フィフティ・フィフティ1

 シティーホテルのシンプルなツインルームだった。片方のベッドは使われないままシーツにしわひとつなく。
  意識が飛んでいたのは、ほんの数分だろう。うっすらと眼を開けると、最初に見えたのは冴島の精悍な容貌だった。満澄を見下ろして少し笑ったようだ。いつも不敵な微笑――。
「よかったか…?」
  低くささやくように冴島は訊ねた。
「……う」
  と、満澄は答えに詰まった。年下の男にいいように乱されて、羞恥から顔が熱くなる。
  後ろだけで思いっきりいって、失神までしているのだ。よかったに決まっている。わかっているくせに、わざわざ冴島の口から『よかった』と言わせたがる冴島は意地悪だ。
「どうなんだ」
  冴島が腰を擦りつけるように動かした。
「うっ、あ…っ…」
  まだ繋がったままだった部分からずくんとした刺激が全身に波及した。ぐりと満澄のポイントを擦りながら、急速に硬度を増していくのがわかる。
「お、おいっ」
「なんだ」
  涼しい声で応じて、冴島は満澄を引き寄せるようにして身体を密着させた。
「……っ!」
  ふい接合が深くなって思わず息を飲んで眼を閉じ、満澄は眉根を寄せた。
「――さ、え島っ、もう……」
  もう身体が持たないと、抗議しかけた唇を冴島のそれが塞いだ。下半身に楔を深く埋め込みながら、冴島の舌は官能的な動きで満澄の舌を絡め取っていく。

 甘く霞んでいく意識の下で満澄は喘ぎながらも密かに苦笑した。四歳も年下の冴島にベッドの中でさんざん翻弄されて、組み敷かれた身体は悲鳴を上げ始めているのに。
  ――込み上げて来るこの充足感は一体何だろう?
  愛だとか恋だとか、いい歳してそんなこと言えない。しかし一昨日にあの場所で冴島を見たとき、満澄は言い様のない熱い気持が胸に溢れて、ことばもなかったのだ。
  美里と間宮の計らいで冴島と再会を果し、満澄は今度こそ奴を逃がさないようにしようと固く心の内で決意している。
  障害や問題は山積みだったが、一生のうちに誰かひとりぐらい、執着できる人間が存在したっていいじゃないかと満澄は思う。
  開き直って満澄は冴島を抱き締める。どうか消えてくれるなと願いながら――。

 シャワーを使ってバスルームから出てきた冴島の、ジーンズだけで上半身は裸の背中を見て、まだベッドの中にいた満澄は思わず瞠目し慌てて視線を逸らした。
  満澄の反応に濡れた髪をバスタオルで拭いながら、不審げに冴島は眉を寄せた。
「……すまん」
  呟くように詫びた満澄に『なんだ?』と冴島は眼を向け、満澄がちらりと視線を投げた自分の背中に気づく。
  冴島の背中には切々と刻まれた満澄の爪痕が、長く赤いみみず腫れになっていた。女のように爪を伸ばしている訳ではないので、大した痛みもなく言われるまでわからなかったが。
  くつくつと喉の奥で密かな笑い声を立てた冴島に、満澄はいたたまれない気持で毛布を握りしめた。
  口元に笑みを残したまま、笑いを納めると冴島は満澄がいるベッドに腰を下ろした。
「こっち向けよ」
  嫌がる満澄の顎を掴んで、強引に顔を起こさせる。
「かわいいな、あんた」
「なっ…!」
  ――言うに事欠いて、なんという言い種!
  絶句した満澄に冴島は見愡れるような微笑を閃かせた。
「もっとつけてくれ……」
  唆すような声色。
「――バカヤロ…」
  ようやく満澄はそんなセリフを絞り出した。

「もう行くのか?」
  朝の光の中で身繕いした冴島を見て、満澄はこっそりため息をはいた。もう放したくないと思っても、きっとまた奴はあっさり姿を消してしまうのだろう。
  ――野良猫には首輪はつけられない。
「ああ」
  と、冴島は満澄の顔を見た。冴えた双眸に名残惜しげな色が一瞬浮かんで消えたと思ったのは、きっと満澄の気のせいだ。
  ――首輪はつけられないが。
「これを持って行け」
  満澄は自分の上着のポケットから一台の携帯電話を取り出した。最近満澄が自分の名義で新たに契約したばかりのものだった。
「これでたまには連絡をよこせ」
  冴島は差し出された携帯にじっと眼を落とすと、「わかった」と言って受け取った。
「黙ってくだばるなよ」
  念を押すように満澄は言った。
「死ぬときは、おれに断ってからにしろ」
「………」
  まじまじと冴島が満澄の顔を見返した。やがて、その精悍で端整な顔に微苦笑が浮かんだ。
「わかった。死ぬ前にはちゃんと言う」
  酷い約束だと思う。そんな日が来ないことを満澄は切望している。それでも、黙っていなくなられるより、ずっとマシだった。
  もうお互い貸しも借りもないのだ。裏社会に足をつっこんでいる自分たちには、これだけの繋がりでも充分なのだと思いたい。
  部屋から窓の下の通りに眼を凝らしていると、建物から出た冴島の姿を見つけられた。冴島の長身は冬の朝の雑踏に紛れ、すぐに見えなくなった。

