桜の頃
2
「よくまあ近隣住民に通報されなかったな」
ぶつぶつ言いながらも、満澄は冴島を部屋に上げてくれた。
「俺のどこが不審者なんだ」
ソファに座って余裕の笑みを送ってやると、満澄はつと視線を逸らしてキッチンへ消えてしまった。ほどなくしていい香りが漂ってくる。本当にコーヒーを飲ませてくれる気らしい。
見たところ満澄の部屋はそれなりに片付いていて、男のひとり暮らしのむさ苦しさは感じられなかった。リビングにまでデスクトップパソコンを持ち込んでいるのはどうかと思ったが。
「ほら」
と、愛想のない声で満澄が冴島の目の前にコーヒーのカップを置いた。ブラックで飲むことを知っているのか、ミルクや砂糖は添えられていない。
「それ飲んだらさっさと帰れ」
満澄は自分のマグカップを掴んで言った。
「つめたいな。それが仕事帰りの恋人に向かってとる態度か」
「だれが恋人だッ!」
満澄は太い眉を逆立てたが、冴島はカワイイ奴だと思ってしまう。こんな風に直球を返されるところが冴島にとってツボであることを、満澄は全く気づいていないだろう。
しばらく黙ってコーヒーを飲んでいると、
「仕事だったのか」
と満澄が訊ねた。冴島は満澄がさっきから気のない素振りでこちらのスーツ姿をちらちら盗み見していることを知っていた。
「――ああ、似合ってるだろ。惚れ直したか
?」
ぐっと詰まったように満澄がマグカップの中身を飲んだ。
「寂しい熱帯魚の世話をしてたんだ」
「……餌やりか?」
ちぐはぐなやり取りに、冴島はくすりと笑って言った。
「その熱帯魚はセックス依存症で悩んでいた」
「……?」
ますます不可解な会話に満澄は眉を寄せる。冴島は自分のカップを置くと、満澄の隣のソファに移動した。身を強張らせるのがわかったが、満澄は逃げなかった。自分の部屋のソファで、どうして逃げなくちゃいけない? きっとそんなところだろう。
左手でそっと満澄の肩を抱きながら、冴島は右手で満澄のマグカップをその手から取り上げると、ソファテーブルの上に置いた。
「………」
満澄の奥二重の瞳が間近からじっと冴島を見つめた。冴島の次の行動を、固唾を飲んで見守るかのような緊張感があった。
冴島は両手を満澄の背中にまわして抱き寄せた。満澄の肩に頬を預けて眼を閉じる。
さらに満澄が身体を硬直させる気配。
「何もしないから」
と、冴島はささやいた。
「しばらくこのまま……」
身体を密着させていると、満澄の鼓動を感じた。
――脈拍が早すぎやしないか……?
心配になって身体を離し満澄を見やると、満澄みは視線を合わせないよう顔を背けた。
「――そんなに俺が怖い?」
「…ッ、んな訳ないだろっ!」
無理もないかと冴島は思った。なにしろ今までには、満澄が気を失うほど攻めたてたことがあったのだから。
「本当に何もしないよ」
ささやくように言いながら、もう一度抱き寄せて。すると満澄が身体の力を抜く気配があった。
「冴島……」
名を呼ばれて顔を上げると、満澄が不安げに困ったような視線を寄越した。
「何かあったのか?」
「何かって?」
「いや、その……」
訊き返されて満澄は口ごもった。満澄が言いたいことはわかっていた。いつもは顔を見るたびほとんど強引に抱いていたから、今夜は勝手が違って戸惑っているのだろう。
――と、いうことは、何か期待していたということか。
「押し倒して欲しかったのか」
――ならば期待にお応えするべきだろう。
「ちがッ…――!」
叫び声を上げかけた満澄の口を手で塞いで、冴島は満澄をソファに組み伏せた。満澄のような体格の男を一瞬で制圧することは、実践的な体術に慣れている冴島には難しいことではない。
「そんな声を上げたら、ご近所に迷惑だろう
?」
結局こうなるのかと、冴島は自嘲気味に唇をゆがませた。身体と身体を繋げるのが確かに手っ取り早い。そうすれば安心できるから?
