■ 憂うつなクラゲ 7 ■

  夜遅くなってから、雨が降り出した。
  ホテルからふたりで乗り込んだタクシーは、そぼ降る雨の中、惟秋の指示で智広の自宅とは反対方向の惟秋が独り住まいのマンションへと向かった。ここから智広の自宅と惟秋のマンションならば、距離的には同じくらいなのだが。
「なぜ?」と訊ねたら、
「そんな顔の智広さんは送って行けないでしょう?」
  と、惟秋に言われた。
  一体自分がどんな顔をしているのかわからなかったが、熱があるみたいに頬がほてって、足元もふらつくから、多分普通には見えないのだろうと智広は思った。
「本宅には、智広さんがパーティーで酔ってしまわれたので、今夜はわたしのマンションにお泊めすると電話を入れておきました。幸い明日は休日ですし、ゆっくりしていっても構いませんよ」
「……そう」
  気のない返事をすると、惟秋がくっと眉を上げて智広の顔を覗き込んだ。
「どうしたんです? 急におとなしくなってしまわれて。いつもみたいに、勝手なことをするなとか言わないのですか」
「――誰のせいだよ……」
  視線を外しながら智広は呟いた。
  散々惟秋になぶられて、息も絶え絶えに乱れた今となっては、どんなに強がっても無駄な抵抗に思えた。
  そんな自分に羞恥心はあるものの、なによりも、惟秋に抱かれることには嫌悪感がなかったことに智広は驚いていた。嫌悪感どころか、最後の方は、自分から腰を惟秋にすりつけ縋りついていたではないか。
  智広はタクシーの窓ガラスに映る、惟秋の言う『そんな顔』というのを見た。
  ――なんだ、おれは惟秋のことが好きだったのか……。
  瞳をうるませて、頬を上気させ、唇を濡らしている自分の顔を――。
  なんてわかりやすい表情なんだ。
  わかりやす過ぎて、情けなくなってくる。
「智広さん?」
  気遣わしげな声に惟秋の方を見ると、ハンカチを差し出された。
  黙って受け取って、ようやく智広は自分が泣いていることに気づいた。
  ……泣くことなんて……ない…のに。
  惟秋は何も言わずに、そっと智広の肩を抱き寄せた。惟秋の大きな手は温かく、智広は惟秋のスーツの胸を涙で汚さないよう、声を殺して泣いた。
  やっぱり惟秋には敵わない。きっとこの先、惟秋は智広のことを意のままに操ることだろう。
  智広を抱いて、心身の抵抗を奪い去って。
  ……でも、智広を抱くのは彼の手段のひとつにしかすぎないのだ。惟秋にとってそれは、智広を従順にさせるために使うとっておきの奥の手だった。
  惟秋が智広のことを抱くのは、智広が惟秋を好きなこととはまったく別次元のことだった。