 「うまくいってるの?」
  高級車の広い後部座席の皮張りのシートに座っていると、すぐ隣の彼女からさりげなく訊ねられた。
  スーツ姿の冴島は、表情を動かすことなくすぐ脇にいる若い女をちらりと見遣った。
  今日の彼女は身体にぴったりとしたスリムなラインが大人っぽいミッドナイトブルーの、スパングルがびっしりとちりばめられたドレスをまとっていた。きれいな背中と細くたおやかな白い腕と、すんなり伸びた足を惜し気もなく人目にさらすようなデザインだった。華奢な体つきなのに胸の膨らみはボリュームがあって、男なら思わず邪な想像をしてしまいそうに魅惑的だった。
  しかしそんな見掛けとは裏腹に、最近の彼女はどこか凛とした雰囲気で、今夜はまるで熱帯魚のブルーディスカスみたいにクールだ。

 冴島が答えないでいると、彼女はくっきりとした瞳の、きれいにカールされた長い睫を瞬かせた。その顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
「あのひと、ちょっと素敵だった。タイプかも……」
  冗談だとわかっているのに冴島は思わずぴくりと反応してしまい、彼女を喜ばせることになった。
  途中ブランクがあったものの、冴島がこの社長令嬢のボディーガードを始めてそろそろ一年になる。今夜は彼女が在学している大学で、指導教官の教授が何かの賞をとったとかで記念パーティーに向かうところだった。
  男癖が悪くて、誰から見ても魅力的な自分の娘を心配したクライアントの父親が、ボディーガード兼お目付役として冴島を指名したのは、彼女がどんなに誘惑してもなびかない男であることが必須条件だったからだ。
  ――見られたのはマズかったな。
  楽し気にこちらの反応をうかがっている彼女の視線に気づかない振りをして、冴島は胸の中で独りごちた。

 二ヶ月前のクリスマスの夜、彼女をエスコートしてベイエリアにあるホテルのパーティー会場を出たところで、冴島は思いがけず満澄と再会したのだった。
  あのとき絡み合う視線にすぐにふたりの間柄を悟った彼女は、冴島をひとりその場に残してさっさと迎えの車を出してしまった。
  だから彼女の『うまくいっているの?』とは、もちろん満澄を指していることばだ。
「――二ヶ月あってません」
  彼女の追求から逃れられないと観念した冴島がしぶしぶ応じた。
「えっ!」と、小さく彼女は息を飲んだ。「そんなに長い間放ってあるの? もしかして放置プレー?」
  ぐっと詰まって、冴島は彼女を見返した。たったいま際どいセリフを吐いた唇は、ふっくらと艶やかだ。
「……違います」

 満澄が別れ間際にくれた携帯電話を、冴島はまだ使ったことがなかった。『これでたまには連絡をよこせ』と言った満澄から、これにかけてくることはないだろうとはわかっていた。
  満澄は冴島の気持を察してくれている。どんなに惹かれあっても、溺れることのできない関係――それが冴島と満澄の間柄だった。
  ――いや、もう溺れているか……。
  パーティーが終わってから彼女を自宅の屋敷へと送り届けた帰り道だった。地下鉄の駅へと徒歩で向かいながら、スーツからラフな服装に着替えた冴島の左手は、レザージャケットの左ポケットの中で携帯を弄んでいる。
『かわいそう……』と、彼女が洩らした感想が、冴島の気持をざわめかせていた。『好きなひととずっと会えないなんて、恋人がかわいそう』
  それは当人同士の事情を知らない、若い彼女の無邪気な感想ではあったが――。
  いつも側にいることだけが、確固たる繋がりではないと冴島は知っている。きっと満澄もわかっている。
  だから冴島も約束したのだ。黙っていなくはならないと。死ぬときにはちゃんと告げると。

 地下鉄駅への入口階段を降りながら、冴島は携帯を取り出した。ただひとつ登録されている番号を押す。短い呼び出し音の後に声が聞こえた。
(もしもし? ……冴島、なのか…?)
  そっと気配をうかがうような、懐かしい声。満澄の声――。

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