鬼頭さんに名前を呼ばれるだけで、身体の芯が疼く気がする。
「あまり好きじゃない」
僕がそう答えると背後に立った長身の鬼頭さんが、鏡のようになった夜の窓ガラス越しに精悍に整った容貌の眉を寄せた。
さっきからずっと僕は窓の外の桜を見ていたから、僕の答えを変に感じたのだろう。
「……『桜流し』ってなに?」
「桜を散らす雨のことだ」
鬼頭さんが言った。
第1章 桜流し
夜になってから雨がばしゃばしゃと降って、公園の満開の桜を散らしてしまうのをベンチに座ってずっと見ていた。
寒くてお腹が空いていて、着ているものはびしょ濡れで。コンビニに行けばビニール傘ぐらい買えるはずだったけれど、ジーンズのポケットにはもう小銭しかなくて、そのうえ僕には帰る場所がなかった。
そんな夜だったから、傘を差し掛けてくれたひとにうっかりついて行ったとしても、誰も僕を責められないだろう。
だから僕は行きずりのそのひとについていった。別に、誰でもよかった。たぶんそのひとも同じだったのだろう。
怖くなさそうなひとだから、まあいいかと思った。
ちゃんとしたスーツを着て、きちんとネクタイを絞めていたから、きっとどこかの会社のサラリーマンなのだろうと思った。
ひとは見かけによらないと言うけれど、元々ひとを見る目に自信はないし、何より僕はとても疲れていたのだ。
「お腹が空いている」
と言ったら、そのひとは二十四時間営業のファミレスでハンバーグ定食を奢ってくれた。久しぶりのまともな食事だった。
僕はがつがつと食べている間、彼はコーヒーをお替わりしながら僕の様子を眺めていた。
禁煙席だったから煙草は吸わないらしい。
ハンバーグに熱中しながらも、僕はそのひとの顔を盗み見た。
眼鏡をかけていて三十歳ぐらいに見えた。特別にハンサムでも不細工でもなかった。好みの顔かどうか考えたけれど、どっちでもいいかと途中でやめた。
「いくつ?」
ファミレスのテーブル越しに、そのひとは僕の名前を訊ねる代わりに年齢を訊いてきた。
「十八」
本当は十六になったばかりだったけど、僕の予想が正しければそう言った方がいいような気がした。
でもそんなに先のことまで考えていたわけじゃない。
だって、これからすぐの先のことを考えていたら、ハンバーグの皿に熱中している余裕なんて僕にあるはずがなかった。
ビルの谷間のビジネスホテルに僕は連れていかれた。
実は男同士でどうやってセックスをするのか僕は知らなかった。知らなかったけど、挿れるならアソコしかないなと思った。女の子みたいにそれ専用のが男にはないから。
でも僕は女の子ともしたこともなかったから、あまり参考になりそうにもなかったけど。
「初めて?」
とそのひとは訊いた。
満開の桜が雨に打たれていたその夜、僕は初めて男に抱かれた。俗にいうバージン喪失ってやつだ。
僕は挿れられる方だったから、童貞喪失と言うのとはたぶん違うんじゃないかな。
とにかく痛かった。
痛いだろうとは思ったけれど、想像以上だった。
そのひとは僕が初めてだと知ってずいぶん優しくはしてくれたのだけど、そのひとが持っていた潤滑ゼリーを使っても僕の入口は本当に狭くて、「ごめんね」と言いながら昂りを無理矢理押し込まれ、出し入れされているうちに僕のそこは切れて血が出た。
痛がっていただけの僕はそのときはわからなかったけど、太股を大きく割り開かれて腰を打ちつけられながら、繋がった部分からぐちゅぐちゅと音がするのは気づいていた。
だんだん痛みが麻痺してきて、自分で扱いたときに感じるのとは全く別の、初めての快感が身体の奥から湧(わ)いてくる。
硬い切っ先がぐりぐりと僕の中に当たって、僕の股間のモノは頭をもたげ始めていた。
そのひとの荒い息遣いと、僕の喘ぎ声が混ざりあって、目を閉じた僕の目蓋の裏で白い桜の花びらが乱れ飛んだ。
◇ ◇
「そこで何をしている」
と低音でさびを含んだ、耳触りの良い声がふいに降ってきた。
僕は力なく路地の上で生ゴミを詰めたビニール袋の山に背中を預けたまま、殴られた痕が腫れてちゃんと開かない目を見開こうとした。
ピカピカに磨かれた靴先がまず見えて、それからスラックスの長い足と、仕立てのいい高級ブランドのスーツに包まれた堂々とした体躯が目に入った。
僕が何をしていたのかは見た通りだった。
ショートの客と初めての安ホテルに入って、出てきたところを二人組のチンピラに袋だたきにされ売り上げを全部取られたのだった。
さっきの質問の意味は、なぜ僕がボコボコにやられているのか、ということだろう。
「……蜷川組(にながわぐみ)の…縄張りで、……客を引いたって…言われて」
口の中が切れて上手くしゃべれなかったけど、ようやく僕はそう説明した。相手が警察ではなく、その筋の人間だとわかったからだ。
「この辺りは澤田組のシマとの境界だ。日によって境目が変わる」
そう言った男は三十をちょっと過ぎているぐらいで、きっちりと櫛目の入った髪は一筋の乱れもなく、精悍に整った容貌はひとの上に立つ者の威厳を滲ませているようだった。そして向かって右側だから、つまり本人の左眉の上に小さな傷跡があった。
そんな些細な傷跡は男の容姿を損なうことは全くなく、僕はその存在感に圧倒され、威風堂々とした姿に思わずみとれた。
「すまなかったな坊主。蜷川組と言ったのなら俺の配下の若いモンだろう」
そう言って男は、
「榊(さかき)」
と、その傍らに控えていた若い男に声を掛けた。
「はい」
格闘技でもやっていそうな短髪で強面の男だった。
「手を貸してやれ。俺のマンションまで連れていく」
「はっ。……しかし、この後のご予定はどうなさるんで? 今晩は『四ッ谷』がお待ちですが」
「キャンセルの電話をいれてやっておいてくれ。急に組長(おやじ)に呼ばれたとでも言ってやればいい」
あっさりと言われて榊の強面が困った顔になった。
「ですが、きっと機嫌を損ねられますよ。何も鬼頭さんがお手を煩わせなくても、そんなウリのガキのひとり、わたしが――」
「俺がそうしたいんだ」
配下に意見されても気を悪くした様子もなく、男臭く整った顔に微笑すら浮べて鬼頭さんは言った。
「なんなら今晩はおまえが『四ッ谷』の相手をしてやってもいいんだぞ」
「そんなっ、滅相もない」
慌てたように応じて榊は僕に近づくと、素早く僕の力の入らない身体を探った。
「骨は折れてません」
「そうか、細っこいわりには丈夫にできてるな」
鬼頭さんはそう満足そうに言った。
「よし、車に運べ」
榊は僕の身体を荷物のように無造作に担ぎ上げ、大股で路上駐車してあった黒塗りのベンツへと運んだ。
わけのわからない僕は何か文句を言うこともできず、ただされるがままだった。こうしてその夜、拾われて僕は鬼頭さんちの居候になった。
『初めて』のあの夜から、もうすぐ一年が過ぎようとしていた。
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