僕を乗せたフェリーは、ダウンタウンに程近い桟橋に横付けになった。雨は既に上がっていて、濡れた桟橋で足を滑らさないよう気を着けて陸側に降り立ってみると、半年振りに訪れたネオ・ホンコンの街はずいぶん様子が変わっていた。お陰で僕はダウンタウンにたどり着くまでに、どのバスに乗ったらいいのかもわからず、あちこちで道を訊ねるはめになった。ネオ・ホンコン市は僕が生まれ育った街なのに、半年振りの僕は、まるで異邦人のようだ。
教えられたバスに乗って、ダウンタウンに到着すると、僕はまっ先に目当てのお店に直行した。お店の地図はもらってあったので、ここでは迷うことがなかった。あの親切な女性店主がちゃんと連絡しておいてくれたようで、僕が若い男性店員に島から来たことを告げると、彼はすぐに店の奥からあの万年筆と同じ物を出してきてくれた。
「ギフト用にラッピングしますか?」
愛想よく訊ねられて、僕は「お願いします」と答えた。
彼は僕のリクエストに合わせて、ドクター・フォックスの雰囲気にぴったりなシルバーの大人っぽい包装紙で、ケースに納めた万年筆をきれいにラッピングしてくれた。
ラッピングされたプレゼントを手に、僕はものすごく満足してお店を出た。島のあのお店で「売れてしまった」と言われたときはどうなることかと思ったけれど、自分でも拍子抜けするくらい上手くいった。
時刻はまだ昼を過ぎたばかりで、この分なら余裕で夕方までに『グラスハウス』へ帰り着ける。久しぶりだから、僕は少し街をぶらぶらしてみようかという気になった。
ハロウィーンが近いせいで、ダウンタウン全体のデコレーションはオレンジ色も鮮やかなお化けカボチャ(ジャック・オーラタン)でいっぱいだった。僕は小さな子供に戻ったみたいにわくわくしながら、ショーウインドウを見て歩いた。僕の記憶違いなのか、それとも店が変わってしまっていたのか、行く先々が僕の知らない店だらけで、半年振りのダウンタウンは初めて来た街みたいに新鮮だった。
ちょうどそのとき、ショーウインドウ越しに、通りを『大学行き』の表示のバスが行くのが見えた。ドクター・フォックスがいつも乗っているバスに違いなかった。バスはウインカーを出してゆっくりと、すぐ先のバスストップに停まるところだった。僕は思わず駆け出していて、気がつくとその『大学行き』のバスに乗っていた。
本当はずっと、僕はドクター・フォックスのいる大学に行ってみたかったのだ。大好きなドクターがどんな顔をして講議をしているのかとか、どんな部屋で研究をしているのかとか、一度でいいから見てみたいと思っていたのだった。できることなら、僕はドクター・フォックスのいる大学の学生になりたかった。
そのバスの終点が、大学キャンパスだった。バスを降りた僕はあまりの広さに驚いてしまた。大学の近くのカフェテリアで働いていたのにも関わらず、僕はこれまでに大学のキャンパスに足を踏み入れたことがなかったのだ。 海沿いの広大な敷地には大学の立派な建物が散在していて、地図も持たずに下手に歩くと迷子になりそうだ。何よりもキャンパス全体の広さは徒歩で移動するには広過ぎて、せめて自転車でもないと日が暮れてしまいそうに思えた。
ドクター・フォックスの研究室はどこにあるのだろうと、僕は大学キャンパスの大きな案内図をじっくり眺めた。大学内の建物は学部ごとにかたまっているようで、ドクター・フォックスの生物学系の建物は、どうやらキャンパスの南西の端に位置しているらしかった。
近くの学部事務所にでも寄って、内線でドクター・フォックスを呼び出してもらったら簡単だったけれど、ドクターには内緒でこっそりと様子を見たかった僕はそうしなかった。それにドクターは、僕が大学に来るのを好まなかったので、そんなことをしてドクターの機嫌を損ねたくはなかったのだ。
