夏の雨
1
飛沫のカーテンを伴って、突然大粒の雨が熱く乾いた砂地を叩きつけ始めた。
夏の午後の強烈な日差しでからからに乾いていた地面には、さっきの血よりも速やかに恵みの雨が黒く浸透していく。廃工場の錆びたトタン屋根や車のスクラップが、強い雨足に叩かれて白く煙る。
冴島は握りしめたままだったナイフの手に視線を落とした。指と手のひらで滑っているのは奴の血だったが、ひとつ間違えばそれは自分の血だったかもしれなかった。
――ひとつ間違えば……?
しかしそれなら、既に自分はいくつも間違っているのではないかと冴島は思う。もう戻れないところまで自分は来てしまったのだ。
――戻れる場所なんて、もうどこにもない。
冴島は土砂降りになってきた雨でナイフを洗い、スラックスのポケットにおさめると、代わりに携帯電話を取り出した。ここまで自分で運転してきたセダンの運転席に乗り込み、通話ボタンを押す。
相手はすぐに応答した。
(敬か)
「はい。――奴を殺りました」
事実を淡々と告げたつもりだった。だが、声が少し歪んだようだ。
(そうか。……怪我はないか?)
冴島の機微を感じ取ったのか、相手の男はいたわるような声を出した。
――懐柔のための常套手段だ。
わかってはいたが、冴島は一瞬胸を衝かれる気持がして、じっと眼を閉じた。
「はい。大丈夫です」
答えながら次の手順を考える。
「例の廃工場です。後始末をお願いします」
(わかった。処理の者をいかせよう。きみは早く帰ってきなさい)
「はい。……瀬川さん」
通話口にそう吹き込むと、冴島はギアを切り替えアクセルを踏み込んだ。バックミラー越しに、濡れた地面に倒れ伏した男の身体が見えたが、すぐに雨の幕の向こう側に遠のいて行った。
東京に戻って来たら熱帯夜だった。全身に絡み付く熱気と湿度にうんざりしながら、マンションのドアを開ける。部屋の中の空気はさらに淀んで暑かった。
冴島はリモコンを手にすると空調の温度設定を限界まで下げ、それからリモコンをソファに放り投げた。服を手早く脱ぎ散らしながら全裸になって、バスルームに入った。
お湯では頭の中まで暑さで腐りそうだった。水のシャワーを頭からかぶって、冴島はようやく一息ついた。夏の雨に打たれた全身から、生臭さが抜けているのを確認するかのように、念入りに全身をシャンプーで洗う。
冷たい水の奔流が冴島の鍛えられた若い身体の上を滑り落ちていった。
皮膚の表面は徐々に冷やされていったが、身体の芯は熱くくすぶったままだった。どんなにシャワーを使っても冷やせない、ドロドロと凝縮する熱だ。
この熱を冷ますのに有効な方法を、冴島はふたつ知っていた。誰かを抱くか、あるいは誰かに抱かれるか、だった。
冴島の来訪は予期されていたようだった。夜の十時を回ったところだったが玄関のインターフォンに名前を告げると、あっさりと取り次ぎの者に瀬川の私室である奥座敷に通された。閑静な高級住宅地にある瀬川の邸宅は、落ち着いた佇まいの日本家屋で、手入れの行き届いた庭木を横目に取り次ぎの中年女性に案内されて、冴島は長いぬれ縁をたどった。
「お連れしました」
瀬川の部屋の引き戸まえで、中年女性は膝をついて声を掛けた。
「入りなさい」
と、瀬川の声がした。
ここへ来るのは初めてではなかったが、冴島はわずかに緊張して、女性に促されるままひとり奥座敷へと足を踏み入れた。
「今日は本当にご苦労だったね」
何か書き物をしていたらしい瀬川は、座卓の上に置かれた漆塗りの文箱を片付けながら言った。微かに墨の匂いがする。
今夜の瀬川は和服で、涼しげな夏物の単衣をまとっている。きれいになでつけられた髪
