■ 憂うつなクラゲ 1 ■

「――このように、客室稼働率が好調なわりに平均客室単価が下がってきているため、リバパーの数値は現四半期まで低下の一途をたどっているという状況です」
  パソコンとつないだ小型の液晶プロジェクターから投影された、詳細な数字を表すグラフが次々と正面のスクリーンに映し出されながら説明は続く。
  よく透る声だ。低めなのに凛とした張りがあって、思わず意識を引きつけられるような説得力のある響きだった。自分に確固たる自信のある者にしか出せない種類の声だろうかと、智広(ちひろ)はふと思う。
  彼がしゃべっている業績内容はしかし、決して会社にとって好ましい状況ではなく、ホテル経営者一族のひとりとして、本当は智広が声に聞き惚れている場合ではなかったのだが。
  国内9都市に展開するホテルチェーン「エクシオール・シティイン」は、付随するスポーツクラブも含め、智広の父親の持ち物だった。
  智広は声の主、自分のすぐ斜め横の席でプレゼンをしている北条惟秋(ただあき)の様子を、本人に気取られないよう、そっとうかがった。
  きっちりと締められたネクタイの結び目ひとつとっても、ホテル経営を生業とするものにふさわしい完璧な身だしなみはいうまでもない。お客さま相手の場合と違って、社内会議で惟秋が見せる怜悧な表情は、もともと端整な容貌のためか冷たく見えないでもなかったが、それはそれで青年実業家と呼ぶにふさわしい堂々としたものだった。
  二十七歳。年配者から見れば、若輩者のそしりを受けかねない年齢だったが、智広の目からすれば惟秋は十分に大人の男の魅力を備えていた。
  惟秋の百八十センチを超える恵まれた体格に、男らしく整った顔立ち。智広から見る惟秋は、ことごとく自分とは正反対だと感じる。
  おっとりとした母親そっくりで、いい歳してかわいいだの、線が細いだのと言われてしまう自分には、どうあがいても望めないものだ。同じ血筋のはずなのに、惟秋は智広が望んで手に入らなかったものをすべて持っているように思える。
  四歳年上の惟秋は、智広の従兄にあたる人物だった。

 定例の戦略会議は、企画および管理部門を統括する戦略企画室の主催で、本部のある東京で隔月に開催される。
  智広たちがいるこの社内会議室には、各チェーンホテルの支配人と上位責任者、本部ホテルの各部署責任者、戦略企画室室長の智広、その補佐役である戦略企画室主任の惟秋を含めると、総勢三十名ほどが詰め込まれていた。
  智広が物思いにふけっている間に惟秋の説明が終わると、順番に各支店、部署ごとの代表者報告が始まった。会議に出席している責任者の中にはちらほらと女性スタッフの姿も見える。
  会議の進行もぜんぶ惟秋まかせの智広は、とりあえず戦略会議に出席すること自体に意義があるという言い訳を内面に、真剣な表情の体裁を外面にとりつくろって、会議の席に一言も口をさしはさむことなく手元の資料を見る振りをして座っていたが、ふと視線を感じて顔を上げると、こちらを見ている惟秋の冴えた双眸とぶつかった。
「…っ」
  放心していたのを見破られただろうか。
  惟秋の瞳に責めるような色を読み取って、智広は一瞬どきりとする。
  しかし惟秋の視線は、直後にすっと発表を続ける報告者の方へと移動して、智広は小さく息を吐いた。
  大学を卒業後この業界に経営者として身を投じてからまだほんの三ヶ月、素人同然の智広には、戦略企画室室長とは名ばかりだ。惟秋なしではいまだ右も左もわからないのが現状の智広にとって、戦略会議の席はまるで我慢比べのようで、いたたまれない居心地の悪さにさいなまれるのが常だった。
  やはり無理だと思う。この三ヶ月、ずっと智広が持ち続けてきた思いだった。
  自分に社長代行なんて務まるはずがない。
  同族会社のこと、入社して間もなく智広に与えられた肩書きは戦略企画室・室長で、智広のためにわざわさ部署が新設されたのは誰の目にも明らかだった。
  長男の息子というだけで智広が次期社長だなんて、いくら同族会社だとはいえ周囲が納得しないだろう、と智広は思う。それよりも、自分と比べて遥かに実務能力のある惟秋の方が、よっぽど社長に向いている――。
  しかし智広の父親と惟秋の理屈からすると、それは認められないことなのだった。