案内図に従って歩くと、すぐに僕は生物学系棟を見つけることができた。研究室が入っているらしい建物はまだ新しくて、いかにも最新設備を備えていそうな雰囲気だった。しかし建物の入口は特にセキュリティーコントロールもなく、僕の前でガラスの自動ドアが両側に滑るように開いた。新しい建物の中は白くてきれいで、ぴかぴかに磨かれた長い廊下を天井の無影照明が明るく照らしている。廊下を挟んで個人の研究室らしいネームプレートのついたドアが並んでいた。
しかし辺りはしんとしていてひと気がなかった。講義中でみんな出払っているのだろうか。部外者の僕がこんなところをうろうろしていたら、誰かに見咎められるかもしれないと思い始めたとき、僕の背後でふいにドアのひとつが開く気配がした。
「誰かを捜しているのか?」
その声にどきりとして振り向き、一瞬で僕はことばをなくした。そこに立っていたのは『白衣姿の僕』だった。
違う。もっと正確に言おう。僕にそっくりのその男性は、よく見ると僕よりはかなり年上に見えた。たぶんドクター・フォックスより少し若いくらいで、三十歳前後だろう。でも僕がそんな風に冷静に判断していたというのは、本当は正しくない。
僕はあまりにも驚いてしまって、なんだか突然現実から遊離したような気分になってしまっていたのだ。そう、寝ているときに夢を見ていて『ああ、これは夢を見てるんだな』と気づいたときの感覚に似ている。
「――きみは、……誰だ?」
僕にそっくりなその男性は、ようやくかすれた声を出した。声まで同じだ。彼の方も酷く驚いていることは見ればわかった。まじまじと穴が開くほど僕の顔を見つめていた切れ長の双眸が、やがて何かを発見したかのように見開かれた。
「ちょっと来なさい…!」
言うなり僕の腕を掴んで、彼はドアの中に有無を言わさず僕を引き込んだ。
その部屋はデスクやコンピュータ、キャビネットなどが備え付けられていて、やはり個人の研究室のようだった。身長も、華奢に見える体格も僕とまるっきり変わらないのに、思いがけず強い力で、僕は彼に引きずられるようにして部屋の中央まで連れて来られた。
そして握っていた腕をようやく放すと、彼は今度は僕の顎を掴んで、よく見ようとするかのように顔を近づけた。
「まさか……」
思わず顔を背けた僕を見て、彼が喘ぐように言った。
「まさか、そんなはずが――」
呻くように呟いて、彼はすぐ脇にあったソファにどさりと腰を下ろし頭を抱えた。かなり混乱しているようだった。
「………」
僕はその場に立ち尽くしたままだった。一体何が起こっているのか、どうしたらいいのか、僕にはまったくわからなかったからだ。
なぜこのひとは僕と同じ顔をしているのか、そして何が『まさか』なのか。
「――きみはどこから来たんだ。ここで何をしていた?」
やがて顔を上げた彼が今度は落ちついた声になって訊ねた。さっきまでのパニックを科学者らしい冷静さで押しとどめて、僕を観察することに彼は神経を集中させているようだ。奇妙に冴えた瞳にじっと見つめられて、――しかも僕と同じ顔だ――僕は唇を震わせた。
「答えなさい」
静かに、しかし強く命じられて、僕は竦んでしまった。
「ぼ、僕は…島から来て……、ドクターを捜して……」
「ドクター? ドクター・誰だ?」
「ドクター…、フォックス」
その名を聞いて途端、彼の表情が一変した。やっぱり僕はドクター・フォックスの名前を口にしてはいけなかったのだろうか。
「ドクター・フォックスはわたしの同僚だ」
ひび割れた声で彼は言った。
「わたしはドクター・橘(たちばな)だ。きみの話を聞きたいから、そこに座りなさい」
ドクター・タチバナはそう言って、僕に彼の向い側のソファを指し示した。
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