桜の頃
3
日中に吹いた南寄りの強風で、満開になっていた桜は盛大に花びらを吹き散らされて、アスファルトの路上のそこかしこに淡いピンク色の吹き溜まりを作っていた。その路上に、冴島はくわえていた煙草を落とし踏み消した。が、思い直して拾い上げると、狭い道をはさんだ向い側にある公園の入口へと足を向けた。持っていた吸い殻を公園入口に設けられていた吸い殻入れへと落とし込む。
公園では数組のグループが桜の下で思い思いにブルーシートなどの敷物を広げ、いましも宴会が始まろうとしていた。風に乗ったざわめきとビールの匂いや、ほのかに混じった桜の香りが流れて来る。
それらに背を向け、元いた場所――マンションのエントランス前――に戻ろうと踵を返して、冴島は待ち人が帰ってきていたことに気づいた。
満澄が夕暮れの中、マンションのエントランス前に立って、こちらを見つめていた。
「早かったな」
と冴島が声を掛けると、満澄は男っぽい眉の下の奥二重の眼を眇めて、じっと冴島の顔を見た。今日は身構えていないようだったが、なぜ冴島が眼前に現れたのか、理由について考えている様だった。
先日、冴島は満澄のマンションに押し掛け、部屋に上げてもらえたことをいいことに、無理やり満澄を押し倒してことに及んだのだった。当然満澄は怒って、あとで冴島は頬を思いっきり満澄に引っ叩かれた。眼から散った火花が見えたぐらいだ。自業自得と言われれば全くその通りなのだが。
無言のままオートロックのエントランスドアをキーで開けて、満澄はエレベータへ歩いていった。後を追う冴島を制止する気配もないので、冴島はそのまま続いて狭いエレベーターに乗り込んだ。
知らん顔をしている満澄の肩を抱こうと身じろいだら、
「監視カメラ」
ひとこと冷たく告げられて、冴島は大人しく静止した。エレベータはすぐに満澄の部屋がある四階へと到着した。
――虫の居所が悪いのかな。
黙ったまま部屋には入れてくれたが、リビングのソファに冴島を置き去りにして、満澄は着替えをするためか寝室へ引っ込んでしまった。このまま乱入したかったが、今度こそ許してもらえないだろう。冴島は頭をかすめたそんな誘惑をぐっと押さえた。
満澄はスーツからラフな格好になってすぐ出てくると、今度はキッチンへ行ってしまった。間もなくコーヒーの香りが漂ってきた。
「今日は、何しに来たとは訊かないんだな」
ブラックコーヒーのカップを目の前に置かれて冴島が言った。
向い側に腰を落ち着けた満澄が、ちらと自分のマグカップから眼をあげた。満澄の分はカフェオレのようだ。
「――どうせ大した用なんてないんだろう
?」
平然と言われて、冴島は顔をちょっとしかめた。
普段の満澄は言動に表裏がないというか、見ていてわかりやすい性格なのだが。今夜の彼は落ち着いた表情を崩さず、全く何を考えているのか冴島にも読み取れなかった。
「それともまた強姦しに来たのか?」
正直、当たらずとも遠からずだったので、思わず冴島は満澄の視線から逃れ、黙って苦いコーヒーをすすった。
――今夜は大人しく退散したほうが良さそうだ……。
◇◆◇
社長の間宮に頼まれて集めていた資料データをパソコン上のエクセルに落として、バックアップ用のUSBメモリに保存すると満澄はパソコンの電源を切った。事務所の時計はまだ五時半だった。仕事は思ったより早く片付いた。今日は珍しく他にこれといって懸案事項がない。たまにはさっさと部屋に帰ってゆっくりしようかと、満澄はひとりきりでいた事務所を後にした。
自分のマンションエントランスに帰りついたところで、はたと満澄は足をとめた。マンションのすぐ向いにある夕暮れの公園の入口で、立っている長身のスーツらしい人影に見覚えがあったからだ。精悍な雰囲気のある均整のとれた体つき。後ろ姿ではあったが見間違えるはずがない。
視線に気づいたのか人影が振り向いた。冴島敬だった。
