夏の雨

 夜だった。新宿歌舞伎町の盛り場は勤め帰りの酔客や、遊び人風の若い男女、それから人目でその筋とわかるような連中といった、いつも通りの雑多な人種で溢れていた。
  半裸のような服装で小麦色の腕や背中をむき出しにした若い女たちの甘くて強い香水や、ブランドもののスーツで自分を飾り立てたホスト風の男たちが振りまくコロンの匂いと、道端に無造作に置かれたポリバケツから漂って来る腐りかけた生ゴミの匂い。酔客の吐くアルコール臭と煙草の煙り、車の排気ガス。それらが混然一体となったところに夏の湿った熱い大気が覆い被さり、この街全体を隙間なく密閉しているのだった。
  冴島はこの近くの瀬川の事務所に顔を出した帰りだった。事務所から呼び出された訳でも、冴島の方に用事があった訳でもない。いつもの習慣で立ち寄っただけだ。
  冴島はふと自分がきのう殺した、今頃はどこかの山中に埋められている男のことを考えた。捜索願いが出されることもなく、そこで人知れず朽ちていく男のことを。
  人を殺したのは、初めてだった。父親を殺そうとしたことはあったが、そのときは失敗したからだ。
  瀬川に命じられるがまま奴を殺した。どんな男だったのか冴島は知らなし、ましてや恨みがあった訳でもない。ただ奴が瀬川の配下で、いつの間にか瀬川の言うところの『警察の犬』になっていたことは確かのようだ。
  男は冴島が運転する車の助手席に乗せられて、あの廃工場まで連れて来られた。手荒なことをしなくても、男は大人しく冴島に従った。まだ中年と呼ばれるには程遠い年齢に見えたが、男が漂わせていたのは疲れ切った人生の幕切れのような雰囲気だった。
  なぜ自分がグループから処分されるのかも、奴自身よくわかっているようだった。いつかそうなることも、きっと予想していたのだろう。
  ――わかっていたが、どうにもならなかった。
  この世の中で、おおよそ自分自身の努力で変えることのできることなど、たかがしれている。大抵は自分の置かれた境遇の中で、日々もがきながら、あるいは足掻きながら、やがて諦め妥協することをおぼえてやり過ごしていくのだ。そんな枠組みの中から無理やり抜け出そうとすれば、やり過ごすことのできる日常すら危うくなる。

