「……ほんとうに子供ですね」
ため息混じりに惟秋が呟いた。ほとほと疲れ切ったという様子だった。
「まだそんなことにこだわっていたのですか」
「そんなこと、なんかじゃないっ」
すると惟秋は少し首を傾げるようにして、智広の顔を見つめた。
「――わたしは……智広さんのプライドを傷つけていましたか?」
「…っ」
おそらく図星だった。智広がどんなに惟秋に憧れても、智広は智広のままで惟秋のようにはなれないのだ。
それでも智広は惟秋のことが好きで、惟秋の期待に応えられない自分のことが嫌いになる。
「じゃあ教えてあげましょう。わたしがどうしたって智広さんに敵わないことを。智広さんにはあって、わたしにはないものを」
「そんなものが――」
――あるはずない!
「いいえ、あるのですよ。智広さんには人望がありますから」
「……え?」
そんなことを言われたのは初めてだった。惟秋がそう言われるならわかるが、どうしてそれが自分なのか納得できない。
「そんなわけ……ないだろ?」
「いいえ、そうなのです。確かにうちの社長はワンマンですが、あの社長だからこそ取引をしたいという相手は大勢いるのです」
惟秋は真剣な面持ちだった。
「だから今回社長が入院されても、あの社長の実の息子のあなたがその跡を引き継ぐというのなら、しばらく様子を見てみようという取引先は多いのです」
近年外資のホテルチェーンが日本に続々と進出している中、買収もどんどん進んで、力のない経営陣ではあっという間に経営が立ち行かなくなるのは必至だ。
「でもそんなの親の七光りだろ」
智広が早晩、自分の力不足を露呈するのは目に見えていた。
「本物にすればいいのです」
と、惟秋が言った。
「最初から何でも上手くいくはずはありません。大学を卒業したばかりで、智広さんにうちの社長業がまともに勤まるなんて、誰も思ってはいませんよ」
「だったら――」
「でもそのためにわたしがいるのです。智広さんのサポートは、全力でこのわたしが当たります。だから智広さんには、ちゃんとスタートラインに立っていただきたいのです」
「スタート…ライン……?」
スタートラインにすら立っていなかったというのは惟秋の言うとおりだった。智広は怖気づいていたのだ。急に父親が倒れて、まだ遊び足りないとすら思っていた智広に、いきなりの重責がのしかかったのだから。
「智広さん」
と、間近に惟秋の冴えた双眸が智広をじっと見つめた。
「わたしは会社のことを、そして何よりもあなたのことを大切に思っています」
「惟秋…」
「社長が倒れられて留学先から呼び戻され、あなたに久しぶりにあったとき、わたしは智広さんとふたりで仕事ができるのだと思ったら、大変な時期のはずなのに不謹慎にも期待に胸が高鳴りました」
惟秋がそんなことを思っていたなんて、仕事一筋の冷徹な表情からは全然想像できなかった。
「――なのに智広さんは、いじいじとして全く不甲斐なくて、まるでジェリーフィッシュのようで」
「ジェリーフィッシュ?」
と、智広は目を瞬かせた。
「クラゲのことですよ。英語ではあなたみたいにいじいじとしたひとのことも指すのです」
酷い言われようだったが、智広に反論の余地はない。
「だからわたしは決心したのです。智広さんをちゃんと鍛えて、立派な次期社長にしようと。クラゲのまま終わらせるわけにはいかないと」
「……クラゲって」
何度も連発されて智広は少し脱力する。
「今日だってあんな、パーティー会場から逃げ出すなんで子供っぽいことされて、わたしも堪忍袋の緒が切れたのですよ」
「………」
智広は自分の痴態を思い出して、思わず顔をうつむけた。
「でも荒療治が効きすぎましたね。……泣かせるつもりはなかったのです」
惟秋が右手を伸ばし、優しげな仕種で髪をなでられて、智広はひくりと身を震わせた。
「もうあんなこと、二度としないと誓います。第一、あなたのあんな色っぽい姿をわたし以外の誰かの目に触れさせるなんて、とても許せませんから」
惟秋のものとは思えない、ものすごく利己主義な発言に仰天して、智広は惟秋の端整な顔を見返した。
「だから間違えないでください」
惟秋はいつくしむような視線で智広を捕らえると言った。
「わたしが智広さんを抱いたのは言うことを聞かせるためではなくて、わたしがあなたを抱きたくてたまらなかったからです」
「惟…秋……」
ああ、なんて勘違いをしていたのだろうと智広は思う。
仕事第一の冷徹人間で、会社をまもるためなら、惟秋は智広のことを力でねじ伏せて意のままに操りもするのだと思っていた。
惟秋にならそうされてもいいと、一瞬でも思ってしまった自分が、我ながらなんだかいじらしい。
「いいこと教えてあげましょうか?」
と、惟秋がいたずらっぽい微笑を片頬に浮かべた。惟秋の視線の先にはゆらゆらと青い光を放つクラゲの水槽がある。
「あのクラゲ、ブルージェリーという種類ですが、『智広さん』という名前なんですよ」
「な…っ!?」
「毎晩仕事から帰ってから『智広さん』に一日の出来事を話すのが習慣なのです。今日は智広さんが会社でどんな失敗をしたとか、わたしにどんな口答えをしたとか」
「…どうしてクラゲが『智広』なんだよ」
「だって、ぴったりでしょう? ――わたしの好きなものはみんな『智広さん』なんですよ」
臆面もなく応じた惟秋に智広は訊ねた。
「アレ五匹とも『智広さん』?」
「そうですよ。一号から五号までいますが」
にっこりすると惟秋は智広の手をとりソファから立ち上がらせた。
手を引いて、ロールスクリーンの向こう側、ベッドルームへと誘う。
ベッドルーム側から見ると、クラゲの水槽はスクリーン映し出される幻想的な影絵のようになっていた。ゆらゆらと漂う青いクラゲがスクリーンの上で泳いでいる。
「……なんでクラゲなんだ」
と、もう一度智広は呟いた。
「妬いているのですか。相手は……クラゲですよ?」
惟秋は、智広がこれまでに見たことのない男っぽい極上の笑みを浮かべると、そっと智広をシーツに押し倒して口づけた。軽くついばむように、何度も角度を変えて、惟秋は智広の唇の感触を味わうように自分のそれを押し当てる。
しかしそれ以上は仕掛けてこない惟秋の様子に、焦れるような甘い感覚がわき上がってきて、智広は我知らず吐息を洩らした。
「抱いてもいいですか?」
唇を離して惟秋が間近で訊ねた。
「……なんで、そんなこと…訊くんだよ」
思わず頬に血をのぼらせて智広は言った。ジャグジーで惟秋に抱かれて散々乱れた後だったので、改めて訊ねられるのは酷く恥ずかしい気がする。
「二度と、無理やりしたりしないと、さっき誓ったばかりですから」
にっこりと余裕の笑みで答える惟秋を、智広は涙目でにらんだ。
「智広さん、言ってください。……あなたのことを抱いてもいいと――」
惟秋の声に懇願するような色がわずかに滲んだ。
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