眼を開けると、同じベッドの中でドクター・フォックスのブルーグレイの瞳が、じっと僕を見下ろしていた。
「…ああ、ドクター、すみません。また僕、気を失ってしまったんですね」
感じ過ぎて失神するなんて、自分がとんでもない淫乱になったような気がして、僕はドクターの眼から逃れるように視線を泳がせた。
するとドクター・フォックスは目元をふっと緩めて笑った。
「謝ることなんてないよ。きみがわたしの腕の中で甘い声を上げるのを見られるのはうれしいことだ」
僕が赤面するようなことを平気で言って、ドクター・フォックスは僕の唇に軽く口づけた。
「シャワーを使って、それから夕食にしようか?」
言われて初めて、僕は酷く空腹なことに気がついた。僕がドクターの帰りを待ちわびて彼が夕方帰宅するなりベッドに誘ってしまったからだ。
「あ」
急に声を上げたので、ドクターが眼をばちくりして僕に訊ねた。
「どうした?」
僕はすっかり忘れていた夕食のチキンキャセロールのことを思い出したのだった。ドクターが帰って来る頃合を見計らって出来上がるように、オーブンのタイマーをセットしておいたから、今頃はきっとタイマーの切れたオーブンの中で冷め切っているはずだ。
「キャセロール、忘れてた……」
何ごとかと思って僕の顔を見返していたドクター・フォックスが、ぷッと吹き出した。
「――また温め直せばいい」
そう言ってベッドから這い出して、ドクターは僕の手を引いた。
「さあ来なさい。身体をきれいに洗ってあげよう」
ドクター・フォックスは僕を抱いた後はいつも、一緒にバスルームに入って身体をすみずみまできれいに洗ってくれる。文字どおり余すところなくすみずみまでだ。
「あ、そんなところ……!」
自分で洗えますと、身を捩った僕が赤面して言っても、ドクターはいつも決して許してはくれなかった。
「あっ…」
ドクター・フォックスの物を受け入れて、まだ淫微な熱と疼きの残っているようなそこに、今度は指を差し込まれて僕は思わず涙ぐんだ。
「だいじょうぶ、痛くしないよ」
優しくささやきながら、ドクターの指が僕の柔らかな粘膜を撫でるようにして、情交の名残りを丁寧にかき出していく。研究者が対象物を観察するかのような熱心さに、僕はいつも奇妙な既視感を覚える。
試験管の中の、どんな微細な変化も見逃さないように、じっと見つめているブルーグレイの双眸。
「…あの、ドクター」
温め直したチキンキャセロールの皿を突きながら、僕はおずおずと切り出した。
「訊いてもいいですか?」
ドクター・フォックスは赤ワインのグラスから唇を離して言った。
「なんだい?」
「――ドクターは、僕のどんなところを気に入ってくれているのでしょうか」
それは僕がずっと考えていたことだった。半年前にドクターと知り合ったときは、僕はカフェテリアで働いていて、特別きれいで目立った容姿をしていたわけでもなく。なぜドクター・フォックスが僕を見初めて『グラスハウス』に連れ帰ったか、その理由というか、必然性というのがわからなかった。
毎日この『グラスハウス』で大切にされ、ベッドの中で慈しまれて、僕は自分にそれ程の価値があると無条件に信じ込める程、子供ではなかったのだ。
僕の唐突な質問に、ドクター・フォックスは知的な感じのする目元をわずかに眇めて僕を見返した。
「――わたしはね、きみに恋しているんだ」
やがて形のいい唇がにっこりと、そう告げた。
「理屈ではないだろう……?」
逆に訊ねられて僕はなんだかどぎまぎした。僕よりずっと大人で、しかも大学で教えているようなドクター・フォックスにそう言われたら、とても僕には否定できるようなことはない。
「……はい」
と、返事をしたものの、僕の納得し切れていない雰囲気を察してかドクターが言った。
「それにわたしは、きみが『ツカサ』だから愛しているんだよ」
じっとブルーグレイの瞳で見つめられて、僕はなぜだか落ち着かない気分になった。冬の海の色と同じ、大好きなドクター・フォックスのブルーグレイの瞳なのに。ドクターの眼は夕食のテーブル越しに僕を見ているのだけれども、本当は僕を見ていないような気がしたのだ。
でもきっとまた、そんなの僕の妄想だ。寝室の遥か上空から、僕がドクターに抱かれているのを見つめる視線を感じるのと同じ。誰も僕がドクターに抱かれて乱れるところを見ているはずないし、目の前のドクター・フォックスが見ている相手は、僕しかいないのだから。
