■ 憂うつなクラゲ 4 ■

 ゆらゆらと屋外の夜景を映しこんだ水面は、青くとろりとして温かい。智広は仄暗い水中にその身をゆだねて、胎児が羊水の中に浮かんでいたときは、ちょうどこんな感じではなかっただろうかと想像してみる。
  両手と両足をぐっと伸ばしてから力を抜くと、つかの間プールの底へと沈んだ身体は、ゆったりと上昇して水面へ向かい、智広はとめていた息を思いっきり吐き出した。
  夜のプールがこんなに気持のいいものだとは知らなかった。自分には不相応な会社の仕事でたまったストレスが、身体からゆっくりと水の中へと溶け出していくようだ。
  ホテルの中にあるスポーツクラブの室内プールは、今夜、智広の貸切だった。
正確に言うと、実は定休日のプールで、ついでに言えば、今夜は智広の独断で貸切にしている。
  仰向けになって浮かんで、たったひとりで照明を落とした広い室内プールの波間に漂っていると、あの部屋の水槽のクラゲになったような気がする。整然として、部屋の住人と同じように取り付く島もないような無機質な部屋で、クラゲの水槽だけが酷く場違いなオアシスみたいに智広には見えた。
  だいたい惟秋がクラゲを飼っているなんて、智広にはものすごく意外だった。とにかく仕事第一の冷徹な男が、いったいどんな顔をして毎日あの半透明の生き物に餌を与えているのだろうか。
  まさか名前をつけてかわいがってるんじゃないよな?
  それはあまりぞっとしない想像だったが、惟秋が慎重な手つきでデリケートそうな半透明のクラゲに、そっと餌を与えるところを思い描いてみると、智広はなぜかクラゲのことが少しうらやましい気になってくる。
  今頃きっと、惟秋はカンカンだろうなぁ…。
  男らしい端整な顔の眉間にいつものようにギッとしわを寄せて、行方をくらました智広のことを捜しているに違いない。
  同じホテルのパーティー会場からこっそり抜け出して、智広が忍び込んだ先がこの室内プールだった。顔見知りのトレーナーである井上が、まだスポーツクラブの事務所に残っているのを見つけて、無理やりプールのドアを開けさせたのだった。もっとも、井上が智広に逆らえるはずもなかった。井上にしてみれば、智広は自分の雇い主の息子なのだから。