は真っ白だが、顔の色つやは良い。もし髪を黒く染めれば四十代でも通るかもしれない。瀬川の正確な年齢を冴島は知らなかったが、恐らくは五十代半ば、いま二十四歳の冴島から見れば、たぶん父親と同じ世代だろう。
瀬川の端正な容貌に温和そうな表情が浮かぶのをみて、相手が何か違和感を覚えるとしたら、それは彼の右の眼球が動かないという理由によるものだ。瀬川の右目はいつも無機質に相手を見つめる、文字どおり硝子の義眼だった。
冴島が座敷に入ったところできちんと正座をして「はい」とだけ答えると、瀬川は微笑して見返した。
冴島の訪問を予期していたのならば、その目的もわかりきっているはずだった。
瀬川はゆっくり優雅な仕種で立ち上がると、縁側よりの庭の方向にむけて置いてあった籐製のひじ掛け椅子に腰をおろした。
「こちらに来なさい」
低く命じられるがまま、冴島は引き寄せられるように瀬川の足下に跪(ひざまづ)くと、瀬川の単衣のすそを割った。下着の中からまだ眠ったままの瀬川の物をそっと掴み出す。
瀬川は平静な表情のまま、自分の一物を捧げ持つようにして口中に含んだ冴島を、硝子と生身の双眸でじっと見下ろした。まだくたりとしている瀬川を、冴島は丹念に舐め上げている。精悍な若い容貌の男らしい眉根をわずかによせて、冴島が一心不乱に奉仕する様を瀬川が楽しんでいるようにも見えないが、感じていることは確かなようだ。
冴島は頭上で瀬川がかすかに吐息を洩らすのを聞き、さらに丁寧に舌を使った。ようやく瀬川の物は眼を覚して、芯を持ち始めたところだった。たっぷりと唾液を塗り付けているのは、冴島自身のためでもあった。
「――もういいだろう」
と呟かれて、冴島は瀬川の物から口を離した。一筋の糸がぬらぬらと濡れて光っている瀬川の物と、冴島の唇の間に引かれて、切れた。
瀬川は半分屹立させたまま椅子から立ち上がると、冴島を促して奥の続き間へと入った。
暗い続き間には枕元にスタンドの淡い灯りが置かれ、ひと組の布団が敷かれていた。
「全部脱ぎなさい」
淡々と指示されると、冴島は機械的にすべての着衣を脱ぎ捨てて、瀬川のまえに立った。さっきの奉仕に触発されて、冴島の物はすでに硬くしなっていたが、瀬川はからかうこともなく眼を細めただけだった。
「きみは、きれいだね」
そう瀬川は静かに言って、ひと回り大きい冴島の身体を抱き寄せた。
「とても、若くて美しい……」
耳元でささやく様子は、何かを慈しむようだった。冴島が持っていて、瀬川がもはや持っていない何かを。
例えばそれは、可能性とか未来とかといったことばで表されることだったかもしれない。しかし裏社会に力を持つこの男が、そんな感傷的なものに惹かれるのは奇妙な感じがした。温和な表情のまま、グループの裏切り者の抹殺を、平然と冴島に命じた男のことばとは到底思えないのだ。
掛け布団をはぐった敷き布団の上に押し倒されて、冴島は意識的に全身の力を抜いた。男の身体で、男のそれを受け入れるという行為は、実際かなり苦しいものだった。母親を死に追いやったろくでなしの父親を殺し損ねて、冴島が十六で送られた少年院では主にリンチの手段として使われたものだった。
だから男どうしの性交が、互いに親愛の情を確認する手段としての認識は未だ冴島にはない。それでも冴島が瀬川に抱かれるのは、かつて求めても与えられなかった父性の代替物を欲しているからなのだろうか。
ばかばかしい考えだという自覚はある。瀬川が冴島に与えるものは、偽りの愛情だ。愛情などということばを使うこと自体はばかられる気もする。手なずけ、手の内におさめるためなら手段を選ばない瀬川の冷徹さを、冴島はその硝子の右目を見たときにいつも連想するのだった。
「……ッ…」
