宵闇鬼と姫巫女 (2)

「ありがとう。ちょっと前に起きてた。なんかけさは早く目が覚めちゃって。元気?」
「父さんは、まあまあだ。おまえは変わりないか?」
  ニューヨークに赴任した直後の父は、澪に「ちゃんとご飯を食べているか?」とか、「大学はどうだ?」とか、三日と間を空けずに電話やメールをしてきたものだ。「ぼくは大丈夫だから」と澪が何度も繰り返したおかげでいまでは週一程度になったが、日本の実家で一人暮らしの息子が心配でしかたないらしい。
  澪が高校二年のとき、いっしょに暮らしていた祖母が亡くなって父との二人暮しになった。それまで家事はすべて祖母がしていてくれたので、篠葉家の日常生活のクオリティーは一気に下がった。
  大手商社に勤務している父の聡は仕事が忙しく、息子の世話を焼いて家事までする余裕など当然なかったのだ。結果、大学受験を控えていた澪が「できる限りの範囲で」家事を受け持ち、なんとかやりくりするようになった。
  最初のうちは炊飯器の水の分量を間違えてご飯が半煮えになったり、夕飯のおかずに市販の冷凍のコロッケを揚げようとして、油の温度が低すぎたため鍋のなかでぼろぼろに分解したり、とにかくやってみて初めてわかる失敗の連続だったが、推薦で志望の大学から無事合格の通知を受け取ったころには、澪は基本的な料理を含め、ようやく一通りの家事がこなせるようになっていた。
  ちょうどその直後、父の聡には予想外のニューヨーク転勤の辞令が出て、澪の実家での一人暮らしが始まったのだった。
「うん、何も問題ないよ。うん、大学もうまくやってる。ありがとう、父さんもね。うん、じゃあ」
  いつもと同じような会話を交わして電話を切った。二十歳になったからといって、いつもと日常が変わるわけではないのだろうと思う。
  汗をかいているのでシャワーを浴びて着替えようと、澪はバスルームへと向かった。Tシャツとジャージのハーフパンツ、下着を脱ぎ捨て、ぬるめに設定したシャワーの飛沫の下に身をさらす。
  素肌の上を流れていくお湯をぼんやりと見つめていると、目隠しのすりガラスの浴室の窓越しにセミの鳴き声が聞こえる。東京の梅雨明けにはもう少し間がありそうで、今日の天気は曇り空だ。もしかしたら、少し雨がぱらついているかもしれない。
  手のひらにボディシャンプーを出して、適当に泡立て身体を洗いはじめる。昨晩は寝る前にもシャワーを浴びているので、お湯だけでよかったのだが、習慣でボディシャンプーのポンプを押してしまった。肌が弱いので洗いすぎはよくないのだが。
  と、澪はふと手をとめた。自分の右内腿にあるものが見えたからだ。
  奇妙なアザのようなもの――それは突然現れたものではなく、誕生日の少し前からうっすらと見えていたのだが、こすったのかもと、あまり気にしていなかった。
  ところが今見たら、くっきりと浮かび上がっているのだ。
  ――なんだ、これ……。
  大きさは五センチほどだろうか。赤黒い、唐草模様のようにもみえるアザが、肌にまるく浮かび上がっていた。打撲あとのようにも見えるが、さわっても痛みはないし、そもそもぶつけた記憶がない。薄気味悪く思ったが、服を着てしまえば人目に触れる場所でもない。澪は気を取り直してボディシャンプーの泡を洗い流すとバスルームを出た。
  チノパンツと新しいTシャツを身に着け、バスタオルを肩にかけたまま、水を飲もうとキッチンへと向かう。リビングと続き間になっているダイニングに脚を踏み入れたとき、ふいに鳥肌が立った。庭に面したサッシが開いていて、レースのカーテンが生ぬるい湿った風にゆれている。きのうの晩にちゃんと鍵をかけたはずなのに――。
  リビングへと不審な視線を向けた澪は、「うわっ!」と、われ知らず叫び声をあげた。心臓が激しく早鐘を打ちはじめる。
  フローリングの床にひざまずいているひとつの黒い人影があった。
「お迎えにあがりました」
  うやうやしくひれ伏して、その人影が言った。
  声からして男だと思ったが、確信は持てなかった。澪のすぐ目の前、そこにいるのに黒い影のようで、姿かたちがよくわからない。顔も着ているものも、なぜかぼんやりして見えないのだ。
  澪が聞いたと思った声すら、本当にこの人影が発したのか定かでない。不審者が家の中にいるというのに、奇妙に現実感がなかった。
「誰……?」
  ようやく声を絞り出す。
「――姫、宵闇さまがお待ちです」
  平伏したまま、黒い人影は重ねて告げた。
「っ……!」
  一一〇番だ。変質者だか何だかわからないが、とにかく警察だ。
  背中にじわりと嫌な汗が流れるのを感じながら、澪は真っ白になりかけている頭のすみで考えた。しかし、固定電話は男のすぐ脇にあるカップボードの上だし、スマートフォンは二階の自分の部屋だった。
「姫よ、われらの王がお待ちだ」
  黒い影はさらに言いつのった。その声色は、澪が応えないことに苛立っているようだ。第一、男の自分が『姫』などと呼ばれること自体、意味不明だ。
  しかし、下手に刺激しないほうがいいという思いから澪は言った。
「あの、何のことかわからないんですが……」
「来ればわかる」
  いきなり立ち上がると男は澪の手首をつかんだ。手の冷たさに澪は思わず後ずさろうとしたが、男は許さず強引に澪の体を引き寄せた。一六八センチの澪より男は遥かに大柄だ。
「いやだ、放せっ」
  全身の毛が逆立つような嫌悪感に、澪は男の手を振りほどこうと、もがいた。
「神塚の姫、逃しはせぬ」
  さっきまでのうやうやしい態度を一変させて、男は乱暴に澪を引きずって外へ連れ出そうとする。
「だっ、誰か! 助け――」
  澪が悲鳴を上げかけたのと、サッシのガラスが吹き飛んだのとは、ほぼ同時だった。見知らぬ少年が澪と男の間を割って、リビングに飛び込んできた。
「逃げろ!」
  澪に向かって叫ぶと、少年は澪を護るように黒い影のような男の前に立ちはだかった。
  小柄な身長は男の肩ほどしかなく、少年は高校生ぐらいに見える。
  黒い影のような男は憤怒の形相で――実際は見えないのだが、澪にはそう思えた――少年をにらみつけた。
「邪魔立てするか、神塚のしもべ」
  少年は無言のまま、意志の強そうな黒い瞳をきらめかせて黒い影の男を見返す。次の瞬間、目に見えない衝撃波のようなものが黒い影から放たれ、少年のほうもまた、目に見えない防御壁のようなものを出現させた。部屋のものがめちゃくちゃに吹き飛び、食器棚のグラスが砕け散る。
「逃げろっ、早く!」
  呆然とする澪に振り向きざま言い放つと、少年は黒い影の男を引きつけてリビングから庭に飛び出していく。
  何がなんだかわからず、しかし少年の迫力に気おされ、澪は後ずさりながらダイニングを後にし、もつれる脚で玄関へと走った。

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