翌朝、打撲傷でそこらじゅうが痛む身体をひきずってリビングに行ってみると、鬼頭さんがひとりでいて、ゆったりとしたソファで新聞を拡げていた。
「よく眠れたか」
鬼頭さんが訊ねた。鬼頭さんの低音の声はなんかセクシーだ。さわっと羽毛で背筋をなでられたような、奇妙な快感がある。
僕は黙ったままうなずいた。
都心にある鬼頭さんの住居は4LDKのマンションで目の前が広い公園だった。リビングの広いガラス窓からは大きな公園の桜並木が見おろせる。まだ二分咲ほどの桜は枝全体がつぼみの濃いピンク色に染まっていた。
一人暮らしには広すぎるだろうと思えるこのマンションで、鬼頭さんは生活しているようだった。ようだというのは、この広いマンションは、まるできれいなモデルルームのように生活感がないからだった。
「榊がもうすぐ迎えにくる。おまえの着替えも持ってくるだろうから、着替えたら朝飯に出かけるぞ」
新聞をたたみながら鬼頭さんが言った。
「いつも外食なの?」
「俺が料理上手に見えるか?」
男っぽい口元にニヤリと笑みを浮べた鬼頭さんに、なぜか僕の鼓動はどきんとひとつ大きく跳ねた。
訊いてみれば普段の鬼頭さんの食事はぜんぶ外食、洗濯物はクリーニング、掃除はクリーニングサービスの業者なのだそうだ。どうりで生活感がないはずだ。
その他の雑用は、榊がいつも面倒を見ているのだと鬼頭さんは言った。
鬼頭さんは甦星(こうせい)会蜷川組という暴力団の幹部だった。正真正銘のヤクザだ。
僕は新宿でウリをしていて澤田組のシマの店に出入りしていたから、蜷川組の幹部組員の顔なんて知らなかったのだ。
僕を新宿の路地裏で拾った夜は、鬼頭さんは女のひとのところに行く途中だった。
『四ッ谷』というのは女のひとが住んでいるマンションがある場所のことで、他にも『新橋』とか『青山』とか、何人もいるらしい。
それが理由なのかどうか僕にもわからなかったけど、榊が帰ってマンションに僕とふたりきりでいるときも、鬼頭さんが僕に何かしてくることはなかった。
マンションに連れてこられたときに、きっと鬼頭さんに抱かれることになるんだろうなとなんとなく思っていた僕は、鬼頭さんが僕に興味を示さないことに少し落胆していた。
考えてみれば「細っこい」と鬼頭さんに言われたように、僕の成長途中の身体は貧相で、鬼頭さんの大人の男の体躯と比べられたら恥ずかしいぐらいだ。女のひとのように柔らかくないし、胸だってないし。
やっぱり女のひとの方が気持いいのかなあと僕は思った。
思いがけず親切にされて、何かお返しをしたいと僕は考えていたのだった。でも僕には身体のほかには何もなくて。
もどかしかった。
三日もすると打撲の痕があざになってはいたけれど、腫れも引いて痛みもほとんどなくなった。
顔も殴られていたのでやっぱりあざが残っていたけど、今は切れた唇の端に絆創膏を貼っているだけで、結構普通に見られるようになったかなと洗面室の鏡を見て僕は思った。
いつまでもここに居候しているわけにもいかないだろうから、あざが目立たなくなったら出ていくつもりだった。
不動産会社社長の肩書きを持っている鬼頭さんは、午前中はマンションにいることが多くて、だいたい午後遅くなってから榊が車で迎えにきた。
鬼頭さんは誰かと会食をしない限りは、いつも僕を一緒に食事に連れていってくれて、鬼頭さんがいないときは榊がケータリングの食事を頼んでくれた。
鬼頭さんのマンションから見おろせる公園の桜並木は、ほぼ満開近くになっていた。窓を開け放していると微かに桜の花の香りが漂ってくる。
その日の昼は、鬼頭さんは別の幹部と会合だとかで、終わるまで暇だった榊が大きなピザを買ってきてくれた。
ひとりじゃ食べ切れないサイズで、せっかくだからと榊も誘ってダイニングテーブルで向いあわせになり一緒に食べた。
榊は無口で強面だけれど、見た目よりずっと繊細そうなひとで、僕にもいろいろと気を使ってくれているようだった。初対面の『ウリのガキ』呼ばわりからとはぜんぜん態度が違う。
でもたぶんそれは僕が鬼頭さんのゲストになったからで、榊は鬼頭さんに心酔しているのだった。
「鬼頭さんは――」
と、ピザを食べながら榊に訊いてみようと僕は思いきって口を開いた。
「男はダメなのかな?」
食べかけのピザで派手にむせた榊は、慌てて自分のミネラルウォーターのボトルを掴み、半分ほど飲み干して息をついた。