 冴島の足は一時の快楽の相手を求めて、そういう店がある界隈へと向かっていた。
「おい」
  と、背後から呼び止められたのは狭い路地の一本に入ったときだった。
  ゆっくりと振り返ると、背後に立っているのは中年の男だった。くたびれた地味目なスーツによれたネクタイをしている。一見、安手のサラリーマン風だったが、姿勢がよく体格は冴島と遜色がなかった。中年にありがちな弛んだ腹もしていない。何よりもまとっている雰囲気と暗い眼差しが、男の正体を物語っていた。
「瀬川のところの若いモンだな?」
  訊ねられて冴島は相手の顔を見返した。
  ――ああ、こいつがそうか。
  職質(職務質問)されたのは初めてだった。
  ――たしか、……神崎。
  この辺を管轄(シマ)にしているマル暴の刑事だった。
「ポケットの中身を全部出せ」
  と、返事をしないでいると神崎が命令した。
  冴島は黙ったまま、スラックスのポケットから携帯電話と財布、それからマンションの鍵を取り出した。所持品は本当にそれだけだった。
「両手を上げて後ろを向け」
  言われるがまま、冴島は財布や携帯を握った両手を上げて後ろを向いた。
  神崎が冴島の背中を押して、建物の薄汚れたコンクリートの壁に両手をつかせた。無言のまま後ろから冴島の身体を探って、他に何も持っていないことを確かめる。スラックスの内腿から股間までまさぐって、納得したのか「いいだろう」と言った。
  冴島は身体ごと神崎の方に向き直り、じっと神崎の顔を見た。神崎は無表情で、特に失望している様子はなかった。冴島がこんな場所で何か物騒な物を持ち歩いているとは、端から思っていなかったようだ。
  ――つまり単なる嫌がらせだ。
「免許証を見せろ」
  自分は警察手帳の提示すらしていないのにも関わらずだ。神崎の不遜な態度に内心うんざりしながら冴島は従った。下手に逆らって別件逮捕などされると面倒だったからだ。
「――冴島敬……か」
  神崎は暗い目つきで冴島の顔と、免許証の顔写真を交互に眺めてから言った。
「憶えておこう」
  神崎は免許証を冴島に返すと、そう言い捨てて夜の中に消えて行った。
  冴島は息を吐いて神崎の背中を見送った。
  ――昨日のことを調べている訳ではない。
  わかってはいたが余計な詮索をされないようにするに越したことはない。捜索願いも出ないようなチンピラのひとりが消えたところで、いちいち警察が動けるほど人手は足りていないはずだ。
  警察の犬だった点が気掛かりと言えばそうだが、手抜かりのない瀬川が、警察に付け入れられるような証拠を残しているはずがなかった。もし仮に冴島が犯人として目星をつけられたとしても、検察側に公判を戦えるような物的証拠をそろえさせることはまず不可能だろう。例え勾留されても、せいぜい不起訴処分になるのが関の山だ。
  限り無く、黒に近いグレーだった。冴島が属する瀬川の、グループの実体がそうであるように。ちゃんと登記されたまともな会社をいくつも所有しながら、裏社会の顔でもある瀬川は、グレーのままその地位を維持し続けている。
  神崎のような刑事から見れば、瀬川は企業舎弟と同列の扱いなのだろうが、瀬川はどこの組からも盃を受けたことはなく、淘汰が進んで巨大化している暴力団組織の傘下に組み込まれるつもりもないようだった。
  つまり、仁義など欠片もないような大陸から参入してきたマフィアなどで、縄張り争いが複雑化しているこの街では、得体のしれない有象無象の空隙にあって、瀬川のグループはその存在がビジネスとして成立している独自の組織なのだった。

 

 思わぬ邪魔が入ったが、冴島は気を取り直して〈シヴァ〉の扉を押した。黒い内装の小さな店内には、まだ客はまばらだった。しかし目当てのカウンター一番奥の席には、少年がひとりで座っていた。
  冴島は迷わず一番奥に座っている少年の、すぐ隣のスツールに腰を降ろした。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
  カウンター内のバーテンダーに訊ねられ、冴島は「ビール」と注文し、隣の少年に「なにか飲むか?」と訊いた。
  少年は冴島に微笑をよこして、
「じゃあ僕もビールください」
  と、物慣れた様子でオーダーした。
  Tシャツにジーンズという格好はどう見てもまだ十代だろうが、この際どうでもいいことだった。女っぽい訳ではないが、色が白くて華奢な体つきをした少年だった。明るめに色を抜いた髪は柔らかなウエーブで少し長めだ。切れ長の瞳が、暗めに落とされた照明の中で光っている。
「いただきます」
  と、カウンターに出てきたグラスを掲げて少年が言った。そのままごくごくと一気飲みしてしまう。
  冴島も自分のグラスを取って、ビールを飲んだ。
「お兄さん、ここ初めて?」
  飲み干したグラスを置いて少年が訊ねた。
「いや。以前にも来たことがある」
「じゃあシステムはわかってるよね」
  と、少年はあくまでもビジネスライクだった。一気飲みしてしまったのも時間を惜しんでのことだったのかもしれない。泊まりの客相手ならともかく、アガリの半分を店側に渡すのだとしたら、ショートの数をこなした方が稼げるからだ。
「ショートなら――、ステイなら――」
  と言いながら、少年はそれぞれ指を三本、五本とだしてみせた。
「ショートでいい。バックはできるか?」
  冴島が訊ねると少年は小首を傾げて、ちょっと考えているようだった。
「うーん。本当はプラス一だけど、お兄さんならサービスでもいいや。――Sとかの趣味はないよね?」
「いたってノーマルだ」
  そう言ってから冴島は間違いに気がついて苦笑した。男を抱いたり、男に抱かれたりというのは、全体から見ればやはり少数派だろうと。
  少年も冴島の考えたことに気づいたのかくすくすと笑って言った。
「じゃあ行こ? 僕がいつも使ってるところでいいよね」