「智広さんっ!」
  叱責するような呼び声が屋内プールに反響した。
  ――思ったより早かったな。
  水の中で立ち上がって智広が声のした入口方向を見やると、傍らに井上を従えた長身のスーツ姿の人影があった。智広の予想通り――当然ではあるけれど――、惟秋は相当ご立腹の様子だった。怒りのオーラが見栄えのするスーツ姿から立ちのぼっている。
  しぶしぶプールサイドに上がると、スーツ姿の惟秋が革靴のまま大股で歩いてきて智広の前に立ちはだかった。
「いったいどういうつもりなのですか!」
  頭ひとつ分高いところから叱りつけられて、智広は反射的に首をすくめる。
  パーティーをこっそり抜け出したことは確かに悪かったが、跡継ぎとやらがどの程度の人物なのか、智広のことを見定めてやろうという取引先や関係者たち人間の、あからさまな視線にはもううんざりだったのだ。
「――パーティーは苦手なんだ」
  とりあえず弁解のことばを口にすると、ぎらりとにらまれた。男らしく整った容貌なだけに、眉間に剣呑なしわをよせて見据えられるとかなり迫力がある。
「あなたがパーティーに出席することだって仕事なのですよ。いい加減ご自分の立場というのをわかっていただかなくては困ります」
「なら、惟秋が会社を継げばいいんだ」
「会社を継ぐのは智広さんです。社長から直々に言われているように、わたしの役目は智広さんを全力でサポートすることです」
  これまでに智広と惟秋の間で、何度も繰り返されてきた会話だった。
「………」
  ぎゅっと唇をかんで押し黙った智広に、その場の雰囲気をとりなすように井上がバスタオルを差し出した。
「どうしたら智広さんは、会社のことに対してもっと真剣になっていただけるのでしょうね」
  濡れていた身体を無言で拭い始めた智広に、惟秋はわざとらしく嘆息して言った。
「……せっかく気持ちよく泳いでいたのに」
  と、我ながら子供っぽいと思える抵抗のことばが智広の口をついた。
「――スーツのまま乱入か。プールなんだから惟秋も泳げよ」
  不意をつかれたように惟秋は眉を寄せた。
  惟秋の攻勢が緩んだのに気をよくして、智広は反撃に転じる。
「それとも惟秋はかなづちなのか? そんなのがっかりだよなあ。井上さんもそう思うだろ?」
「えっ? いえ……」
  いきなり話を振られて、惟秋の左横にいたトレーナーの井上が目をぱちくりさせた。
  井上は体育大出身で、硬派な雰囲気がスポーツクラブの女性会員に人気のようだが、本人はあまり女を相手にするのは得意ではないらしい。職場柄、日常的にトレーニングができるとあって、よく鍛えられ均整のとれた体つきをしている。
  智広と惟秋のどっちの味方にもつくことができず、井上は困ったような顔をしてからスーツ姿の惟秋にちらりと視線を投げた。
  たった今まで泳いでいた智広がスイミングパンツ一枚であるのは当然だが、トレーナーの井上も上下のジャージを着ている。たぶん惟秋のスーツ姿だけが、このプールで場違いな格好だった。
「そんなスーツなんて脱いで、おまえも泳げよ」
「水着を持っていません」
  そんなこと承知のうえで言っている智広に、惟秋は生真面目な様子で答えた。
「ぜんぶ脱げばいいじゃん。どうせおれたちだけなんだし」
  同意を求めるように智広が井上の方を見ると、井上は不自然に視線を泳がせる。
「泳いでみせろよ、惟秋」
「――だったら、智広さんはもっとわたしの言うことを聞いてくれますか?」
「ああ、いま惟秋が裸で百メートル泳いだら、何でも言うこと聞いてやるよ」
  できっこないと、高をくくってのことだった。いつもきっちりと身なりを整えている惟秋に、男どうしとはいえ智広と井上のギャラリーのまえで、素っ裸になって泳ぐなんて芸当、とても彼のプライドが許すはずがない。
が――。
「わかりました。約束ですよ」
  冷静な面持ちで惟秋は念を押すと、スーツの上着を脱いで傍らの井上に預けた。そのままネクタイの結び目に指をかけてしゅるりと解く。
  機械的にボタンを外して、脱いだワイシャツとネクタイをあ然としている井上に押しつけると、惟秋はスラックスと下着を脱ぎ捨て全裸になった。
  スーツを着ているときにはわからなかったが、予想していた以上にかっちりと筋肉のついた全身に思わず智広は目を奪われた。
  仕事ばかりしていると思っていたのに、惟秋はどこで身体を鍛える時間を作っているのだろう。
  なだらかに盛り上がった胸筋から引き締まった腰と腹部のライン。当然のように腹筋は割れている。しかしボディービルダーのような華美な筋肉ではなく、あくまでも実用的な、無駄のない筋肉のつき方だった。
  そして、隠すことなくさらされた惟秋の茂みと彼の中心を確認して、見るんじゃなかったと智広は後悔した。大きさじゃない、と思う。思うけれども同じ男として、自分自身と比べてしまうのは仕方のないことだろう。
  どう贔屓目に見ても、惟秋の方が自分のよりはるかに立派だった。アレも体格に見合ったサイズだと考えれば当然頷けるのだが、智広は何もかも惟秋には敵わない気がしてなんだか不機嫌になってしまう。
  そんな智広に構わず、惟秋はまっすぐプール中央のコースに向かうと飛び込み台の上に立った。
  すっと息を吸って、惟秋の端整な表情が水面を見据える。
  きれいな弧を描いて、次の瞬間、惟秋の長身は余分なしぶきを上げることなく水の中へと吸い込まれた。
  数メートル潜水したまま滑るように水面に浮き上がった惟秋は、すばらしくきれいなクロールのフォームで、水を切って泳ぎ始める。
  百メートルは、二十五メートルプールを二往復だった。

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