奥の窄まったところに垂らされた冷たい感触に冴島は思わず身を竦ませた。身体を俯せにして、尻だけ高く突き出す無様な格好だった。たっぷりと使われたローションが、ひやりとした感触を残して内腿から膝裏へと伝って行く。
「うっ…」
ふいに指をずぶりと差し入れられて、冴島は息を飲んだ。
瀬川はそうしておいて、中をゆっくり焦らすようにかき混ぜた。右手の中指をなるべく奥の方へ進ませて冴島のポイントを探る。
「…っ、ぁ…っ!」
股間に直通する衝撃的な快感が、冴島の背中をしならせた。指で中から直接刺激され、冴島の前はびくりと跳ね先端から先走りの涙を零し始める。
しかし、瀬川はそのまま冴島をいかせるつもりはないらしく、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立て、今度は指を二本に増やしながらもポイントをわざと外す愛撫を続ける。
両肘を突っ張って、両手はシーツを握りしめ、しばらくは耐えていた冴島だったが、どうにも辛くなって自分の右手を股間に伸ばそうとしたら「だめだ」と、叱責された。
「きみは若いから辛いだろうが、先にいってしまってはだめだよ」
中途半端になぶられて、冴島は胸を喘がせた。
「もう…っ、いれて…ください」
まだ、挿入するには充分ととは言えない解され方だったが、冴島は堪らず懇願した。
「――せっかちだね」
くすりと笑って、瀬川が後ろか腰を進める気配があった。
「うっ、…く」
熱く硬い楔が窄まり触れたと思ったら、先端が押し込まれ体内にめり込んだ。冴島は自然と息をつめてしまう。
「もっと力を抜いて」
それほど抱かれた経験のない冴島は、うまくその箇所の力を抜くタイミングを掴めない。
なんとか息を吐こうとしたとき、急に瀬川に突き上げられた。
「あぁっ!」
と、喉を通った空気が悲鳴になった。
先端が通りぬけて、道筋がついた狭隘な箇所を、瀬川は腰を揺すり上げて割り開いた。
「ああぁっ……!」
引き裂かれるような熱い痛みが、繋がれた局部から背筋を走り抜ける。ぶるぶると全身を小刻みに震わせながら、冴島は最初の痛みのショックが収まるのを眼を閉じて待った。
「…っ、…ぅ…」
脈打つ瀬川の物が、自分の身体の最奥まで埋め込まれているのがわかる。
最初の鋭い痛みが、やがてじりじりとした疼きに変容すると、頃合を見計らったように瀬川がずるりと刀身を冴島から引き抜いた。
「はぁっ…う!」
内臓まで持って行かれそうな感覚に、冴島は歯を食いしばった。
抜け落ちてしまいそうなほど引き抜いておいて、カリの部分は冴島の中に残したまま、ぐるりとうごめかす。
「うっ…、ッ、あぁっ」
そうしてまた、ずぶりと差し戻された。太い物で中を擦られて、痛みの中の強烈な快感に冴島は髪を振り乱した。
やがて滑りが良くなってきたのを確認するかのように瀬川の両手が冴島の腰を掴んで、力強く抜き差しを始めた。
「あっ、あぁっ、…ぅ、あっ、あぁッ!」
止める間もなく強制的に絶頂に追い上げられ、冴島は我を忘れて、苦痛の中にちりばめられた快感を拾い集めようとした。
明け方、冴島は自分のマンションの部屋にたどりついた。「泊まっていけば?」という瀬川の誘いを断って、タクシーで帰ってきたのだ。
身体の芯でくすぶって凝縮する熱は、すでに霧散していた。かわりに滞った泥が、ねっとりと骨髄に沈澱しているかのようだった。
瀬川に抱かれ、声がかれるまで叫ばされて、身体は確かに快感を追ってはいたけれども、冴島の心は空虚だった。ずきずきと局部で脈打つ疼痛が、さらに荒んだ気持に追い討ちをかける。
感じているのは、飢餓感だった。
窓の外が白く明けていき、どこかで鳴き始めた蝉の声が聞こえた。