 少年がいつも使っているところというのは、近くのビジネスホテルだった。休憩滞在の料金設定をしているところを見ると、ビジネスホテルの体裁を取っていても、この立地ではそういった目的に使われるのが大半のようだった。
  ムードも何もない、寝るだけのためにあるかのような部屋に入ると、少年はさっさと着ている物を脱いで裸になった。
「シャワーどうする?」
  と、細い裸身をさらして少年が訊ねた。
「後でいい」
  冴島が答えると少年はベッドに入って言った。
「来て」

 

「あぁっ、…んっ、あっ、あぁッ、だめっ、いっ、イっちゃう!」
  前から深く接合しながら、膝裏を抱えて腰を揺すり上げ、抜き差しを始めると少年はついに泣き声をあげた。
  前戯と、最初に身体を繋いだときでこそ、明らかに演技とわかるわざとらしい喘ぎ声を出してみせたが、いまは本気で感じているのか少年は切羽詰まった声をあげていた。汗で濡れた首筋には髪を貼りつかせ、切れ長の眼には涙さえ滲ませて身悶えている。
  冴島は少年が乱れる様子に誘われるように、強く腰を突き入れた。
「ひゃうッ!」
  と、少年が悲鳴をあげる。しかし少年の柔軟な身体は、冴島の猛った楔に熱く柔らかな粘膜を絡みつかせて、まるでもっと酷い仕打ちをねだるようにうごめくのだ。
「ゃあ、あぁッ、う…ッ…!」
  背中をのけ反らせて少年の前が弾け、白濁したものが白い腹を汚した。
  まだ臨界には達しない冴島は、ぐったりと意識を飛ばしかけている少年から一度自分を引き抜いた。少年を俯せにして尻を上げさせ、膝を少し開かせる。少年はされるがままだった。これは昨日、冴島が瀬川を受け入れさせられたときの体勢だった。
  双丘を割り開いて、濡れて口を開きかけたような窄まりに、まだ猛ったままのものを沈めた。少年が冴島の下で微かに呻きながら、冴島の刀身を飲み込んでいく。少年の背中が細かく痙攣している。
  ――昨夜のおれも、こんな風だったか……。
  ふと冴島は思った。
  ウリセンの少年は金のために、見ず知らずの冴島に抱かれているだけだったが、自分は何を求めていたのだろう。
  ――なぜおれは、瀬川に抱かれるのだろう。
  行き場のない半端者の自分を拾ってくれたからだろうか。瀬川に何か恩義を感じているのだろうか。
「あぁッ、んっ、あっ、あっ、んあッ、あぁッ!」
  冴島の激しい抜き差しに、少年はかすれた喘ぎ声をあげ続けた。その甘く苦しげな声を遠くに聞きながら、冷めた思考とは別のところで、冴島の身体は頂点へと向かう快感を追い始める。
  ――おれはただの手駒なのに。
  瀬川にとって冴島は、意のままに操れる配下に過ぎないとわかっていた。必要がなくなれば、あの柔和な表情に笑みすら浮べて誰かに命じるのだ。
  ――あの男の抹殺を、おれに命じたように……。

 シャワーを使い、身支度を整えた冴島がバスルームから出てくると、少年はまだシーツが乱れたベッドの中だった。冴島を見るとけだるげに半身を起こして、少年は微笑んだ。
「お兄さんスゴくよかった……」
  叫び過ぎて声が出ないのか、少年は甘くかすれた声でささやいた。
「――お金をもらうのが悪いくらい……」
  少年が本気で言っているのがわかって冴島は黙ったまま苦笑した。サイドテーブルにちゃんと四枚の札を置いて部屋を出ようとすると、少年の声が冴島の背中に追いすがった。
「おれ、水曜と金曜には、いつもあの店にいるからっ!」
  冴島は振り向き、唇に微笑を浮べた。
「ああ、わかった」
  そう言うと、少年はうれしそうだった。
  冴島はドアを閉め、狭い廊下を出口へと歩いて行った。もちろん、少年に会いにあの店に行くつもりは二度となかった。

 

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