 抱きかかえられるようにして、智広は惟秋の部屋に連れてこられた。
  必要最低限の家具しかない惟秋の部屋は几帳面に整理整頓されているせいか、あまり生活感がない。ただひとつ目を引くとすれば、白い天井とロールスクリーンに、ゆらゆらと青い光を投げかけているクラゲの水槽だ。
「こんな時間ですが、お腹すいてませんか?」
  淡い間接照明をつけて、智広をソファに座らせると惟秋は訊ねた。時刻はとうに十時をまわっている。
  最初の乾杯が終わってから一通り挨拶しただけで早々にパーティー会場を抜け出してしまった智広は、軽くつまむ程度にしか食べていなかった。
「少し……」
「じゃあ、とりあえずホットミルクでも飲みますか。ああ、牛乳は苦手でしたね? ホットココアでいいですか」
  惟秋に子供扱いされるのは心外だったが、牛乳が苦手なのは本当だし、さっきまで泣きべそをかいていたのだから仕方がない。
「…うん」
  智広がうなずくと、ジャケットを脱いだ惟秋はいそいそとキッチンへ向かった。
  ソファ脇のサイドボードと、その向こう側に天井から下ろされた白いロールスクリーンがベッドルームとの仕切りになっているのは前日と同じだった。そのサイドボードの上に、同じくクラゲの水槽がある。
  夜に見るクラゲの水槽は幻想的だった。
  ころんとした傘をもつ半透明の生き物は、水の中でまるで仄かな青い燐光を放っているようだった。緩やかな水流に漂いながら、柔らかな身体をくねらせ夜の中で泳いでいる。
「なかなか可愛いでしょう?」
  惟秋が戻ってきてマグカップを智広の前に置いた。ふわりとココアの甘い香りが立ちのぼる。すぐ近くに座られると、なぜかどきんと鼓動がひとつ跳ねた。
  惟秋は智広の横に腰を下ろして、自分のカップに口をつけた。こう見えても惟秋は結構な甘党だ。男の独り暮らしの部屋にココアが常備してあるのだから、それもうなずけることだが。
  惟秋の整った横顔を盗み見ながら、智広はホットココアをひとくち飲んだ。じんわりとした甘さが胸にまで広がって、また少し泣きそうになる。
「――怒ってますか?」
「…え?」
  と、智広は目を瞬かせる。
  惟秋の男っぽい眉の下の、冴えた双眸がじっとこちらを見つめていた。
「あなたを無理やり抱いた」
「…っ」
  智広はひくりと、のどをひきつらせた。
「そんなの…っ、…身体に…躾けるって言ったのは惟秋じゃないか」
「ええ、そうですね」
「見ただろ? おれが…っ、…おれが、おまえを咥え込んで、思いっきりイッたのを…っ……!」
  自分でしゃべりながら感情がふいに高ぶり、智広は頬を涙の粒が滑り落ちるのを感じた。
  惟秋はただ、智広を従順にさせる目的のために抱いただけなのに、どうして自分はあんなに感じてしまったのか。浅ましく喘いで、もっと…と、求めてしまったのか。あまつさえ井上にも弄られて達してしまったのか。
  智広はものすごく自分が淫乱で、みじめに思えた。
  惟秋のことが好きなのだと、気づいてしまった自分が哀れだと思った。
「――後悔してます。あなたのあんな顔、他の誰にも見せたくなかった」
  と、ややあって惟秋が言った。
「じゃあ、どうしてっ!?」
「井上くんに手伝わせたのは、今夜のことを口止めするつもりからでした。まさか自分も加担したことを、誰かに言いふらす訳にはいきませんからね」
「……いつも、惟秋はあんなことするのか」
  思わず責めるような声色になった。
「……?」
  惟秋が軽く目を瞠った。
「これからもおれを抱くのか? 言うことを聞かせるために?」
  なぜか唖然とした表情になって、惟秋は智広の顔を見た。
「――なにか……誤解があるようですね」
「何が誤解なんだっ!」
  思わず智広は叫んでいた。
「もういい加減呆れてるんだろう? おれの補佐役なんて飽き飽きしてるんだろうっ!?」
  叫んだら、一気になだれを起こしたみたいに止まらなくなった。
「だから言ってるじゃないか! 会社は惟秋が継げばいい…っ…おれなんかより、惟秋の方がずっと社長に向いている。仕事ができて、自信家で、スーツが似合ってっ…!」
  支離滅裂な言い分だったが、とにかく智広が言いたいことは、自分より惟秋の方が優秀で、智広は役に立っていないということだった。
  役立たずだと自分で認めているのだから、もう許して欲しい……。
  もうこれ以上、智広は惟秋のお荷物になりたくなかったのだ。
  しかし――、
「言いたいことはそれだけですか?」
  と惟秋は、いつものように眉間に険悪なしわを刻むことなく、静かな表情で智広の顔を見返した。
「う…」
  ぐっと詰まった智広は、精一杯の虚勢をはって惟秋の視線を受け止める。

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