冴島は満澄の姿を認めると長いストライドで近寄ってきて「早かったな」と言った。
先日――二週間程前か――は、満澄の帰宅をここで一時間以上待っていたらしい。あの日はなんだかいつもと違って、冴島はその精悍に整った顔に思いつめたような表情が浮かべていて、満澄はつい部屋に上げてしまった。それが間違いだった。冴島はこともあろうか力ずくで満澄を犯したのだ。
――甘い顔をするとつけあがる。
そう学習して、満澄は冷静な態度で冴島を迎えることにした。いくら命の恩人だからと言っても、れっきとした男の自分が同性の冴島に毎回いいように抱かれる義務はない。
――それに体格だって遜色ないはずだ。
満澄の身長だって百八十センチはあるし、身体もそれなりに鍛えているつもりだ。しかし実践的な格闘術をマスターしているのか、冴島に組み敷かれると実際のところ満澄は手も足も出ない。
――なによりも奴が、自分より四歳も年下だという事実も気に入らない。
無言のままの満澄についてエレベータに乗り込んできた冴島は、ドアが閉まると満澄をなだめるかのように身体を近づけた。
「監視カメラ」
と牽制のことばを発すると、冴島は大人しく固まった。監視カメラは設置されているのは本当だが、警備会社の人間が満澄たちの動向に興味を持つことはなかっただろう。
部屋に入って寝室でスーツから部屋着に着替えて戻ってみると、冴島は奴には不似合いに神妙な顔つきでソファに座っていた。その様子にほだされて、コーヒーぐらいいれてやろうかという気になる。満澄はラテしか飲まないが、冴島はブラックだから、コーヒーをちょっと余分にいれてカップに移すだけだ。
「何しに来たとは訊かないんだな」
コーヒーを出してやったら冴島が言った。
「どうせ大した用なんてないんだろう? それともまた強姦しに来たのか?」
冷淡に言ってやったら、冴島は整った精悍な顔をゆがませた。
――どうしておまえがそんな傷ついた表情をするんだ?
まるでこちらが悪いみたいじゃないかと満澄は胸の内で呟く。
「――顔見に来た、じゃだめなのか。やっぱり、まだ怒ってるのか?」
やがて、冴島が満澄の機嫌をうかがうように訊ねた。
「別に…、――もう怒っちゃいない」
らしくなく冴島の心もとなげな様子に、満澄は思わず冷たい声色を作り損ねて。
「今日も熱帯魚の世話だったのか」
と、満澄は自ら話題を逸らしてしまった。
「ああ、最近はほとんど専属の状態だ」
話を振ってもらえて、ようやく冴島はいつもの自身ありげな顔つきに戻った。
熱帯魚というのは冴島が近頃ボディーガードについている社長令嬢のことで、セックス依存症らしい。手当りしだいスキャンダルを起こすので、彼女の父親から依頼を受けて冴島がボディーガード兼お目付役となっているのだ。
「ひょっとして妬いているのか?」
ハンサムな顔にニヤリと不敵な笑みをのせて冴島が言った。
「ッ、ばかをいえ!」
全く見当はずれな言い様に、満澄はついムキになってしまう。自分でもどうしていちいち冴島に振り回されるのかがわからない。
「――なあ、冴島」
真顔になって満澄は言った。
「おまえこれからさきも、ずっと瀬川のところにいるつもりか?」
満澄や間宮が所属している『藤森セクション』は、冴島が所属する瀬川のグループと同じ、裏工作を得意とする部門だった。『藤森セクション』が『組織』の意向で動いているように、瀬川のグループもあちら独自の組織の一端として動いている。裏工作を担う者どうしだが、当然いつも利害が一致するとは限らなかった。獲物がバッティングする場合も珍しくないからだ。
事実、数カ月まえに満澄は、瀬川のグループに属する男に拉致されてもう少しで殺されかけた。それを助けてくれたのが冴島だった。
「さあな。そんなこと考えたこともない」
本当に何も考えていないような顔つきで冴島が応じた。
「………」
口をつぐむと、満澄は奥二重の瞳で冴島を睨んだ。