外に出ると智広の気持とは裏腹な梅雨の晴れ間で、明るい初夏の日差しと街路樹の緑が眩しかった。地下鉄の駅に向かう道すがら、智広は目についたカフェでサンドイッチの簡単な昼食をとると、意識的に気持を切り替えて目的地へと向かった。
智広が地下鉄を降りたのは、都心の中でも大学の建物と付属の大学病院が集まった区域だった。智広は学生たちの群れの中に混じって歩き、林立している大学病院のひとつに入っていった。
通いなれた入院病棟の廊下をたどって、個室のドアの前に立つ。智広は息を吸うと静かにドアをノックする。
「はい」と、中から智広の母親、恭子の声がした。
「あら、智広」
スライドドアを開いた来客が息子の智広だとわかって、恭子は色白の顔をほころばせた。淡い花柄のツーピースがほっそりとした恭子によく似合っている。生活臭を感じさせない垢抜けた装いは、五十の大台にのったばかりの年齢をまったく感じさせなかった。
「お父さん、いま眠っているの。午前のリハビリで疲れてたのかしら」
おっとりとつぶやくように言って、恭子は智広に自分が座っていた椅子をすすめた。
「でも、かなり歩けるようになったのよ」
と、恭子はうれしそうに言った。
実際、一度失った機能は完全に元の状態に戻ることはない。しかし残った機能を発達――たとえばバランス感覚とか――させることで、失った部分を補完できるようにするのがリハビリの目的だった。
「ちょうどよかったわ。わたし下のコンビニで買いたいものがあるから、智広ちょっとお父さんを看ていて」
「おれが行こうか?」
「いいわ、男の子にはわからないものだから」
ふふっと笑って恭子は出て行った。
智広はベッド脇に歩いていくと、眠る父親――泰一(やすかず)の様子を起こさないようにそっと見やった。入院して半年。いわゆるワンマン社長として精力的に働いていた頃と比べると、点滴の管が繋がれた身体はひとまわり小さくなってしまったように見える。
白髪が増えたなと、智広は思った。それとも入院してから染めていないせいで、そう見えるだけだろうか。
泰一が脳梗塞で倒れたのは、智広が大学四年の冬のことだ。
ひとりっ子の智広は、一代で会社を築いたたたき上げの父親と、おっとりした母親に幼い頃から溺愛されて何不自由なく育てられ、都内名門の私立校は幼稚舎から始まり、そのままエスカレーター式に大学へと進学した。
それまでも、周囲は当然智広が会社の跡を継ぐのだと考えていたし、智広も異存はなかったけれど、もう少し色々な世界を見てからでも遅くないと思っていた智広は、大学卒業後はアメリカ留学を希望していた。
実は従兄の惟秋が、すでに留学してホテル経営のビジネスを学んでいたこともあって、智広はひそかにそんな生活に憧れていたのだ。
しかし智広が大学を卒業する直前、突然父親が倒れて状況は変わってしまった。幸い命は取り留めたものの、左半身に麻痺が残ってリハビリ中の父親に代わり、智広は社長代行を務めるため留学を断念しなくてはならなかった。智広は卒業すると同時に父親の会社に就職し、その智広の補佐役となるべく惟秋は、留学先から呼び戻されたのだった。
瞑られていたまぶたがゆっくりと動いて、泰一が目を開いた。
「具合はどう?」
ベッド脇の椅子に座っていた智広が声をかけると、泰一は目を瞬かせた。
「……智広か」
と、寝起きのしわがれた声で父親はひとり息子の名を呼んだ。
医者の説明によると、泰一の片マヒは左側――つまり脳内で壊れた組織は、神経が身体の中で交差しているため右側ということになる。言語中枢があるのは通常脳の左側なので、泰一の場合幸いにして支障は起きなかったのだ。そのかわり左手と左足には痺れがあって、うまく力がはいらない。
「会社はどうした」
智広に電動ベッドのリクライングを調整させて、上半身をほぼ九十度に起こした泰一が訊ねた。父の頭からは一時たりとも会社のことが離れることはないのだろう。
「心配いらないよ。戦略会議の後でちょっと抜けてきたんだ。惟秋がついていてくれるし」
智広が無理にでも明るく振舞って惟秋の名前を出すと、父の表情が少し和らいだのがわかった。
「惟秋くんは頼りになる男だ。父さんからもよく頼んであるから、会社のことはおまえと惟秋くんとでもうしばらく盛り立てていって欲しい」
「…うん」
いつまで? と、智広は訊けなかった。泰一の頭の中で、近い将来社長の席を譲るの相手は息子の智広しか考えられないのだ。その候補者の中に、惟秋はいない。
惟秋の方が智広よりずっと経営者に向いていて、才能もあって、社員から一目置かれている存在であったとしてもだ。
惟秋は智広の父親の姉の息子で、子供のころいっしょに遊んだりした間柄なのだが、惟秋が京都の大学に行ってしまったこともあってしばらく疎遠になっていた。智広の父が倒れたせいで留学先から呼び戻され、久しぶりに会った惟秋は、智広が気後れするほど格好のいい、すっかり大人の男になっていたのだった。
しかも当たり前のように仕事までできるとなると、惟秋に対する憧れとコンプレックスは、智広をいつも複雑な気持にさせた。自分の力不足を自覚しているだけに、智広の不相応な戦略企画室・室長という肩書きと、その部下となる惟秋の同・主任という呼び名が立場に、神経を逆なでされる気がする。
「かなり歩けるようになったって、母さんに聞いた」
「ああ、どうにかこうにか、という感じだな」
泰一は入院してから少し多くなった顔のしわを深めて苦笑した。
一時はずっと寝たきりか、あるいは車椅子生活を余儀なくされるかとまで心配された病状だったから、泰一の回復ぶりには身内でも正直目を瞠るものがあった。
智広の父が生まれ持ったバイタリティーは、惟秋にも通じるものがあるように思える。惟秋は一見するとクールで物静かな印象なのだが、子供のころ一緒に遊んだ記憶では、惟秋は見た目と違って実は腕白で、大人にしかられるのを承知の上でわざと悪戯をするようなところがあった。
大人になったいまでは、惟秋のそのバイタリティーは、経営不振にあえぐホテルの改革に率先して乗り出す行動力となって現出している。
惟秋が、智広の代わりに経営者一族の長男の息子だったら――。
そうであればどんなによかっただろうと、智広は考えた。だったら智広はどこまでも惟秋についていくのに……。惟秋の片腕とまではなれなくても、惟秋と一緒に仕事ができたら、いや、惟秋の下で仕事ができたらきっと幸せだろうと思う。
惟秋がトップの座について、智広は彼のサポートをする。それぞれのもっている能力に応じたポジションで無理をせず生きてゆけるのだから。
コンビニから戻ってきた母親とことばをかわしてから、智広は父の病室をあとにした。
完全介護ではあるが、長期にわたる入院のこと、毎日かかさず病室に顔を出す恭子の体調も智広は気になっていた。いつもおっとりしている母親だが、本人にもわからないところで疲れがたまっているかもしれない。
恭子が部屋に戻ってくる前に父が言った「おれがいない間、母さんを頼むぞ」のセリフが肩に重かった。病人に心配をかけてしまうほど、自分はやはり頼りないのだろうか。
少なくとも父の病室で不安そうな顔を見せてはいけないなと、智広は自戒した。そんな表情をしているから、いつも惟秋に小言をもらってしまうのだ。
これから会社に戻るのだから。智広が気合を入れ直して顔を上げ、病院出口の自動ドアを抜けたとき、惟秋が普段使いにしている白いセダンが病院前の車寄せに停車した。
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