桜の頃


「下の名前、なんていうの?」
  訊ねられて、高級車の広い後部座席で、冴島は隣へとちらりと視線を投げた。
  淡い桜色のドレス姿で、髪をアップにしているせいか大人びて見えるが、まだ二十歳になったばかりの大学生だという。くっきりとした目鼻立ちで、肌は抜けるように白い。華奢な身体つきの割に胸が大きくて、まるで男を挑発するかのようにドレスを突き上げている。
「敬(たかし)です」
「ふうん。どんな字?」
  さして興味もなさそうな感じで、彼女は続けた。
「尊敬の敬、うやまうという字です」
  冴島が答えると、聞いているのかいないのか、彼女は車窓を流れる夕闇に包まれた街を眺めていた。
  運転手つきの車は、滑らかな運転でパーティー会場のホテルに向かっている。走行中の振動もなく、防音も効いた高級車特有の静かな車内だった。

 

 最初、助手席に乗り込もうとした冴島は「隣に座って」と彼女に命じられて、言われるがまま後部座席の皮張りシートに腰を降ろした。すると、彼女はスーツ姿の冴島をうれしそうに眺め回した。高級ホテルの華やかなパーティーに相応しい格好ということで、今夜の冴島は派手すぎないがそれなりに見えるブランドのスーツに身を包んでいる。すべて今夜の雇い主――彼女の父親――から支給されたものだ。
  ボディーガードを連れて歩くことには慣れているのだろう。もっと正確に言うと、飽き飽きしているらしい。ちょっとした退屈しのぎの意地悪で、彼女は車に乗り込むなり、その視線や仕種で散々冴島を誘惑しようとしたのだった。
  冴島に対するかなり露骨な彼女のアプローチを、車の運転手はバックミラー越しに、見て見ぬ振りを決め込んでいた。彼女は自分が男からどんな風に見えるのか熟知しているようだった。
  しかし、冴島が眉ひとつ動かさないのを見ると、小さくため息をついて「下の名前、なんていうの?」と、言ったのだった。

 

「――いつもこんなことしてるの?」
  窓の外に眼をやったまま彼女が訊ねた。こんなこと、という語調がいかにもつまらなそうだったので冴島は思わず訊き直した。
「こんなこと……?」
「小娘のお守よ」
  と、うんざりしたように彼女が応じた。
  ――なんだ、わかってるじゃないか。
  冴島は内心で苦笑を洩らした。わがままな社長令嬢だというから、どんなに手に負えないガキかと思っていたら、意外と頭は良さそうだ。
  今夜の冴島は「ボディーガード」として雇われてはいるけれど、実際は男癖の悪い彼女の監視役でもあったのだ。まるで父親を困らせるためにそうするかのように、彼女はしょっちゅう色恋沙汰のスキャンダルを起こしているらしい。その中には、彼女専属のボディーガードもいたようだ。
「いろいろです。ボディーガードが専門という訳ではありません」
  彼女は生真面目に答えた冴島の方へと向き直った。きれいにカールした長い睫を瞬かせる。
「彼女……とか、いる?」
「彼女はいません」
  冴島が即答すると、きょう二度目のため息を彼女はついた。
「……やっぱりね。残念」
  何がやっぱりで、残念なのか、冴島はわからず彼女の顔を見返した。
「そうでなきゃ、うちのおやじが指名するはずないわ」
  呟くように彼女は言う。
「お父さま、では」
  冴島がたしなめると、彼女はおかしそうに含み笑いをした。
「だいじょうぶよ。取引先のおじさま達の前ではおっきな猫かぶるから」
  慣れてるの、と付け加えた横顔がふと寂しそうだった。
  パーティー会場に到着すると、彼女はさっきまでの渋々といった表情を、にこやかな笑顔にすり替えて、きれいな熱帯魚のように広い会場内を泳ぎ回った。多忙な父親の代わりに招待客として、取引先会社の記念パーティーに出席しているのだ。
  冴島はつかず離れずの微妙な距離で彼女を見守る。幸い彼女に手を出そうという不埒な男は現れず、彼女の方も食指を動かされるような相手はいなかったようだ。

 

「お疲れですか?」
  帰宅する車の中で、冴島は彼女に声を掛けた。まだ午後九時半だった。二時間ほどのパーティーは予定どおりに終わり、冴島は彼女と共に車に乗って、彼女の自宅の玄関先までつきあえば今夜の仕事は無事終了となる。
「そりゃあ疲れるわよ。かぶってる猫が大き過ぎて」
  けだるげに遅れ髪を撫でつけて、彼女は言った。
「わたしね、セックス依存症なんだって」
「……は?」
「カウンセリング受けたことあるの。セックスで寂しい心の空洞を埋めようとしているんだって」
  冴島は我知らずまじまじと彼女を見てしまった。冴島の視線を避けるように彼女が顔をうつむける。
「今夜はわたしのボディーガードというより、見張り役だったんでしょ? わたしが誰か男についていかないように」
「………」
  そうだったけれど、さすがに「そうだ」とは言えなかった。
「手っ取り早いのよね。身体と身体を繋げるのが。それで安心しちゃうの」

 

「あなたのこと気に入ったわ。これからもよろしくね」
  自宅まで送り届けると、別れ間際に彼女が言った。
「あなたならうちのおやじも安心するだろうし。彼女はいなくても、彼氏ならいるんでしょ? こんなイイ男、本当ならまわりの女が放っておくはずないもの」
  嫌味ではなく、素直にそう言った彼女は、きれいな歯をみせてにこりと笑うと、手をひらひらと振って屋敷の中へと消えて言った。
「………」
  背中に運転手の好奇心丸出しの視線を感じながら、冴島はしばらくその場に立ち尽くしていた。

 

 自分のマンションのエントランス脇から現れた冴島を見て、帰宅した満澄は一瞬ぎょっとしたような顔をした。
「なんでおまえがいる!?」
「顔が見たくなって――」
  そう言って冴島が近づくと満澄は身構えた。
「おい、俺のことを強姦魔のような眼で見るなよ」
  少し鼻白んで文句を言うと、「似たようなもんだろ」と満澄が眉をしかめた。
  思わず苦笑して冴島は言った。
「一時間も待ってたんだ。部屋でコーヒーぐらい飲ませてくれ」


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