夜が満ちてくる 3

 どこで意識を手放したのか、貴幸は覚えていない。貴幸が失神するまで、泣こうが叫ぼうが、加賀の陵辱が止むことがなかったのは確かだ。
 貴幸の少し前の記憶は多分バスルームで、自分と加賀の体液に汚れた身体を、加賀が洗ってくれているらしいところだった。ずきずきと疼く下肢奥の窄まりに指を入れられて、「やめてくれ」と泣きながら頼んだ気がする。おそらく貴幸の中に放った精を加賀は掻き出そうとしていたのだろうが、熱を持って嫌な異物感のあるそこをいじられるのは、本当に辛かった。
 その後の意識はこれまた曖昧で、貴幸はいつバスルームから出されたのかもわからなかった。気がつくと全裸でベッドに寝かされていた。毛布は掛けられていたが、手錠と足枷の鎖は最初と寸分違わず貴幸の両手両足を拘束している。違っているのは加賀が貴幸の傍らで添い寝をしていることだった。
 加賀は眠っていた。窓の外はどうやら夕闇で、夜の時間が始まる頃のようだった。ということは、貴幸は自分がどの位気を失っていたのかわからないが、日中の間はずっと加賀に犯され続けたことになる。そして信じられないことにその男は貴幸の傍らで安らかな寝息を立てており、閉じられた双眸に落とされた睫の影が、ときおり微かに震えるのだった。
 加賀のまるで安心しきった幸せそうな寝顔に、貴幸は呆気に取られしばし見入った。男らしい眉と今は閉じられている切れ長の瞳。すっきりとした鼻梁と形のいい唇。頬から顎にかけて削がれたシャープなライン。穏やかに寝息を立てるこの男が、男の自分を陵辱し続けたとはとても信じられない。
 少なくとも加賀は、昨日の午後までは親友のはずだった。あんなに酷いことをされたのに、貴幸は加賀を恨み切れない気がして戸惑う。犯されたのは夢や幻ではなく厳然たる事実なのに、貴幸にとって加賀は、いまだに加賀直純(かがなおすみ)のままでしかないのだ。
 こうして今傍らに添い寝されているのを見ても、嫌悪感が沸いてこないのが貴幸は自分でも不思議だった。もちろん加賀の行為を許した訳では断じてない。無理やり貫かれて流した血や、心身の苦痛を、ふたりの間でこの先なかったことにはできないと思う。
「………」
 ふと視線に気づくと、加賀が眼を開けていた。加賀はベッドから起き上がると手ぐしで髪をかき上げ、貴幸を見下ろし微笑した。
「晩飯は?」
 余りにも予想外で場違いな加賀の第一声に、貴幸は怒ることも忘れて嘆息した。
「……いらない」
「そうか」
 と言って、加賀は着ていたシャツを脱ぎ始めた。
 呆然と貴幸は、信じられない気持で加賀の引き締まった上半身が露になるのを見ていた。
 そうして加賀は、貴幸に掛けられていた毛布を剥ぐと、そのままのしかかってきた。
「…ッ! 嫌だっ、加賀っ、加賀っ!」
 必死に訴えたけれども加賀は聞く耳を持たないようだった。拘束されて抵抗のできない貴幸の顎を捕らえ強引に口づけてくる。
「んんっ……!」
 拒絶のことばは無理やり封じ込められて、また長い夜が始まる。



 加賀は『一週間だけ、おれのものになって欲しい』と言った。
 ――今日は何日目だろう……?
 昼も夜もなく加賀に陵辱され続けて、白く混濁する意識の下で貴幸は考えた。
 ――三日目、……いや、四日目だろうか。
 ハンストではないが、貴幸が食べることを拒絶していたため食事というわかりやすい区切りの目安を失って、一日の時間の感覚が曖昧になってきていた。貴幸は心身共に疲れ切って、抵抗することは既に諦めていた。食事をしない貴幸に、加賀は強引にビタミン剤やら水やらを口移しで飲ませた。貴幸が食べないので、どうやら加賀をそれに付き合って食べずにいるらしかった。
 加賀は貴幸を犯しながらも、貴幸の身体から快感を引き出そうと努力しているようだった。加賀は貴幸を一方的に陵辱しているのに、奇妙ななことに、加賀本人には貴幸を貶めるつもりは毛頭ない様子だった。
 だから貴幸は、男として耐えられないような酷い仕打ちを受けているのに、その合間に加賀が見せる気遣しげな表情や仕種に、うっかり非難のことばをなくしてしまう。

