■ 憂うつなクラゲ 3 ■

「智広さん」
  病院から智広が出てくるタイミングを計ったように車をつけた惟秋が、助手席の窓を開けて智広を呼んだ。
「惟秋、なんで…?」
  智広がクーラーの効いた助手席に乗り込みながら訊ねると、
「ついでがあったので寄っただけです。それに放っておいたら智広さん、さぼっていてなかなか会社に戻ってこられないでしょう?」
  真顔で平然と返された。
「…っ」
  ――そんなことはない。自分なりに一生懸命やろうとしているのに……。
  智広が喉元まで出かかった反論をぐっと飲み下したのは、これまでの学習の成果だった。下手に反論すれば小言が倍になって返ってくる。いや、小言だと思うのは智広だけであって、実際惟秋の言っていることはまったく理論整然とした正論だったが。
  智広が何も言わないので、運転をしながら惟秋は、ちらりと意外そうな視線を智広に投げた。
  珍しいなと、智広は思った。普段の惟秋は、滅多に生の感情を智広に見せない。智広に見せる惟秋の表情はだいたいパターン化している。眉間にギッとしわを寄せた厳しい顔つきで叱るときと、じっと智広を見つめて噛んで含めるように諭すときと……。
「社長のお加減はいかがでしたか」
  前を向いたまま惟秋が訊ねた。
「…少し、歩けるようになったらしい」
「そうですか」
  と、特に感想は洩らさずそのまま惟秋は運転を続ける。
  惟秋の頭の中では、すでに泰一は過去の人間になっているのだろう、と智広は思う。惟秋一流の冷徹さで、現社長の身に起きたのは不運な出来事だったと切り捨て、次期社長として役不足の智広を、いかに手なずけるかで頭がいっぱいなのだ。
  惟秋が次期社長になればいいんだ。
  ――そうすればすべて丸く収まるのに。しかしそれは智広の理屈であって、智広を取り巻く周囲がそれを許さないのだった。
  惟秋もよくわかっているのだろう。ふたこと目には「次期社長は智広さんです」と言う惟秋は、もしかしたら智広をお飾りの社長に仕立てて、実権は自分が握るつもりでいるのかもしれない。
  ――充分、考えられることだった。
  惟秋が会社のことを非常に大切に思っているのは、傍目から見ていてもわかることだ。大切な会社を守るためなら、智広を傀儡(かいらい)として使うことも惟秋ならためらわないのだろう。
  ……ああ、そうか。おれは惟秋にとってはただの道具なんだ……。
「ちょっとわたしの部屋に寄ります。忘れ物を取ってきたいので」
  惟秋の声に智広が物思いを破られたとき、車は惟秋が住むマンションの地下駐車場に入るところだった。

 智広が惟秋の部屋に招かれるのは初めてだ。「どうぞ」と玄関ドアを開けられて、智広は少し緊張しながら惟秋の部屋に入った。
  惟秋の部屋は十階建ての最新設備をそなえたデザイナーズマンションの八階にあった。どうせ家賃は会社持ちだし、もっと広い部屋だってあったのに、惟秋の希望は十五帖ほどのステュディオタイプだ。しかし必要最低限の家具しかないせいか、智広が思っていたより部屋は広く感じられた。
  部屋の中の空気は乾いてひんやりしている。惟秋があらかじめ携帯電話から空調をコントロールしていたのだろう。
「今日は真夏日になったそうですよ。七月下旬並みだと天気予報でいってました」
  智広をソファに座らせた惟秋の声が、キッチンの方から聞こえる。しかし智広は惟秋の部屋で見つけた、とある物に気を取られていた。
  智広が座っているソファの脇にサイドボードが置いてあって、その向こう側には天井から白いロールスクリーンが下ろされベッドルームとの仕切りになっていた。そのサイドボードの上に、水槽がある。
  幅が五十センチほどありそうなガラスの水槽の中で、緩やかな水流が作られた水の中をころんとした丸い傘をもった半透明の生き物が泳いでいる。
  少しくすんだ青色のヤツと緑がかったのが全部で五匹いた。傘をポンプのように伸縮させ、横向きになって不器用ながらも懸命に泳ぐ様子はちょっとかわいらしい。
「ただのクラゲです」
  智広の目の前にアイスコーヒーのグラスを置いた惟秋が素っ気なく言った。まるで智広に興味を持たれるのが迷惑だと言わんばかりの口調だ。
  智広は仕方なくクラゲの水槽から視線を外して訊ねた。
「忘れ物ってなに?」
「USBメモリーです。企画書のドラフトを作っていて、けさ持って出るのを忘れたのです」
  惟秋は壁際のデスクに置いてあるパソコンからメモリーを取り外して、スラックスのポケットにいれた。
「惟秋…家でも仕事してるんだ」
「こんなの仕事のうちに入りませんよ。アイデアを思いついたときにパソコンに打ち込んでいるだけですから」
「……」
「早くコーヒーを召し上がってください。会社に戻らないと日が暮れてしまいますよ」
  惟秋にせかされてグラスに口をつけたとき、智広は初めて酷く喉が渇いていたことに気づいた。そういえば、さっき惟秋が今日は真夏日だと言ったっけ。まだ六月中旬になったばかりなのに…。智広はちょうど日中の暑いときに外出したので、まだ夏の暑さに充分なれていない身体には堪えたようだ。
  もしかしたら惟秋は、忘れ物なんて単なる口実で、智広のことを迎えにきてくれたのかもしれなかった。
  そう考えると智広は少しうれしかったが、惟秋は単に社長代行の補佐役としての仕事を果たしているだけだろう。いつも智広につきっきりになって世話をしている惟秋のこと、智広が体調を崩すなどということは許せないに違いない。
  惟秋と違って、智広はお世辞にも体格がいいとは言えないし、子供の頃もよく熱を出したりしていた。一緒に遊んだことのある惟秋の記憶では、智広はひ弱な子供のイメージのままなのだろうか。

 夕方会社に戻ると、自分のデスクについた智広の前に、惟秋は一冊のファイルを広げた。
「明日の夜のパーティーにご出席のお返事があったお客さまのデータです。社長がこれまで開拓されてきたお得意さまばかりですから、粗相のないようにお願いします」
  取引先を招待して年に何回か開かれるパーティーは、ホテルのPRと接待を兼ねたものだった。泰一が倒れて社内的にもばたばたしていたため、例年より開催が遅れていたのだが、ようやく新体制を整えて、社長代行である智広の、ある意味お披露目パーティーだった。
「明日の夜までに、少なくともお顔とお名前と会社名、それからどの方面の取引先なのかを憶えておいてください」
「……わかったよ」
  分厚いファイルに目をやって、智広は不承不承うなずいた。
「先方さまも智広さんを見に来るのだということをお忘れなく」
  ダメ押しをするように惟秋が付け加えた。

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