しかし今夜の自分は、そんなつもりではなかったはずだ。身体を繋げなくても、他に満澄と繋がる何かがあるのではないかと、そんな何かを期待していたはずだ。
――そのはずだった……。
「…ッ、……ぅ、…!」
満澄がくぐもった声を洩らす。でも冴島は愛撫の手を緩めない。さらに追い上げるように満澄の下肢奥をまさぐり味わって、最後の理性のかけらさえ奪い去ろうとする。
実際、満澄の抵抗はすでに最低限まで弱まっていた。口の中に冴島のネクタイを突っ込まれたときには酷く暴れたが、脱がされたシャツで両腕を拘束されてすぐに大人しくなった。無駄な抵抗だと気づいたのだろう。
「…う、…っ、…んッ」
顔を覗き込むと、満澄は奥二重の目元を赤く染め、非難がましい眼で冴島を睨んで責苦に耐えているようだ。
苦しげに呻いてはいるけれど、快感を堪えているのは確かだった。冴島になぶられ、満澄のモノは頭をもたげて雫をこぼしている。
満澄を一度いかせてからでもよかったのだが、なぜか気が急いていて、冴島は満澄の雫で指を濡らすと、奥の狭い口を抉じ開けた。
「……っ!」
指を入れられて満澄が身体を強張らせた。目尻には生理的なものか、涙が滲んでいる。ぎゅっと締めつけてくる口を、なだめるように内部から押し拡げていく。くっと、満澄みが背中をのけ反らせて反応した。びくびくと震えながら二本に増やされた指を飲み込まされる。
「…、…ッ、…ぅ」
――怒ってるだろうな、力ずくというのは。
ちょっと後悔しながら、冴島は指を抜いて替わりに自分の先端をあてがい、ゆっくりと満澄の中へと沈んでいった。
容赦ない平手打ちで頬をはられて、冴島は眼から火花が飛ぶのを見た。
「……痛」
満澄の口からネクタイを引きずり出して、シャツの拘束を解いてやった直後だった。
「この…ッ、強姦魔ッ!」
肩で息をしながら、上半身を起こした満澄がこちらを睨みつける。
「おまえって奴は、なんだって――!」
あまりに頭に来ていてことばにならないのか満澄は絶句していて。
また殴られるかもしれなかったが、冴島は黙って満澄の裸の半身を抱き寄せた。しかし満澄は、そのまま冴島に抱きしめられた。
「――おまえが……、顔を見たいなんて言って、――俺のこと待ってたから……、どうしたのかと思って……」
満澄はそう低い声で言って、胸を喘がせた。
「心配してくれたのか?」
「だれがッ…、おまえなんか!」
耳元で吐きすてるように呟いた満澄の表情は、こちらを向かせて見ると、そのセリフほど武装してはいなかった。
互いの視線が絡んで、どちらからともなく唇が重なった。そういえば、今夜は唇に口づけるのは初めてだった、と冴島は思った。
「ん……」
密やかな吐息を洩らして、満澄が舌を差し入れてきた。まるで冴島を甘やかすようなキス。だから冴島はいつも勘違いしてしまうのだ。自分はもしかしたら満澄に愛されているのではないかと。身体だけが満澄を自分に引き留めているのではなく。
無理やり身体を繋げなくても、こうして抱きしめて口づければ、満澄と自分を繋ぐ何かがわかるのではないかと。
ただ、それだけで。
ゆっくりと唇を離して満澄が言った。
「こんど無理やりやったら本当に許さないぞ」
――今夜のは許してくれるのか。
冴島は首を振った。
「もう、しない」
――しないよ……。
冴島はもう一度、その鼓動を確かめるように満澄の身体を抱き寄せた。