 ――やはり加賀は何も変わっていないのかもしれない。
 貴幸は自分の胸の内を探ってみた。本当に心当たりはないのかと。
 ――答えは、否――だった。
 加賀が自分に今まで自分に見せていた親しげな表情や、気を許した態度や、肩に触れられた手や、何もかもを思い起こせば、確かにサインはあったのだった。
 ただ、貴幸がそうと認めなかっただけだった。単に貴幸がそう思いたくないだけだったのかもしれない。『親友』という表現はそれだけで居心地がよく、貴幸にとって好都合だった。



 ひんやりとした月明かりの中で目を醒まして、貴幸は加賀が同じベッドにいないことに気がついた。身じろぎして貴幸は、両足の軽さを感じ、拘束が解かれていることを知った。抵抗しなくなってから既に手錠は外されていたので、貴幸はベッドから起き上がってきっちりと掛けられていた毛布をめくり自分の両足首を確かめる。
 足枷はどこにもなかった。
「加賀……?」
 なぜかふいにぞっとして貴幸は叫んだ。
「加賀っ、どこだ……、直純っ!」
 大声で呼んでみたが、辺りはしんとして自分の他に生きているものの気配がしない。
 ベッドサイドに貴幸の服が置いてあった。下着から一式そろえて。
 嫌な予感がした。
 あのとき加賀は『一週間だけ、おれのものになって欲しい』と貴幸に告げて、その後なんて言っただろうか。
『そうしたら、もうおれは、二度と貴幸の前に現れないから……』
 ――二度と、……現れない?
 ざっと頭の血が引いた。鼓動が不規則に波打ち出す。なぜ今まで気づかなかったのだろう。
 ――加賀は、直純は、死ぬつもりだ……!
「そんな馬鹿な」と、貴幸は我知らず呟いた。
 自分にした仕打ちの責任を取って死ぬというのか。最初からそのつもりだったのか? だから許せと言うのか!?
 ――そんなの認めない! 絶対に許さないぞ、直純!



 濡れた落葉や小枝を踏みしだいて、喘ぎながらもつれるような足を必死に動かして山道を上る。貴幸の頭上にはこの数日で大きくなった月が煌々と輝いていて、無慈悲に行き先のわからない道を照らし出す。吐く息が白い。
 ――直純……!
 心の中でその名を叫んで、貴幸は唇を噛みしめた。
 ――絶対に許さない。……こんなの認めない!
 焦燥と絶望で、冷たい汗がセーターの下を伝っていく。
 ――どこにいる、直純!? 
 確信があった訳ではない。しかし貴幸にはわかった。加賀は山へ分け入ったのだろうと。人目を避けて死に場所を求める、傷ついた獣のように。
 登りだった細い山道が下りへと変わって、しばらく行くと水音が聞こえて来た。渓流でもあるのかと貴幸は音のする方へ歩いて行くと、近づくにつれそれが滝の音であることがわかった。熊笹を分けて細い道を下りると、貴幸の目の前に河原が開けた。広い緩やかな浅瀬になっていて、澄んだ水が月の光に輝いている。
 流れの源は河原のなだらかな上流の、十五メートル程の落差のある滝だった。滝は月の光を弾いて激しい水音を立てながら、暗い水をたたえた淵へと落ち込んでいるのだった。夜目に慣れた貴幸には、月明かりが眩しい程だ。
 と、貴幸の視界の数十メートル先に、何か動くものが映った。見間違えるはずもない。直純の後ろ姿だった。