ドクターの『ツカサ』だから愛している、ということばは、僕の心の片隅にずっと留まっていた。ドクター・フォックスは僕のアイデンティティーの話をしているのだろうか。 僕が僕であること、僕という人間がこの世界にひとりであるということに、もしその価値を見い出してくれているのなら、こんな幸せなことはないと思う。
僕は『グラスハウス』の海の上に浮かんだようなリビングルームにいて、掃除をしながらそんなことを考えていた。朝から冷たい小雨が降っていて、視界は空のグレイと海のブルーグレイの二色だ。ドクター・フォックスは大学に出掛けていていて夜まで戻らない予定だった。
また海を見て放心していた僕は、はっとして我に返った。そうだ、今日はぼんやりしている暇はないのだった。先週から計画していたことを、僕は今日片付けなければならなかった。それは島のメインストリートにある小さなギフトショップで、ドクター・フォックスの誕生日プレゼントを買うことだった。
散歩の途中でちょっとお茶をしたり、何か雑誌を買ったりとかいうようなときのために、普段からドクターは僕にキャッシュでいくらかの小遣いをくれていた。と言ってもそんなに出歩かない僕がそのお金を使う機会は滅多になく、この半年の間に結構な額になっていたのだ。
食費や生活に必要な経費は、ドクターがまとめてカードで払っていたから、生活にお金が掛かると言う概念すら、何だか遠い昔のことのように僕には感じられる。いかに僕がドクター・フォックスの庇護下で、彼に頼り切って暮らしているかを証明しているかのようだ。
そんな訳で、もとより出所は同じお金ではあったけれど、僕は自分の小遣いをためたお金でドクター・フォックスの誕生日プレゼントを買いに外出したのだった。
何を買うのかはもう決めてあった。先週こっそりと下見に出掛けた僕は、そのギフトショップの店内にあるショーケースに飾られていたのを見て、ひと目で気に入ってしまったのだ。
それは古風な筆記具、――万年筆だった。今の時代、万年筆を筆記具として使うひとがそんなに大勢いるとは思えなかったけれど、道具としてよりも、その美しさに僕は魅了されてしまっていた。
「きれいでしょう?」
あまりに僕が熱心に見つめていたのだろう。豊かな金髪をきれいにアップにした中年の女性経営者が近づいてきて僕に声を掛けた。
「ひとつひとつ、職人さんの手作りなんですよ」
七宝という工芸品なのだと、店主は教えてくれた。繊細な銀の糸で模様をかたどって、その隙間にガラスを流し込んであるらしい。
僕はもうすっかり買う気になっていたけれど、付いている高価な値段を考えれば、とても僕のような若造が買うような代物ではないと彼女は思っていたのだろう。丁寧な説明を聞いた僕が『また来ます』と言ったら、彼女はにっこりと微笑んだだけだった。
どきどきしながら開店したばかりの店内に入ると、店主は「あら、いらっしゃい」と、僕を見てにっこりした。
「先週見せていただいた万年筆が欲しいのですが」
僕が言うと、彼女は口に手を当てて、
「まあ、どうしましょう!」
と言った。それから酷く申し訳なさそうに、
「あれは、二、三日前に売れてしまいましたのよ」
と、付け加えた。
「そんな……」
もっと早く僕が準備しておくべきだったのだ。下見に来た先週のうちに買っておいてもよかったのに。
「どうしてもあれが欲しいんです。大切なひとへのプレゼントで……」
「あの万年筆は手作りで、もともと数が少なくて――」
ひとの良さそうな店主も、途方に暮れているようだったが、
「あ、そうだわ!」
と、突然彼女は手を打った。
「ダウンタウンの本店に、もう一本あったかもしれない」
「本当ですか!?」
すぐに彼女は、陸側にあるネオ・ホンコン市のダウンタウンのお店に電話をして、在庫の確認してくれた。やはり同じ物が一本だけあるという。
「一週間ぐらいでお取り寄せができますよ」
ほっとしたように告げた彼女に、僕は焦って言った。
「それじゃあ間に合いません」
「え?」
「実は、明日がその誕生日なんです」
フェリーで渡って三十分のネオ・ホンコン市まで、そのとき僕は出掛ける決意をしていた。ちょうど昼前の定期便が出る時間だった。
それに乗って、ダウンタウンのお店で買い物をし、急いで戻って来ればドクターの帰宅時間までに『グラスハウス』へ帰り着けるはずだった。
お店まで直接取りに行くことを伝えてもらうよう伝言して、小雨の中、僕はフェリー乗り場へと走った。『グラスハウス』で暮らすようになってから島を出るのは、それが初めてだと、そのときようやく僕は気がついた。
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