「……それはつまり、鬼頭さんは男を抱けるかどうかということですか?」
しゃちほこばって榊は訊ねた。
僕がうなずくと、榊は目を泳がせた。
「自分がこんなことを言っては、本当はマズイんですが――」
仕方なくといった感じで榊は続けた。
「たぶん男もイけると思います」
たぶんと榊が言ったのは、彼が知る限り今まで鬼頭さんが男を囲ったことはなかったためだったが、シマの中の少年たちと接する態度を傍から榊が見ている印象ではそうだろうということだった。
「そうなんだ」
僕が呟くと榊は落ち着きをなくして、
「あの――」
と、僕から視線を逸らしつつ言った。
「わたしが言ったってのは、鬼頭さんには内緒にしておいてください」
「うん、わかった」
そうなんだ……。
一瞬喜びかけて、僕はふと思った。
だったらどうして、鬼頭さんは僕に手を出さないのだろう。
もともと鬼頭さんの配下にやられたことだったけど、こんなに親切にしてもらって、もし鬼頭さんが誘ってくれたら僕は喜んで身体を開くのに。
そう考えたら胸がずきりと疼いた。
僕には、そんな価値もないということだろうか。
昼間に会合のあったその日、鬼頭さんは珍しく夕方からフリーになった。
まだ明るいうちに榊が運転する車でマンションに戻ってきた鬼頭さんは、
「今晩はおまえの好きなものを食べさせてやる」
と言った。
だだっ広いリビングに設置してあった豪華な大型プロジェクターで、榊が持って来てくれたDVDの『電車男』を観ていた僕は、昼間はピサだったから何かあっさりしたものが食べたくなって、
「寿司っ!」
と答えた。
鬼頭さんは「よし」と楽しそうに応じて、榊に車を出させて築地の高級店に連れて行ってくれた。
実は、僕が『回ってない寿司』を食べるのはこれが初めてだった。
ふつう寿司って言えば店の中をぐるぐる回っていて、寿司がのっている皿の色で百円とか、三百円とか、皿が金色の豪華版だと五百円とかなのに、鬼頭さんに連れられていった店ではカウンターの中の寿司職人が、ひとつひとつ握ってくれるものだった。
僕が驚いたのは店のどこにも値段が書いてなかったことだった。『時価』って言うらしいけど、そのときどきによって値段が違うから書いてないんだそうだ。
その店の寿司は僕が生まれてから記憶にある限りの中で、一番おいしかった。僕はオーバーだけど本当に感動した。日本人に生まれきてよかったと初めて思ったぐらいだ。
思いっきり満足して店を出るとき、お勘定で鬼頭さんが万札を何枚も取り出したのを横目で見ていて僕は仰天した。鬼頭さんと榊と僕の三人分だったけど、ここの寿司の値段はひとつ一体いくらなんだろう?
鬼頭さんはいつも無造作に財布から万札を出す。財布にはいつも百万ほど入ってるようだった。鬼頭さんはカードは持ってない。いつもニコニコ現金払いだった。ヤクザなんだなあと僕は思う。
「何かお礼したいんだけど……」
僕と鬼頭さんをマンションまで送り届けて榊が帰ってしまった後、鬼頭さんはリビングのソファでブランデーを飲みながらケーブルテレビのニュースチャンネルで経済ニュースを観ていた。
僕はすぐ横のソファで、そんな鬼頭さんを見ていたのだった。
「――お礼?」
怪訝そうな顔つきで僕の方をちらりと見て鬼頭さんが訊ねた。
「うん。僕ね、鬼頭さんにすごくよくしてもらって、何かお礼がしたい。僕にできること何かない?」
訊ねながらも僕にできることはそんなにないことはわかっていた。そうでなかったら僕はウリなんてやってなかったと思う。
「ガキがそんな心配をしなくてもいい」
顔をテレビの画面に向けたまま素っ気なく鬼頭さんは言った。
「でも――」
と僕は諦めなかった。
「僕にできることって、多分あんまりないと思うけど――、もし、……もし鬼頭さんがよかったら、僕――その……、鬼頭さんに抱かれたい」
思いきって言ってしまって、僕は頬に血が昇るのがわかった。なんかすごく恥ずかしい。
「………」
鬼頭さんが黙ったまま、テレビの画面ではなくこちらを向き直って僕の顔をじっと見た。
精悍に整った顔に、ちょっと説明の難しい奇妙な表情を浮べている。
「おまえは俺を誘っているのか……?」
やがて確かめるように鬼頭さんが言った
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