 直純はもう腰の辺りまで水に浸かっていた。
 何かに魅入られたかのように、ゆっくりと淵の中ほどへと歩いて行く。
「直純―――ッ!」
 思わず貴幸が叫ぶと、人影がびくりとその場に止まった。
「直純ッ!」
 名前を呼びながら貴幸は、淵に向かって浅瀬をばしゃばしゃと水を蹴散らして走った。
 貴幸だとわかったはずなのに、直純は振り返らずそのまま水の中へと入って行く。
「待て直純ッ!」
 足場の悪い河原と浅瀬を数十メートルもダッシュして、心臓が口から飛び出しそうになりながら、貴幸は振り返らない直純を追って暗い水をたたえた淵へと飛び込んだ。水は息を飲むほど冷たかった。滝の飛沫が頭上から降り掛かる。
「直純!」
 滝の音にかき消されながらもう一度叫んで、 貴幸はざぶざぶと水をかき分け背後から直純にタックルした。
「っ!」
 無言で抵抗する加賀を力ずくで引き戻そうとして貴幸は足がもつれ、ふたり揃って水の中に転倒した。まだ溺れる深さではなかったが、パニック寸前で貴幸は加賀の腕を掴んで引きずり起こし、必死に浅瀬の方へと歩いた。河原にたどり着くと荒い息で、ふたりしてその場にへたり込んだ。
「――……な、何やってるんだよッ!?」
 やっとの思いで貴幸がことばを絞り出すと、すぐ隣で加賀がゴホゴホとむせた。転んだときに水を飲んだらしい。
 ――死ぬつもりだったんだから、水を少し飲んだくらいどうってことない!
 腹立ち紛れに、貴幸は苦しそうにむせている加賀のシャツの襟首を掴んだ。
「どういうつもりだって、訊いてるんだ!」
 ようやく息をついて、加賀は貴幸の顔を見た。
「……おれ、貴幸に酷いことしたから」
 奇妙に落ち着いた声で加賀は言った。
「…っ、――今頃なに言ってんだよ! こんなの全部おまえの計画通りだろうっ?」
 貴幸に襟首を掴まれたままがくがくと揺すられて、加賀は泣きそうな表情を浮べた。
「一方的におれを抱いて、もうおまえは満足なのか? それで『さようなら』かッ!?」
「………」
 貴幸が詰め寄っても加賀は黙っていた。
「それで、何もなかったことにできるって言うのか……!? そんなの、おれは認めないからな、絶対に……!」
「――認めてくれなくていい」
 そう言った加賀に、今度こそ怒り心頭で、貴幸は空いている方の手で殴りつけてしまった。
 がつっと音がして、加賀は顔を背け表情を歪めた。
 ――利き手でなくてよかった。
 貴幸は思った。右手だったら、もっと酷く殴ってしまっていたかもしれない。
 肩で息をつきながら、貴幸は加賀に言い聞かせるように訊ねた。
「じゃあ、『おれの気持はどうなる』んだ?」
 切れた唇の端から血を滲ませて、驚いたように加賀は貴幸の顔を見返した。



 ふたりともガチガチと歯の根も合わないくらいの寒さに震えて、濡れた落ち葉に何度も足を取られながら、無言で山道を下って別荘に戻った。加賀はずっと肩を震わせながら声を殺して泣いていた。月明かりに照らされた横顔を盗み見ると、加賀の端整な容貌は涙と鼻水で散々だった。自分よりずっと大人だと思っていたのは貴幸の勘違いだったのだろうか。小さな子供のように泣きじゃくる加賀を見て、腹立たしいやら情けないやらで、こちらまで泣きたくなってくる。しかし貴幸は、一度掴んだ腕を突き放すことができなかった。引っ立てるように加賀の腕を掴んで、貴幸はひたすら黙って足を動かした。

 別荘にたどり着き、貴幸はびしょびしょになった服を脱ぎ捨て、加賀の服を全部剥ぎ取り、熱いシャワーの下へと引きずった。まるで小さな子供のような加賀は、貴幸になされるがままで、貴幸は放心状態の加賀の濡れた全身を、バスタオルで拭ってやらなければならなかった。

 やっと体温が戻ると、貴幸は加賀の手を引いてキッチンに行き、冷蔵庫やフリーザーに保存してあった大量の食べ物をレンジで温めテーブルに並べた。
「ほら、食えよ直純」
 ダイニングテーブルの椅子に座り込んだ加賀にスプーン握らせると、ようやく加賀は目の前のスープ皿へと注意を向けた。
 加賀がのろのろと食事を始めたのを確認して、貴幸は自分も食べ始めた。計算してみると実に三日振りの食事だった。スープを一口飲んで、どれ程自分が空腹だったのかに気がついた。加賀も同じだったようで、食べ始めたらふたりとも酷く飢えた動物のように、がつがつと一心不乱に食事に熱中したのだった。

