夏の雨

「きみの父上が亡くなったよ」
  きわめて事務的に告げた瀬川の第一声だった。冴島は顔を上げ、無言で瀬川の柔和なままの表情を見返した。通された瀬川の私邸の奥座敷で、座卓を挟み正座をして向かい合ったところだった。
  瀬川に呼ばれたのは、伊豆で一泊二日の会合に出席した瀬川の身内の運転手兼警護していた冴島が、夜その人物を自宅に送り届けて車を回送しているときだった。携帯に着信した瀬川の声がひとこと、『これから来なさい』と言ったのだ。
「……そうですか」
  冴島は無表情に応じた。
  引き戸の向こうのぬれ縁より見渡せる庭の方から、かすかにこおろぎの鳴き声が聞こえてくる。
「いつ? ――とも訊かないのだね」
  今夜の瀬川は、半そでのポロシャツにサマーウールのスラックスというリラックスしたいでたちだった。仕事帰りの冴島はダークスーツのままだ。
「あんな奴、親だと思ったことはありません」
  冷静に答えたつもりだったが、声が少し震えたのを、瀬川は静かに見返した。
「きのうの未明、病室のベッドで亡くなっているのを巡回の看護師が気づいた。穏やかに眠っているような最期だったそうだ」
  冴島はひざの上でこぶしを握り締めた。
  冴島の父親は散々好き勝手をした挙句に肝臓を患って、行き倒れになりかけていたところを、瀬川の計らいで二年ほど長野の病院に入院して療養していたのだ。
  ――やっぱりあのときおれが殺していればよかった……。
  あの男が安らかな最期を迎えたなど、冴島には許せない気がした。
「葬儀は――」
「そんなものはいりません。あとの処理は全部おまかせします」
  瀬川のことばをさえぎって、冴島は冷たく言い放った。
「そう言うだろうと思って、勝手に手配させてもらったよ。あっちで今日の午後荼毘に付して、遺骨はうちの菩提寺に預けさせるようにしておいた」
  ――……なんだ、もう灰になってたのか。
  陶器の壷の中でからからと軽い音を立てる存在に、あの男は成り果てていたのか。
「お世話をおかけしました」
  座布団からおりて、冴島は深々と頭を下げた。ろくでなしの父親が死んだことはこれっぽちも悲しくなかったが、瀬川の計らいには非常に恩を感じていた。
「敬(たかし)くん」
  優しげに呼びかけられて顔を上げた。
「悲しいときには悲しい顔をすればいい」
「………」
「きみはたったひとりの肉親を失くしたのだ」
  言われたとおりだったが、冴島は瀬川のなぐさめのことばに違和感を覚えた。
  ――おれは捨て石なのに……。
  冴島は瀬川の動かない右目の、硝子の瞳を見つめた。
「――抱いてください」
  つぶやくように言った冴島を、瀬川の硝子の右目と、憐憫を含んだような生身の左目が見た。
「わたしが、きみの父親の代わりになれるとも思えないが」
  瀬川の声色は、珍しく自嘲を含んでいるようだった。
「…それなら、今夜は泊まっていくといい」

 

 もう擦り切れているのだと、冴島は思う。
  ――ならば何を思いわずらうことがあるだろう? 
  瀬川の手駒として何も考えず、命じられるがまま働けばいいではないか。少なくともそうすることで、冴島は自分自身の存在意義を見出せる気がした。
  しかし、そもそも自分に意味などないのだ。いったい何を求めているのか、自分の望みが何なのか、冴島自身にもわからないのだから――。
「…んっ、ん…っ、ん…」
  奥の和室に敷かれた布団の上で、枕に顔を押し付けて声を殺しながら、乖離(かいり)していく己の身体と心を冴島は傍観者のような不思議な気持で観察する。
  枕もとの灯りが暗い木目を浮かび上がらせている天井に、絡みあうふたつの影を投げかけている。
  冴島が『望んだ』ように、瀬川は冴島の身体に背後から生々しい楔を打ち込み犯していた。
  苦痛と快感が半々ぐらいに入り混じった交歓は、今夜のようにことさら瀬川が冴島を傷つけまいと意図している限り、冴島の意識の表層を生温くそいでいくだけで、朝になればその痛みもやがて夢のように霧散していく愚かしい営みだった。
「…うっ、あぁ…っ」
  それでも生身の身体の感覚は、そこに冴島が存在することが当然であるかのように全身に波及して、呼吸を乱れさせ、シーツを鷲掴ませる。
  瀬川に頂点へと導かれながら、冴島は自分が殺した男と、自分で殺し損ねた父親のことを思った。
  どこかの山中で人知れず朽ちていく男と、骨壷の中で乾いた音を立てる父親を。
「…っ!」
  弱いところを抉られて、たまらず冴島は吐精した。
  それとは別に頬をつたい落ちたしずくを、瀬川の指先がそっとぬぐった。
  ――父さん……。
  冴島はじっと目を閉じて、訳のわからない感情のうねりをやり過ごそうと努力した。

「きみが欲しがっているものは何なんだろうね」
  瀬川がつぶやくのが聞こえた。
  散々抱かれた後で、目を閉じたまま冴島は力の入らない全身を布団の上に投げ出していた。
  寄り添った瀬川の手のひらが、冴島の左肩から腕へと、若い身体を羨(うらや)むかのようになぞっていく。
「それが何かわかれば、わたしにも何かしてあげられるかもしれないよ」
「………」
  冴島は答えなかった。正確に言えば答えられなかった。もうずっと長い間、自分の望みが何か冴島にはわからなかったから。
  しかし望みがわかれば、かなえてやろうと瀬川は言う。
  ――では引き換えに、瀬川は何を要求するのだろう?
  盲目的な忠誠心か、それとも瀬川のために喜んで捨てられる命か。
  信じ込むことができるのならどんなに楽だろう、と冴島は思う。
  自分に価値がないと悟っているのなら、瀬川にすべてをゆだねてしまうのもいいではないか。少なくとも瀬川にとって『消耗品としての自分』という存在価値はある。
  それなのに消耗品としての地位を受け入れられずに足掻く自分は、滑稽なまでにぶざまだ。瀬川のために両手を血で汚してもなお、迷い続けてだれかの救いの手を待ちわびる自分は――。

 

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