 大学卒業後、アメリカの大学院に留学してホテル経営を学んだ惟秋は、これまでの日本式のホテル経営に、外資系のような合理的手法を取り入れようとしているらしかった。
  総支配人である社長をトップに、合議制を基本とするのが伝統的である日本式のホテル経営は、会社がひとまとまりになる求心力に長ける一方で、現場の生の声が反映されにくいという欠点がある。惟秋は現場にこれまでよりかなり多くの権限と責任を持たせ、実力のあるスタッフは、そのままホテル運営を左右する戦略会議に連れてくるという思い切った方式を取り入れた。
  いま会議の席上で報告しているのは、バンケットから呼ばれた二十代の女性スタッフだった。若い女性向けの新しいランチビュッフェのプランを企画して、平日でもランチタイムにOLたちが詰めかける人気となった。現場をよく知っている若い女性ならではの感性で選んだメニューや演出が、新たな顧客を開発した良い例だった。
  いきいきとプレゼンをこなす同世代の女性スタッフを見ていたら、智広はなんだか情けない気持になってくる。
  実力も器も、智広より惟秋の方が社長に適任であることは惟秋自身もよくわかっているのではないか。そうとわかっていながら自らは智広の補佐役の部下として、冷静な表情に感情を押し隠して戦略企画室の主任という地位に甘んじている惟秋の胸中を思うと、ひやりとした汗が背中に浮かぶ気がする。
  疎まれているのではないだろうか。お荷物だと、思われているのではないか? 

「智広さん」
  朝一番から昼まで続いた戦略会議が終わり、ばらばらと会議室から退出するスタッフたちに紛れて席を立ったとき、智広は惟秋に呼びとめられた。
  残っていたスタッフが「お疲れさまでした」と部屋を出て行ってしまうのを待って、近づいてきた惟秋が言った。
「ぜんぜん会議に集中していらっしゃいませんでしたね」
  惟秋は他の社員の手前、従兄弟どうしなのに肩書き上は上司にあたる智広には敬語を使う。それは周りに誰もいないときでも変わらない。
「…そんなことないよ」
「うちの厳しい経営状態はあなたもよくおわかりのはずです」
  また惟秋の小言が始まった。そんなことは言われるまでもなく、智広も認識しているつもりだった。
  一代で会社を築き上げ、バブル期に会社グループを大きくして成り上がった智広の父親のやり方では、もう時代のニーズに合わなくなってきている。中堅のホテルチェーンとして名のある「エクシオール・シティイン」も、近年続々と日本で開業をはじめた外資系有名ホテルとの競争にはまるで歯が立たず、ラグジュアリーとエコノミーに大きく二分化されつつあるホテル業界の中にあって、かなり中途半端な立ち位置を強いられているのだった。
「社長があんなことになられているときだからこそ、智広さんにはもっとしっかりしていただかないと、エクシオール・シティインの未来はありません」
「惟秋がやればいいんだ」
「次期社長は智広さんです」
  即座に冷静な声のまま返答があった。
  智広は黙って惟秋の顔を見上げた。惟秋の澄んだ双眸にじっと見詰め返されて、思わず智広は自分から視線を外すと会議室の出口へと向かった。
「どこへ行かれるのですか?」
「親父のとこ」
「わたしもお供します」
「いい。ちょっと独りになりたいから」
  無愛想に答えると、智広の背後で惟秋の微かなため息がもれた。

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