「……ごめん」
 人心地ついたら、やっと加賀が貴幸の顔を正面から見て言った。
 途切れそうに小さな声だった。
 じろりと、貴幸は加賀の憔悴し切った顔を見返した。
「――『ごめん』で済むもんか」
 呟くように貴幸が言うと、加賀はうつむいてしまった。
 本当は貴幸にもわかっているのだった。『ごめん』ということばのは代わりに、加賀には言いたい、言うべき、もっと別のことばのあることが。しかし男どうしでそんなこと、簡単に言えるはずがないことも貴幸にはわかっていた。
 わかっていながら知らない振りをする自分は卑怯だと貴幸は思う。それでも貴幸が自分からそれを言わないのは、加賀の貴幸に対する今回の仕打ちの、ささやかな意趣返しなのかもしれない。
 これでおあいこだ、と貴幸は思う。
「絶対に許さないからな。―― 一生、付きまとってやるから……」
 貴幸が宣言すると、加賀は顔を上げた。その呆然としたような端正な面に、驚きの表情がゆっくりと拡がっていった。



 ベッドに押し倒したら、加賀は弱々しく抵抗した。手首を掴んで押さえつけて、貴幸は加賀の唇を奪った。もしもっと抵抗されていたら、貴幸は迷わず加賀を手錠で拘束しただろう。貴幸は強引に舌を差し入れ、加賀の驚いて逃げようとする舌を絡め取る。
「んっ、ふっ……!」
 加賀は苦しそうに息を喘がせたが、貴幸は許さなかった。更に激しく貪るように加賀の口の中を舐め尽くす。唾液が唇の端から流れ出しても貴幸はやめなかった。加賀の力が抜け落ちるまで、貴幸は加賀の口中を蹂躙した。
 さっきシャワーの後、加賀に着せてやったシャツを、貴幸はまた自分で脱がせた。唇で胸をなぶりながら、器用に加賀のベルトに手を掛けて、貴幸は加賀のスラックスを下着ごと剥ぎ取った。
 加賀が身を捩ったが、貴幸は脅かすように加賀のまだ柔らかな器官を握り込んで動きを封じた。
「う…」
 加賀は小さく呻いて、また泣き出しそうな気配だった。構わず加賀の物を口に含んで、貴幸は加賀を追い上げ始めた。もちろんこんなことするのは初めてだったが、加賀にされたときのことを思い出して懸命に舌を使うと、やがて加賀の物は熱くなり芯を持ち始めた。
「貴幸……ッ」
 焦ったような掠れた声で加賀が名を呼んだ。
「黙ってろ、直純」
 貴幸は穏やかな声で、だがぴしゃりと加賀を黙らせた。
 もう理屈や弁解は不要だった。『どうして』とか『なぜ』とか、簡単に説明できるようなことならそもそも疑問など起こらない。『納得できるように説明できない』と言った加賀はその点間違ってはいなかった。

 挿入に充分な硬度を持ち始めたのを確認すると、貴幸は下だけ脱いで仰向けの加賀に跨がった。後ろ手に加賀の屹立を探りながら腰を落としていく。連日の情交でかなり慣らされてきたとはいえ、経験の浅い貴幸のそこは加賀の侵入をいまだに拒んでいた。痛みに唇を噛みしめながら、構わず貴幸は腰を下ろして加賀の昂りを全部飲み込んだ。また出血したのか、腰を揺らすと中が滑ってくるのがわかる。
「……ぅ…」
 加賀が貴幸の下でまた、小さく呻き声を洩らした。
 貴幸は加賀のすべての熱を搾り取るように、貪欲に腰を擦りつけた。
「はっ、…あっ、……」
 自分で感じるところを探って、貴幸は痛みの向こうの快感を追い始める。加賀も感じているのか、喘ぎながら腰を動かし始めた。ふたり分の乱れた呼吸が不協和音のように洩れ出した。

 あと二日経ったらおれたちはどうするのだろう、と霞み始めた意識の中で貴幸は思った。
 ――『親友』に戻ることできるのか? それとも……。
 しかし貴幸の憂いは寄せてくる快感の波に一瞬で押し流され、砕けた理性の断片を飲み込み、溶け始めた曖昧な意識を浸潤していく。
 すれ違うふたりの心の空隙をゆっくりと均一に浸しながら、夜が満ちてくる。

END